第一章 妖狐

謎の少女

 C県某所にある神山町(かみやまちょう)———

 僕はこの街で生まれ、この街で育った。

 この街を一言で表すなら「普通」の一言に尽きる。田畑が点在しているが、囲まれている訳ではない。超高層ビルはないが、そこそこ高いマンションは存在する。生活の基盤は車であり、この街に住む人は大抵車で数分のところにあるスーパーで買い物をしている。改めて見ても面白みのない街だ。

 しかし、この街にも何故か特色というものが存在している。ここ神山町は中心部が盛り上がっており山になっているのである。山の名前は新狐山(しんこやま)という。どうやら昔からある山らしく、小学生の時分にフィールドワークと称して山の生態系について調べたり、近所の爺さん婆さんに山の歴史について聞き回った事がある。

 それにしても何故古い山なのに「新」が付いているのか。

 この疑問の答えは今のところ判明していない訳であるが、歴史に興味のない僕には永遠に分かる事はないだろうとも思う。

 さて、特色というのは別にこの山そのものではない。そこで開かれる祭りの事なのだ。

 八月某日に毎年開かれる神山町の一大イベント———


「新(しん)狐(こ)祭(まつ)り」である。


 僕は今、この祭りに向かっているのだ。

 この祭りは神山町のみならずC県でも有数の祭りとして夏を賑やかしている。いつから始まったのかは定かではないが、爺さん婆さんの頃には既にあったらしい。とすると五十年以上の歴史はあるのだろうか。ひょっとすると百年以上続いているのかもしれない。その歴史の長さ故であろうか。新狐山の頂上に建っている新(しん)狐(こ)神(じん)社(じゃ)。そこから麓(ふもと)にかけて点在する提灯は大分古ぼけていて吹けば消えるような弱い灯でこの祭りを照らしている。こんな汚い提灯をいつまでもぶら下げているなんて縁起が悪そうなものなのだが、いつになったら新調するのであろうか。それとも伝統だとかで理由をつけて完全に壊れるまで変えないつもりなのだろうか。

 目線を下げると屋台が立ち並んでいるのが見えてきた。人の渦の中をかき分けて進むと焼きそば、フランクフルト、かき氷など定番の屋台が盛況していて、辺り一面に香ばしい匂いが立ち込めている。古ぼけた提灯と人の渦の不釣り合いさに僕は苦笑しながら今日の晩ごはんを吟味する。一つ買うのにも十人程度並ばされるという事実に辟易しながらも僕は何とか唐揚げと焼きそばを買う事に成功した。どこか落ち着いて食べられるところがないだろうかと探すとちょうど良くベンチがポツンと空いているのが見える。


「はぁ疲れた。何がそこまで人を惹きつけるのかね、この祭りは」


 ベンチに座った僕は思わずため息を漏らしてしまう。

 というのも僕は元々この祭りに来る気などなかったのだ。自発的に「来た」のではなく、強制的に「行かされた」という表現の方が正しい。

 では、何故現在両の手に唐揚げと焼きそばを抱えているのか。

 別段大した事ではない。ただ少し、ほんの少しのイレギュラーだ。


 ———僕。

 妖田怜(あやしだれい)は現在中学生で絶賛夏休み満喫中の健康優良児である。

 中学生が夏休みにする事といったら決まっている。

「家でゴロゴロする事」である。

 日がな一日中本を読んだりゲームをしたり、音楽を聞いたり、惰眠を貪ったりして一日を過ごすのが中学生の本分である。

 勉強? 

 デート? 

 友人とカラオケ? 

 そんな物は真の幸せを知らない奴らにやらせておけばいい。

 僕の一日が最上で最高だ。誰にも文句は言わせない。

 何事にも代えられない幸福が確かにこの休みには存在している。

 そして今日も幸せに包まれて一日を終えられると思っていた。

 自室のドアが開けられるその時までは———


「怜、起きてる?」


 惰眠を貪っていた僕に一閃。母さんの声だ。

 幸せな一日は母さんの一言によって終わりを告げられたのだ。


「ちょっと母さん。勝手に開けないでよ」


 布団を深く被り直し、母さんに不満の声を漏らす。

 平穏はいつだって母さんによって打ち砕かれるのだ。天然で掴みどころのない母親だ。授業参観の時の休み時間。僕は友達を作らない主義の為(決して出来ない訳ではない)机に突っ伏して寝たふりをしていたにも関わらず、「怜~」と名前を遠慮なしに呼んで笑顔で手を振っていた。あの時の恥ずかしさったらありはしない。人生で三つ後悔した事を挙げるとするなら先ず授業参観を休まなかった事を挙げるくらいにはキツイ思い出である。


「ちゃんと外に出ないとダメだぞ。日の光を浴びないとモヤシになっちゃうぞ~」


「やだ。外には出たくない。今が人生で一番幸せの時だから! 幸せのピークだから!」


 僕は布団を最大限に被って抵抗する。外に出たくない事を全力でアピールする。

 しかし、エイッという掛け声とともに僕を覆っていた天使の羽衣は引き剥がされ、か弱い肉体が外界に露わになってしまう。寝起きだからという理由だけでは済まされない苛立ちに包まれ、僕は文句を垂れ流す。母さんの方を見るともう掛け布団をバルコニーに干してしまっていた。もうこれ以上惰眠を貪る事は無理そうだ。ならば仕方がない。本当にほんとーうに仕方がない。イヤイヤ、イ・ヤ・イ・ヤ母さんに向き直る。


「で、何で無理矢理引っ剥がしてまで起こした訳?」


「だって、偶には外に出たほうがいいじゃない? ずっと家にいても体調を崩すわよ」


 体調は良好だ。至って健康な体である。だから外に出る必要なんかない。それらをアピールする為に屈伸や伸脚、腕を回したりして健康さを演出する。


「そんなアピールしても無駄だからね~。ほら、着替えなさいよ」


「着替えるったってどこも行きたくないよ。この家から出る気はないからね」


「あっそう、まぁそれでもいいけど。因みに今夜は晩ごはん作らない予定だからね」


 母さんは素っ気なく、まるで当たり前かのように言い放った。

 晩ごはんがない? それは困る。一般中学生の僕にとって晩ごはんがないのは死活問題だ。最も食べ盛りのこの年齢の息子に晩ごはんを抜くのは鬼か? 悪魔か? 何れにせよ酷い事には違いあるまい。何より母さんは嘘を付かない人なのがたちが悪い。というより正直すぎて上手に嘘を付けない人なのだ。今年のエイプリルフールに母さんに嘘を付いてとお願いしたら「今日は昼からマカロニが降るらしいわ」とか訳分からない事を言っていた。そんな母親が晩ごはんを作らないという嘘を言える訳がないのだ。


「じゃあ夜はどうすんの?」


「今日はなんの日でしょ~うか」


 不意の質問に面食らってしまった。今日が何の日か。日曜日という事以外に特別な事は思い当たらない。別に誰かの誕生日って訳でもない。


「は~。あんたはもっと自分の事以外に関心を持ちなさいな。今日は新狐祭りの日でしょうが」


 新狐祭り。

 なるほど。母さんは祭りという名目で僕を外に出そうとしているのか。晩ごはんを屋台で食べさせるつもりなのだ。だが、あいにく持ち合わせが全然ない。お年玉はすべて娯楽に費やしてしまったし、中学生だからお金を稼げる訳でもない。お金がないのだからしょうがない。外に出られないのはしょうがない。言い訳ではなく仕様がないのだ。


「新狐祭りでご飯食べるって言っても屋台は高いよ。今お金持ってないからかき氷の一つも買えないよ」


 こういえば何か晩ごはんを用意してくれるだろう、そうでなくても祭り用にお金をくれる公算が高い。どちらに転んでも旨味がある。


「は~、しょうがないわね。ほら、じゃあお金を授けてしんぜよう」


 母さんは財布を取り出し中身を探り出した。後者だったか。家から出なくてはならないが、いつもと違うものを食べる事ができるのは少し楽しみではある。何より余ったお金は自分の懐にしまって後で自由に使える。何円くれるだろうか。三千円くらいか? はたまた五千円に突入するか? 


「ほい。千円どうぞ」


 え? 

 は? 

 ちょっと。


「あの〜母さん? 流石に少なすぎる気がするのですが」


 いくら何でも無慈悲すぎる。昨今の値上がりを母さんは知らないのか? スーパーに行ったって千円だけじゃすぐに使い切ってしまう。そんなレベルだぞ? ましてや屋台で千円なんて一個か二個買ったらすぐになくなって手元に百円玉が残るか残らないかだぞ? 

 こんなんでどう夜を乗り切ればいいって言うんだよ。


「あんたなんて千円あれば十分でしょ~。こんなヒョロい体型なのにたらふく食っても贅肉になるだけよ」


 どうやら僕の思いは全て見透かされていたらしい。そんなに顔に出ていたか? ムッとして言い返そうとしたが言い返す言葉が見つからない。食べ盛りの中学生男児とはいえ帰宅部なのだ。せいぜい母親よりも食べる量が多いくらいである。腹一杯にはならなくても千円分食べれば深夜に空腹に苦しむ事はないだろう。


「じゃあこれでいいよ……」


 渋々千円を受け取り、財布にしまう。


「あっ、お母さんはもう祭りの手伝いで行っちゃうからね。ちゃんと窓とドアの鍵を確認してから家出てね」


 そう言い残して母さんは部屋から出ていった。

 さて、外か。外に出るのなんて一ヶ月ぶり、終業式ぶりくらいか。

 何の服を着て行けばいいんだ。

 クローゼットの中を見てみるがヨレヨレのTシャツと色褪せたズボンのみが乱雑に詰め込まれているだけだった。とても外に着ていけるような服ではない。

 もうジャージでいいか。

 家でいつも着ている学校指定のジャージに目をやる。

 学校指定のジャージを着ている姿を同学の人に見られたら恥ずかしい。

 しかし、別に友達がいる訳ではない僕にとってバレたら事故みたいなものだ。笑って誤魔化してやるさ。それに縒れてはいるが、全身紺色で目立ちはしないだろう。

 そうこうしているとバタンと家のドアが開閉する音がした。母さんが出かけたのだろう。

 さて、行くか。

 身支度を整え、母さんが忘れてった干された布団をイヤイヤながらも取り込んで、そして母さんに言われた通り窓の鍵を確認し、スニーカーを履き、玄関のドアに鍵をかけた。

 じゃあ、行ってきます。

 そうして、僕は西日を背にして新狐祭りへ歩を進めたのである。


 それから時が経ち、すっかり日が落ちてしまった今に至るという訳である。今手元にあるのは数ある屋台の中から頭を捻って考えた結果の産物だ。焼きそば四百円、紙コップに入った唐揚げ五コ五百円である。


「あっという間に千円がほぼなくなっちまったなー」


 残った百円を爪で弾きながら虚しさが口から出てしまう。

 屋台の食べ物に対する食欲よりも喪失感のほうが大きいのは僕が貧しい人間だからなのか。腹は減っているが、なかなか手を付けられずにいる。しかし、このまま時間だけが過ぎていくのも癪なのでとりあえず唐揚げをパクリ。


「———美味い」


 にんにくが効いている美味しい唐揚げである。ただ、その美味しさは想像の域を出ない。どちらかといえば美味しいというだけである。やはり一コあたり百円というのが尾を引いている。あまりに高すぎる。屋台価格といえばそうなのであるが、そう簡単に納得できるものではない。脳みそは勝手に自分を納得させる様々な理由付けと邪推を始めてしまっている。これは友達と食べるからこの価格でも許されているんだな。そもそも屋台の食べ物は一人用にはできていないのだな。友達がいれば良かったんだな。一人で食べる事自体が間違いだったんだな。一人で食べようとしている僕が悪———

 やめよう。

 こんな事を考えていても自分を苦しめるだけだ。もう唐揚げと焼きそばを食べてさっさと帰って寝てしまおう。また明日から最高の一日を再開しよう。

 そう思い唐揚げの二個目に突入する。口に運ぼうとしたその瞬間———

 不意に生温かい風が左から吹き抜け、咄嗟の事で手が緩んでしまった。スルッと紙コップが滑り、から揚げが床に吸い込まれていく。「うわ、最悪だ」と思うよりも先に、   

 僕の前を白い影が右から左に横切った。

 何が起きた? 

 見るとさっきまで床に散らばっていた、いや散らばるはずだった唐揚げがマジックみたいにどこにもないのである。左を見るとそこには———

 少女がいた。

 いや、正しくは幼女と言ったほうが適切だろうか。十歳くらいの女の子が唐揚げを真顔で頬張っていたのである。一四〇センチくらいの背丈で真っ白なワンピースに真っ白なロングヘアを携えたその少女は唐揚げを片手に妖しくこちらを見つめている。



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