天上天下の追いかけっこ

 突然の出来事に数秒フリーズしてしまった。僕のなけなしのお金で買った唐揚げだ。何としてでも返して貰わなければ困る。

 とりあえず先ずは優しく諭してみる事にしよう。突然泣き出されたら不審者扱いされかねないからな。あくまで紳士的な態度で僕は少女との対話を試みる。


「あ~、お嬢ちゃん? 人のものを勝手に盗むのはダメってママに教わらなかったのかな?」


「お兄さん、これ欲しいんですか?」


 少女は依然として唐揚げを頬張りながら聞いてきた。「欲しいんですか?」じゃなくてそれは僕のものなのだが。人から取っておいてその質問をするか? 最近の小学生は教育が行き届いていないのかと流石の僕でも心配になる。


「そう、そうそう。そうなんだよ。その唐揚げはお兄さんが大事なだーいじなお金で買ったものなんだよ。どうかお兄さんに返してくれないか?」


「ふ~ん」


 少女は手に持った唐揚げをじっと見つめ、それから再びこっちを見た。何を考える事があるんだ。それを返すだけで全て解決じゃないか。


「どうしてもお兄さんこの唐揚げが欲しいんですね。じゃあ、取り返してみてください」


 僕がその言葉の意味を理解する前に少女は「バイバーイ」と手を振って夜の街に走り去った。

 えっ? 意味が分からない。少女はバイバイと言ったのか? バイバイって売買の事か? 僕と唐揚げを売買したいって意味で言ったのか? それとも、まさかサヨナラの挨拶な訳ないよな。だってあの子は唐揚げを奪って、僕は唐揚げを奪われた。その二人の別れの挨拶がバイバイな訳ないもんな。きっと何かの勘違いだ。

 そんな思いとは裏腹に少女はグングンと僕から遠ざかっていく。


「クソ、待て!」


 慌てて後を追いかける。あの少女を捕まえなければ。人からものを奪ったら「ごめんなさい」と言って盗ったものを返す。その常識を教えてあげなければ。

 しかし、いくら走っても全く追いつけない。少女は見かけによらず足が速く、よく見ると裸足でアスファルトを駆けている。「なぜ裸足なのか」という疑問が一瞬頭に浮かんだが、その疑問を解消するだけの余裕は今の僕には存在しない。絶対に捕まえて謝罪させる事、ただそれだけが重要だ。少女の背中を追い続け、家々の間を左に右に右に左に、階段を登って降りて、降りて登って、僕は必死で地を駆ける。

 しかし、一向に追いつく気配を感じられない。

 なんだ、こいつ。なんだこの子は。

 たかだか十歳にも満たないような少女に何故追いつけない。

 僕が帰宅部で体力がないせいか? 

 少女が裸足で地を踏みしめているからか? 

 それとも昨今の小学生は特殊な訓練を受けさせられているとでもいうのか? 

 とにかく異常な速さだ。

 ゼハア、ゼハア

 流石に限界だ。呼吸は乱れて喘鳴が混じり、足は子鹿のように震えている。

 少女の事はしっかり視界に捉えているというのに全く差は縮まらない。

 それにしても久しぶりに走ったからか喉の渇きが尋常じゃない。

 早く口内を冷たい液体で制圧したい。

 その思いで全身が支配されてしまい、少女が眼中になくなってしまう。

 幸運な事に祭りで余った百円玉がズボンの左ポケットに入っている。

 自販機で小さいペットボトルの水を買い、ベンチに座って口に流し入れる。ゴワンゴワンとダムの下流に水が流れ出るように喉を水が通過する。

 天国だ。

 つい一息で飲み干してしまった。

 空となったペットボトルをゴミ箱に入れ、大きく一つ深呼吸をする。

 スー、ハー、スー、ハー

 次第に落ち着いてきた。呼吸は正常になり始め、周りを見る余裕が生まれる。

 見ると全く知らない景色が周りを包んでいる事に気がついた。

 僕のホームタウンであるこの街であってもせいぜい自分の家と通学路周辺の事しか詳しくない。

 つまり見知らぬ景色が広がるこの現状は、僕が家から遠く離れたところまで来てしまっている事を意味していた。

 この景色にさらに見知らぬ異物が一人。

 件(くだん)の白い少女である。

 水を飲んでいた時間は一分くらいだっただろうか。いや、もっと長かったかもしれない。何れにせよ一分あれば僕の前から逃げおおせるには十分な時間である。しかし、彼女はまだそこにいたのである。唐揚げを盗った時と寸分違わぬ表情でこっちを見つめているのである。まるで、僕の動きと連動しているみたいに僕が止まっている時は律儀に待機しているように見える。

 この子は何者なんだ。大人や同級生ならまだしも、年下の女の子に追いつけないなんて事がありえるのか。何とかして捕まえてやりたいが、追いつけるビジョンが全く浮かばない。

 仕方ない。

 僕は渋々プライドを犠牲にして少女に敗北宣言をする。


「はー、分かったよ。僕の負けだ。もう取り返そうなんて思ってないから隣に来て座りなよ。焼きそばもあるから一緒に食おうぜ」


 少女は軽く頷きトテトテと僕の隣まで来てその可愛らしい体躯をベンチに埋めた。やけに素直な反応だ。相当腹が減っているのか。

 僕は焼きそばの封を開け、少女の前にグイと突き出す。


「ほら、焼きそばもやるよ」


 少女は唐揚げをベンチに置くと手づかみで焼きそばを持ち上げ口の中へ放り込み、これまた無表情で頬張った。もぐもぐ食べている少女の顔は幼いながらに美形であり、もっと食べさせてあげたいと感じる程の魅力を秘めていた。


「ところでお嬢ちゃん。お名前は? こんな夜中に一人でいるなんてお母さんが心配してるんじゃないの? お兄さんが家まで送ってあげようか?」


 僕は残った焼きそばを割り箸で食べながら少女に質問をした。

 しかし、少女は質問に答える事なく、無表情を崩さないまま焼きそばを頬張っている。やがて飲み込むと遂に口を開き静かに呟いた。


「もっと下さい」


 あまりの図々しさに僕は呆れてしまった。

 人から食べ物を盗り、あまつさえ恵んでもらったこの状況でおかわりを要求するのか。

 全くこいつはどういう教育を受けてきたんだ? 

 親の顔が見てみたいな。


「早く」


 少女はこっちの気持ちなどお構いなしに催促してくる。

 このまま少女の言う事を聞かず食べ物をあげなかったら少女が騒ぎ立てる可能性がある。そうなってしまっては近隣住民の迷惑だし、他人の子どもを誘拐したとして警察にしょっぴかれる危険性もある。


「ほら、特別サービスだぞ」


 僕は渋々割り箸の持ち手の方で焼きそばをつまみ上げ少女の前に差し出した。

 少女は口を大きく開けて焼きそばを食べようとしている。まるで箸ごと喰らおうとしているようなそんな豪快さで少女は焼きそばを食べ———


「いった」


 食べ、そのまま僕の指を噛んできた。

 切られたと見紛う程の衝撃に思わず仰け反り、咄嗟に指が手に付いている事を確認する。

 良かった。

 指は手から離れていない。若干の出血が認められるが、何とか五指は動かせる。

 ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ。

 この少女はイカれている。

 少女は噛んだ事を気にも留めずに真顔で箸とパックごと焼きそばを頬張っている。ゴキゴキと箸を咀嚼する音を鳴らす少女の口元には僕の血が付着している。

 すると、少女はご飯粒でも取るかのような手つきで口を拭うと血を取り去ってペロリと舐めた。

 こんな少女に一瞬でも心を許してしまった自分が情けないと思うと同時に、恩を仇で返すような仕打ちにフツフツと怒りが込み上げてくる。


「何なんだよお前。人がせっかく食べ物を分けてあげたのにさぁ。何で僕の指を噛むんだよ。人の指を噛んじゃいけない事くらい学校で習わなくても分かるだろ!」


「そうだぞ、ふぅ。人の指を噛むのはいけない事だ。噛んでいいのは首元だけだ」


 すぐ耳元から聞き慣れない声が聞こえた。何者なのかは分からないが、セリフだけでこの場にヤバイ奴が追加された事を知るには充分だった。

 声のする方を見ると先程の少女がいる所とは反対側に一人の少女が座っている。


「ひぃ姉ちゃん。来たんですか」


「おーそうだ、ふぅよ。あまりにも帰ってくるのが遅いから母(はは)さまが心配しておってな。頼れる姉が来てあげたってものよ。して、この人間が例の者か?」


 これは非常にまずい。ヤバイ行動の妹にヤバイ言葉の姉まで付いてきやがった。このままここにいると僕までおかしくなってしまう事は必定だ。

 隙をついて逃げなければ。

 二人が話してる内にそっと唐揚げを取りベンチから立ち上がる。そして思いっきりダッシュしようとしたが———


「待て」


 ひぃ姉ちゃんと呼ばれたその少女が僕に向かって呼びかけた。僕は無視して走り去る。この呼びかけに応じたが最後、碌でもない事が起こるに決まっているからだ。全力で走ればコンビニとかには逃げ込む事ができるだろう。

 しかし、僕の目論見は外れてしまった。


「待てと言ってるだろうが」


 その言葉が聞こえた直後、突然僕の足元から確かな地面の感触がなくなった。

 え? 

 いきなり人間が宙に浮く事なんてありえない。


「な、何だ?」 


「そう情けない声で慄くでない。ただ持ち上げているだけよ」


 振り向くと確かに白髪のショートカットに白いワンピースを着た少女が僕をむんずと持ち上げていた。背丈はロングヘアの少女と同じくらいだろうか。

 って、ありえないだろ。

 僕は全力で走って逃げようとしたんだ。それなのに一瞬で捕まるなんて事がありえてたまるものか。それにこんな少女が体重六〇キロ程度の僕を片手で持ち上げる事なんて出来る訳がない!


「ふぅよ。こいつが母さまの言っていた人間なのだな?」


「そうなのです。ひぃ姉ちゃん。母さまの目に狂いはないのです」 


 母さま? 

 何を言っているんだ? 


「もしかして僕はこれから食べられるのか?」 


 僕が恐れながら聞くと、ひぃ姉さんは今にも僕を食べそうな顔でニヤリと笑って言った。


「安心せい。取って食おうなどとは思うておらぬ。ただ、今からひぃ達と共にらんでぶーじゃ」


 勘弁してほしい。僕はただご飯を食べる為に外に出ただけなんだ。こんな目に合うために外出した訳じゃない。


「ちょっと頼むよ。もう家に帰らせてくれ! この唐揚げも全部あげるから! お願いだから!」


 僕は持てる全てを差し出して、何とか帰ろうと懇願した。そんな僕を尻目にひぃ姉さんは呆れ顔を浮かべている。


「は~、なっさけないのぉ。本当に母さまはこんな奴を選んだってのか」


「嫌だよ~。帰りたいよぉ~。助けてくれよぉ~」


 それでも情けなく喚いている僕に向かって姉さんは業を煮やしたらしく、妹に向かって僕を黙らすように言った。


「ギャンギャンやかましいのぉ。こんなにうるさい奴は見た事ないぞ。ほれふぅ、少し眠らせぇ。こいつの手に持っている食い物を落とさぬようにな」


「分かりましたです。ひぃ姉ちゃん」


 そして無情にも少女の拳が僕を目掛けて落ちてきた。ゴンという鈍い音とともに視界が歪み、意識が次第に遠のいていく。指先に力が入らなくなった僕から唐揚げを取り、少女は二人で分け合い始める。最後に視界に捉えたのは僕から奪った唐揚げを頬張っている二人の少女の姿だった。


「ここはどこだ?」

 目覚めたら見知らぬ天井が広がっていたという訳ではないが、見知らぬ景色が広がっていた。なんだかお腹の方が暖かくどこか懐かしい感じがする。まるで子供の時に両親と行った旅行で電車に揺られているようなそんな懐かしさだ。


「あっ、起きたみたいです」


 お腹の方から女の子の声が聞こえる。

 なんだなんだ? 

 お腹に少女を飼った記憶なんて僕にはないぞ? 

 寝ぼけながら考えていると前方からも女の子の声が聞こえてきた。


「お主(ぬし)は果報者じゃのう。こんなか弱いおなごの背中で熟睡できる機会なぞ、滅多にないぞ」


 えっ、なんて言ったんだ? 

 僕の聞き間違いじゃなければ「おなごの背中で熟睡」って言ったのか? 

 次第に脳が覚醒してきて、今起きている事が分かってきた。

 不規則に揺れている体。

 顔に感じるサラサラとした髪の感触。

 ダランと垂れ脱力している腕。

 どうやら僕は少女におんぶをされているらしかった。


「えっええ~!? おんぶ!? おんぶをされているのか? 中学生のこの僕が!?」


 前を歩いているショートヘアの少女は「降ろせ降ろせ」と喚いてる僕を見て呆れ顔を浮かべている。


「降ろしてやれ。ふぅ」


「了解なのです。ひぃ姉ちゃん」


 急に少女が僕の足を支えていた手を離すものだから僕はドスンと尻餅をついてしまう。痛い。

 ジンとした痛みをお尻に感じながら僕はすっくと立ち上がり、パンパンとお尻をはたいて何事もなかったかのような顔をして辺りを見回した。

 どうやらここは新狐神社への参道のようだ。

 そこそこの標高にある新狐神社への参道は数百段はあろうかという長い階段となっていて、祭り当日という事もあってか人がまばらに見えている。

 危ない危ない。

 さっきの姿が同級生に見られていたら恥ずかしいどころでは済まなかったぞ。

 あっちに何か制服のような姿が見えるけどきっと気のせいだろう。この街には中学校が一つしかないけど、まぁ祭りだからきっと隣町の学校から来た生徒だろう。何かこっちを見ている気がするけど気にしない気にしない。きっと僕が自意識過剰なだけだ。そうに違いない。




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