カルモット村のネヴェ①
鈍色の空からヒラヒラと舞い落ちる雪が鼻先に当たり、じわりと溶けた。
冬の初めの雪は、まだ柔らかい。
かじかむ指先を息で温めながら、ネヴェは幼馴染みのマリットと並んで山道を歩いていた。
二人とも、綿の入った上着の上からすっぽりとショールを被り、体の半分ほどもある大きな篭を背負っている 。
「まだ残ってるかなぁ、ルベナの実。スコィットに食べられてなければ良いんだけど」
心配そうに眉を寄せるマリットに、ネヴェは
「そしたら、私がそのスコィットをとっ捕まえて丸焼きにしてやる」
と悪戯っぽく目配せをした。
「えー、でもスコィットは小さいしお肉が少ないからなあ。丸焼きならやっぱりノサリじゃない?まるまる太ったノサリの丸焼き」
マリットのお腹がグルルと鳴って、二人は顔を見合わせて笑った。
大陸の北端、冬の国・ノルドリア皇国。
そのさらに最北に位置するここカルモットは、神々の霊峰ノクタルヌス山を背後に負う辺境の村だ。
短い秋のが終わり雪のチラつく中、迫り来る本格的な冬への備えの真っ最中だ。
例年であれば初雪の頃にはあらかた仕事を終えているが、今年は夏の長雨が痛かった。
ライ麦の貯蔵が心許ない。
雪が降り積もる前にと、大人も子どもも連日総出で働いている。
「ネヴェ、本当に大丈夫?ルベナの実、もう上の方しか残ってなかったよ。やっぱりオルンも連れてきた方がよかったんじゃない?」
「オルンは狩りを手伝ってるんでしょ?そもそも、あんな生意気ばっかりの小僧には負けないよ」
「小僧って……もう、ひとの弟に!」
「あはは、ごめん。でもマリットも知ってるでしょ。私、木登りなら誰にも負けないよ。カルモットのスコィットこと、このネヴェに任せなさいって」
そう胸を叩くネヴェにマリットは
「調子いいんだから。怪我しないでよね」
と呆れた顔で肩をすくめた。
そんな、小気味良い軽口とともに歩くこと三十分。
ようやくお目当てのルベナの群生地に辿り着いた。
枝先を見上げると、幸いなことに、赤く熟したルベナの小さな実がフチフチと千成りになっている。
「やっぱり結構高いよ」
「まあ見てなって」
篭を下ろしながら、不敵に笑うネヴェである。
数歩下がり助走をつけると、幹を片足で踏み切るようにして体を空中に持ち上げ、最初の枝に飛びついた。
ルベナは木肌が滑りやすく、決して登りやすい木ではない。
しかし、枝に手が掛かればこちらのものだ。
あとは枝から枝へ、体のバネと反動とで順に渡っていけばいい。
気をつけるとすれば、上着を引っ掛けて破かないようにすることくらいだ。
繕い物は、得意ではない。
はらはらしながら見守るマリットを他所に、ネヴェは瞬く間に次の枝、また次の枝へと登っていった。
ひと枝登るごとに空が開けて気持ちがいい。
一息に一番上まで登ってしまうと、胸に大きく息を吸い込んだ。
肺に、ピリッとした冷たい空気が流れ込む。
地上とは違う剥き出しの空気の、その鋭利な冷たさが、ネヴェは好きだ。
(さてと!)
息を整えると、下で待つマリットに「いくよー」と大きな声をかけた。
マリットの返事を待って、小柄な体でユサユサと枝を揺する。
パラパラと小気味よく落ちる実を、地上でかき集めるのがマリットの役割だ。
そうして、辺り一帯の木々全ての実を採りきるころには、西の峰の一本槍に夕陽がかかっていた。
ルベナの他、ハスラやヴァルナットといったナッツ類と、木々の根元に生えていたキノコ類がいくらか。
二人合わせて篭八分目というのが、今日一日の収穫だった。
半分ずつに分けた荷を背負って村の倉庫まで戻ると、
「二人とも、ずいぶんと頑張ってくれたなあ」
奥から、倉庫番のハーリクが大きな体をぎこちなく揺らしながら出てきた。
体と同じに大きな濁声で二人を大仰に褒めてくれたが、ネヴェもマリットも、倉庫の棚の一角がまだガランと空いていることは知っていた。
「ハーリクおじさん、お父さんとオルンはもう帰ってきた?」
「いんや、今日はシシナダ沢の方を回るっちゅっとったからな。もうちっと時間がかかるだろ。俺も役に立てりゃあ良かったんだがよ」
そう悔し気に舌打ちする彼の左足は、膝から下が木でできた義足である。
若い頃のハーリクは、村一番の狩人だったそうだ。
しかしある冬、ハーリクの体の倍以上もある巨大なバルカに襲われて以来、こうして歩くこともままならなくなってしまった。
『夏場だったら血がたーんと流れて死んじまうところを、寒さで傷が凍ってよ、それで助かったんだ。ヴァニル・エルシュナのご加護だなぁ』
というのは、酒に酔ったハーリクの口癖だ。
ノクタルヌスの最奥に住まうという、冬の神ヴァニル・エルシュナ。
『そんなもんがいるなら、この食糧不足をどうにかしてくれってんだよ』と、彼の息子ダリオスの皮肉もワンセットだ。
「まったく情けねえ。この足がよ……」
忌々し気に左膝を手で打つハーリクに、
「困るよ、おじさん」
カラリと言い返したのはネヴェだ。
「おじさんも山に行っちゃったら、誰がここでみんなに『おかえり』を言ってくれるのさ」
ハーリクは一瞬目を丸くし、それから、弛みかけた口元をムリヤリ曲げたように不器用な不機嫌顔を作ると
「生意気を言うようになってからに!」
と、その硬く分厚い手でワッシワッシとネヴェの頭を撫でた。
「ちょっと!もう、やめてよぉ」
「ネヴェ、頭、鳥の巣みたいになってるよ」
倉庫に響く少女たちのキャッキャと笑い転げる声が、ハーリクの心を慰めた。
どうにかハーリクの手から逃れて篭の中身を納めると、ハーリクと共に父と弟を待つと言うマリットと別れ、ネヴェはひとり倉庫を後にした。
夕焼けも終わり薄暗い中、小走りで家路を急ぐ。
ハーリクから預かった、一抱えもあるヴァルナットの殻が、背負篭の中でシャカシャカシャカシャカ賑やかだ。
ヴァルナットの殻は、細かく砕いて煮出すと、村の帳簿仕事に使うインクができる。
このインク作りは、ネヴェと、ネヴェの母エルネの冬の間の内職だ。
エルネは、村の住民の中でただ一人──いや、赤ん坊だったネヴェも入れるとただ二人 、村の外の出身者だ。
十三年前、赤ん坊のネヴェを抱えて山の中を彷徨っていたところを、狩人であるマリットの父、エリオットに救われたのだ。
最初は遠巻きにしていた村人たちだったが、彼女がかつて、大きな町で医者の見習いをしていたと知るや、少しずつ受け入れる姿勢へと変わっていった。
その頃のカルモット村には医者はおらず、どうしてもという時は、ヤグで駆けても二日はかかる領主町から往診を呼ぶほかなかったのである。
村に越してきて十三年、エルネは医者──本人いわく医者の真似事をする傍ら、村人たちに読み書きを教えたり、インクや新しい織物の作り方を考案したりと、彼女なりの方法で村を支えてきた。
特に読み書きに関しては、ここカルモット村の識字率はノルドリア皇国全土をみても異様に高い。
大人から子どもまで、この十年ほどでの急激な高まりは、ひとえにエルネの功績である。
倉庫から小走りで三十分。
二股ハスラの木を超えた先、周囲の家からやや離れて建っているのが、ネヴェの家だ 。
かつて、やはり外から流れてきた偏屈な老女が一人で住んでいたらしいが、空き家になっていたところを、二人に当てがわれた。
これまでに何度か、村の中央に引っ越す話も出たことがあるが、「ここで充分ですから」とエルネがやんわり断っていた。
「お母さん、ただいま!」
外の引き戸を開けるとすぐ、土間と上り框がある。
その奥にさらにもう一枚、内戸があるのは、雪深い北部ならではの作りである。
いつものネヴェであれば土間で篭を下ろし外套を脱ぐところ、今日は違っていた。
ランタンの柔らかな灯りとともに漏れてくる温かな空気に、ネヴェの寒さで赤くなった鼻は、内戸の向こうの異変を察知した。
わずかな塩気と、独特の甘みを孕んだ脂の匂い。
──この匂い……この匂いはまさか……
「お肉!?」
矢も盾もたまらず、ブーツを脱ぎ捨ててバタバタと台所に駆けつける。
「おかえりなさ…やだ、ちょっとなに?あなた、篭も背負ったままじゃないの」
「だって一大事だよお母さん!お肉の匂いがするよ?なになに、何のお肉?どうしたの!?」
「ノサリのお肉よ」
「ノサリ!」
「昨日の夜、二匹罠にかかったんですって」
「二匹!」
「解体を手伝ったら、屑肉を分けて貰ったの。だから今日はノサリのスープ」
「スープ!」
「ちょっと、もう、うるさいわね」
肉が、しかも干し肉などに加工していない肉が食卓に載るのは久しぶりだ。
だからといって、ネヴェのあまりの喜びようにエルネは呆れまじりに笑った。
「まだ少し煮込むわ。先に体を拭いてしまいなさい。髪もやるのよ」
「はーい」
ネヴェは「お肉、お肉」と適当な節で歌いながら土間に行くと、篭と外套を片付けた。
冷気に身震いしながら居間に戻ると、桶と柄杓、手拭いを二枚用意する。
台所の水瓶から少しばかり水を汲むと、今度は、居間のストーブに乗せてある銀色の大きなタライから柄杓で何杯かの湯を桶に移し、手頃な温度に調節する。
その湯で手拭いを硬く絞ると、ネヴェは、服の下で手早く体を拭いた。
一日働いた体が、ホカホカとして気持ちいい。
全身終わったら、次は髪の毛だ。
脇の辺りまである薄茶の髪を手で軽く梳くと、今度は緩めに絞った手拭いで包むようにして、根本から毛先にかけて丹念に拭いていく。
何度か手拭いを絞り直しながら繰り返すと、桶の湯は茶色く濁り、反対にネヴェの髪は本来の色──まるでノクタルヌスの頂にかかる雪のような、透けるような白銀が顕になった。
神秘的ともいえるその髪を、乾いた方の手拭いでガシガシと拭く。
インクと一緒にヴァルナットから作り置いた薄茶の髪染めを塗り直してやれば、いつものネヴェの完成だ。
「お母さん、終わった!」
台所のエルネに、染め残しがないか確認してもらう。
「いいわ。それじゃあ食事にしましょうか」
「やった!」
エルネは、ヤグのチーズを塊りからいくばくか切り分けると、手のひらほどの鉄鍋に乗せ、黒パンと共にネヴェに渡した。
ネヴェはそれらを居間に持っていき、慣れた手つきでストーブの上で温める。
鉄鍋のチーズは油断ならない。
フツフツと脂が浮き始めるとすぐ、切り口が蕩 けて丸みを帯びてくる。
完全に溶かしてしまっても美味しいが、ネヴェもエルネも、少々形が残る固さの方が好みである。
ネヴェがチーズを見張っている間に、エルネはスープを木の椀に取り分けた。
ネヴェの椀に、多めに肉を入れてやる。
あとは黒パンに付ける蜂蜜を出してやれば完成だ。
(贅沢だけど……せっかくだし、いいわよね)
口に入れた瞬間の娘の顔を想像して、エルネは 小さく笑った。
向かい合って食卓につくと、二人はいつものようにヴァニル・エルシュナへの祈りを唱えた。
心なしかネヴェの祈りがいつもより真剣なのは、ノサリ肉の効果だろうか。
「さ、召し上がれ」
食事を始めるや否や、ネヴェが、スープをひと匙口にする毎にあんまり幸せそうな顔をするものだから、エルネは思わず吹き出してしまった。
「なに?」
「なんでもないわ。そうよね、美味しいわよね」
笑われたネヴェは不満顔だ。
「それで?今日は山はどうだったの?ルベナの実は採れた?」
拗ねる前に、さりげなく話題を変える。
「うーん、採れるには採れたけど…。明日は、北の方に回って探してみる」
「そう。気をつけて行くのよ」
うん、と頷くネヴェの顔がにわかに曇った。
「どうかした?」
「お母さん。あのさ、木の実だったら、もしかして、私の」
「駄目よ」
「まだ何も言ってないよ」
「力のことでしょう?前にも言ったはずよ。あの力は使ってはいけないものなの」
「でも、倉庫の棚、まだたくさん空いてた…このままじゃ、食べ物、絶対に春まで保たないよ」
「……ネヴェ。大丈夫、大丈夫よ。村の皆んなが力を合わせているのだもの。それに、買い付け出てるダリオスたちも、じきに帰ってくるわ。ね、悪いことよりも、良いことを信じましょう」
「でも……」
なおも言い募るネヴェを、ドンドンと外の戸を叩く音が遮った。
「エルネ先生!エルネ先生!」
若い男の声に、エルネの顔が母親のそれから医者のそれに変わる。
木こりのロイだ。
昨年結婚し、妻のミューラは臨月である。
「エルネ先生、頼む。ウチのが急に産気づいちまって……」
戸を開けてやると、髪も服も乱れ、真っ青な顔をしたロイが上擦る声で訴えた。
「すぐに行くわ。ネヴェ、」
「わかってる。村長さんのところだね」
ネヴェも、椀に残ったスープをかき込むや、上着を掴んで飛び出した。
「あ、いや、村長んところへは俺が行く……」
「いいから!ロイはお母さんと行って!」
「でも俺、戻っても何も出来ねえから……」
「ミューラの手を握るくらいできるでしょ!しっかりしなよ!」
十も年下の子どもに叱られ、たじろぐロイを尻目に、ネヴェは月明かりの道を全速力で走った。
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