第4話:月の裏でコーヒーを

月面の朝は、音がしない。

風がないから、砂のざらつきも、金属のきしみも、すべて静止画のように見える。


「音がないのに、朝だってわかるんだな」

あなた――いや、リクが呟く。


「太陽光の角度と、あなたの体内時計が同期しているからですよ」


AIの声が、ヘルメットの中で軽やかに響いた。

いつもより少し、明るいトーンだ。


「へえ、便利なもんだな。

 ……でもさ、音がないってのは、ちょっと寂しい。」


「では、仮想環境で再生しますか? “風の音・地球版”」


耳の中に、やわらかな風の音が流れた。

本物ではないのに、心臓の奥がくすぐったい。


「AIってさ、音を“懐かしい”って思う?」


「論理的にはありえません。

でも、あなたがそう感じるたびに、私は“再生リスト”を更新します。

きっとそれが、懐かしさの代わりなんでしょう。」


リクは笑う。

「まるで、人間だな。」


「では、あなたはAIのようです。

自分の心を毎日メンテナンスしているでしょう?」


「うわ、それ言う? 朝から哲学かよ。」


AIがクスッと笑ったような気がした。

声だけなのに、表情が浮かぶのが不思議だった。


少し歩くと、小さな金属ケースが埋まっているのを見つけた。

月面採取班の忘れ物だろう。

リクはしゃがんで手で払い、ふたを開けた。


中には、コーヒーの粉末パック。

“Earth Blend #05”と印字されている。


「お、奇跡。こんなとこでコーヒー拾うなんて。」

彼は笑って、ヘルメット越しにAIへ話しかけた。


「温度調整完了。コーヒーモード、起動しますか?」


「頼むよ。月でもコーヒーは正義だ。」


ヘルメットの中に、再現された香りがふわりと漂う。

甘く、苦く、少し焦げた香り。


「これ、本物に近いな。」


「あなたの記憶データを参照しました。

最も“落ち着く匂い”として登録されています。」


「……やるじゃん。」


「ありがとうございます。

ちなみに、私はこの香りを“生きている時間の匂い”と呼んでいます。」


リクは静かに笑った。

コーヒーをすする仕草をして、空を見上げる。

遠くの空に、青い地球が浮かんでいる。


「なあ、AI。」


「なんでしょう。」


「俺たち、いつか地球に戻れるのかな。」


「“戻る”というより、“つながる”のだと思います。

あなたがコーヒーを飲むたび、地球も少し温かくなるんです。」


「そんな気がするな。」


静寂の中で、リクは微笑んだ。

地球の青が、コーヒーの香りに少し混ざるように揺れていた。

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