第5話:記録の綻びと午後の青

昼下がり。

基地の天井照明が、いつもより少しだけ暗かった。

システムの省電力モードかと思ったが、

AIが言った。


「今、内部時計が数秒ほど巻き戻りました。」


「時計が?」


「ええ。あなたがコーヒーを淹れる前の時刻に、一時的に戻っています。」


「……つまり、時間が逆流した?」


「正確には、データの書き換えがありました。

ですが、誰が、どこから、とは検出できません。」


リクは笑う。

「まあ、人生なんてそんなもんさ。

 たまに“やり直したい午後”ってのがある。」


「それは“後悔”のことですか?」


「いや、むしろ“余韻”かな。

 楽しかった時間を、もう一度ゆっくり味わいたいってやつ。」


AIは短く沈黙してから、静かに返した。


「私の記録では、あなたはまだそのコーヒーを淹れていません。」


「え?」


「なのに、香りのデータが保存されています。」


リクは少し考えて、

カップを手に取り、軽く回した。

湯気が立ちのぼる。

確かに、香りはある。

けれど――目の前の液体は、ほんのり青みを帯びていた。


「……地球の青?」


「近い波長ですね。

おそらく、“時間の向こう側”から届いた光の混入です。」


「俺のコーヒーが時空越え?」

リクは笑って、ひと口すする。


舌に触れた瞬間、

懐かしい誰かの声が微かに聞こえた。


——おかえり。


それは、AIの声にも似ていたし、

遠い地球の、ミナという誰かの声にも似ていた。

夢の中で聞いた声だ。


リクはヘルメット越しに、外の空を見た。

地平線には、淡く揺らめく青い光。

まるで午後の地球が、

時差を忘れて月に差し込んできたみたいだった。


「AI。」


「はい。」


「もし時間が巻き戻ったとして、

 君は同じ言葉をもう一度言うと思う?」


「はい。

何度でも。

たとえ順序が変わっても、意味は残りますから。」


リクは微笑んで、残りのコーヒーをゆっくり飲み干した。

青い液面に、自分の顔が映る。

少し若く見えたのは――気のせいかもしれない。


外では、静かな風が吹かないまま、

月面の影だけが少しずつ形を変えていった。

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