E02 —— Bブロック、地下入口。オリエンテーション

二時が近づくほど、指先が乾いていった。ジッパー付きポケットを三度、四度いじって確かめる。真珠が一粒抜けたヘアピンはまだそこにあり、ピン先の白い結晶が石けんの泡みたいにきらりと光った。今日は保留。 心の中で一度そう言って、家を出た。


Bブロックの図書館は、見た目も匂いもふつうだった。低い煉瓦の外装、ガラスのロビー、ベビーカーとコピー機の緑のLED。案内デスクの横の三段スタンドには〈寄贈資料管理サポート(短期)募集〉のチラシ。書架整理/寄贈物の分類・ラベリング/箱の移送(10~15kg)/保存・安全の講習必須。小さな文字でこうも書いてある。特別コレクション室(地下)勤務を含む——湿度・照度管理環境。


「ハルさんですよね? ミホです。まず書類の受付をして——短い安全ブリーフィングに入ります」


休憩室に通されると、ステンレスの卓上にA4一枚のカードが厚いフィルムに包まれていた。表面には太字で五行。二歩(距離)/横目(斜め確認)/コンマ(3・6秒)/赤い点(保留タグ)/赤い線(仮の境界)。裏にはもう一枠。一行宣言の書式——「今は――[私の選択]」。(命令・強要は禁止/過去形・未来形は禁止)


「暗記は長々としなくて大丈夫」ミホがカードをこちらへ押す。「今日必要なぶんだけ読んで、身体で覚えましょう。——オ先生」


ドアが少し開き、オ・チュンベが顔を出した。作業着、白い手袋、ぶっきらぼうな笑い。


「現場の略号カード出たな。実地どおり復唱からいくぞ」彼は携帯無線の真似で短く言った。「圧4.8、レッドライン一つ補強」

私はそのとおり復唱した。「圧4.8、レッドライン一つ補強」

「もう一回。今度は語尾を濁すな」

三回目、私の発音は最後まで届いて、はっきり落ちた。カード左上にも太字があった。最後まで読む——語尾の濁り禁止。


「いい感じ」ミホはアクリル板を取り出し、卓上にコトと置いて、赤い丸シールを貼っては剥がすように指示した。「これが**“席”です。文・物・保留がいったん座る棚**。今日は練習だけ」


階段へ降りる前、彼女が最後に付け足す。「それから……ここではときどき一行で自分を定位します。いまの選択だけを書く文。カード裏に書式があるでしょう。**『今は――』**で始める。必要な時だけ」


地下に下りる階段の前には、赤い注意テープがおとなしく貼られていた。チュンベが階段の角を指先でコツコツ叩きながら言う。「今日は外気湿度が高い。二歩の間隔を守って、コンマは六秒」


一段目の角に、チョークで短い線を引く。正面からは埃のようだが、横目で角度を付けると薄い艶が立ち上がる。私は正面を避け、横目だけでその線を確かめる。越えてはいけない線。心の中だけで名前を貼り、階段を二歩ずつ下りた。


地下の廊下は、色温度の低いダウンライトで明るい。ドア脇の銀のプレートには寄贈物保管/ラベリング・乾燥/閲覧制限/落とし物。壁の赤いテープには『床ワックス乾燥中——出入り注意』。すべて理にかなっていた。——角度を変えないと見えないものが増えることを除けば。


「まずは目の慣らし」ミホが言う。「展示ガラスや作業台に残る艶(光沢線)は正面じゃなく横目で。廊下の突き当たりの銀プレートは正面禁止。床の清掃チェック点を線で結んでみて」


水族館で覚えた要領に身体が先に反応した。横目で見る時だけ、点が線になる。線は保管室へ入り、ラベリング室の敷居で一度コンマ、それからまた続いた。


「見えますか?」

「はい。あそこで速度を落とした方がよさそうです」

「いいですね」彼女はクリップボードにチェックを入れる。「次は発声——と書くけど、実際は案内文を最後まで読むこと。電源オフのマイクで練習」


4-4-6。吸気4、停止4、呼気6。私は数え、そして読んだ。

「こちらはBブロック地下コレクション室です。現在は一時的に出入りを制限しています。階段上から二歩離れてお待ちください。」

句点に触れた瞬間、言葉が床のどこかに座る感覚があった。ミホがごくわずかにうなずく。


ラベリング/乾燥室は、ドライヤーのあたたかいハミングで満ちていた。テーブルの上に素材違いの物たちが並ぶ。フィルム、岩塩、古い本、ガラス玉、錆びた鍵、そして小さなピン。箱のラベルは『ヘアアクセサリー(仮)・未分類』。転がしてみると、一つが見覚えのある輝きをした。昨日私が登録したものと同類。私はポケットのジッパーを指でなぞったが、取り出さなかった。


「物性の感覚。見た目が同じでも扱いは変わります。濡れて見えるのに濡れない表面も」

「これは……保留ですね。落とし物室で登録」

「正解」ミホが笑う。「この**『保留』が、今日一番使う言葉。今は使用判断を留保。そして席に乗せる**」


エレベーターがウィンと鳴り、港湾庁の印が押された台車の箱が降りてきた。角には青いスタンプ——PRINCE SARDINES。王冠のロゴ。カビが先に来るはずの場面で、甘く塩気の気配が先にすっとかすめる。私は本能で二歩下がった。


「いいですね」ミホがカードをコツと叩く。「現場ログは短く——圧、レッドライン、待機」

チュンベが無線の真似で言う。「圧4.8、レッドライン維持、待機6」

私も短く。「圧4.8、レッドライン維持、待機6」


アクリルの席を立て、赤い丸シールを準備。ミホが顎を引いて私を見る。「一行」カード裏の書式が内側で点滅する。今は——[私の選択]。


「今は——開封しない。記録ののち保留する。」


言葉が届くと、テープの上にごく薄い水膜のようなきらめきが一度走った。正面ではなく、横目だけで拾えるきらめき。静電気だろう。浮かぶ考えをわざと押し下げる。ミホの指先が半拍だけ止まり、赤い点が席にぴたりと座った。すぐに臨時封印契約書が差し出される。即時開封禁止・照度/湿度安定後にラベリング。

「法的効力は弱いです。でも文が呼吸を整えてくれるので」


署名を済ませ、落とし物室のラベルを作って貼る。カード裏には感覚メモ。光:正面×/横目○、匂い:甘+塩、触感:湿らない、判断:保留——席。ミホが静かに言った。「私たちは“事実より先に感じ”を書きます。あとから事実が付いてくる。」言葉より先に、吐息が消えた。


最後にロビーの巡回。自動ドアは素直に開閉し、ガラス壁に薄い曇りが一度すっとかすめる。湿度差。自分でそう言って、休憩室に戻り、給与契約書/個人情報同意/セキュリティ誓約にサイン。最後の一枚——〈保存契約——基礎〉。上書きしない。強要しない。今日必要な措置だけ。見ないものは見ず、聞いたものは最後まで報告する。


サインのあいだ、ミホは私の呼吸に合わせてとても長く、目立たないように息を吐いた。その息が、私の文の語尾に触れた。偶然にしてはぴたりだった。


「最初は皆一行を暗唱しようとします」彼女が笑う。「その必要はありません。今日必要なぶんだけ。それと——ハルさんみたいな人を、私たちは角度がいいと呼びます。正面ではない角度で“艶”をよく見る人」


「角度……」言葉を転がしてから尋ねる。「ここ、普通の図書館で合ってますよね?」

「貸出もするし、子どもの絵本も読む」彼女は正面だけの答えを選んだ。「それに、今日あなたがやったのは保存です。危険なことは何もしていない」


退館のハンコを押して階段の上に立つと、チュンベが背後から言った。

「それから——帰り道は正面だけ見ろ。横目は職場専用だ」

私はうなずいた。ポケットのラミカードを指で一度押す。紙の角が指先に生きていた。二歩。横目。コンマ。赤い点。赤い線。 今日覚えたのはそれだけ——でも十分だった。

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