E01 — 水の階段、二度目の足跡

朝の空気は昨夜よりもしょっぱかった。窓に薄く曇りが立ち、指で拭おうとしてやめた。*昨夜の出来事は夢じゃない。*水たまり、水の階段、灯台、帳簿の男。そして——「ここではいまの言葉だけが有効だ。」


バスを二本見送り、歩いて横断歩道へ向かった。水たまりはほとんど乾いていたが、あの場所には艶が残っていた。正面では消え、視界の端ではつながる道の形。ちり取りとトングを持った清掃の男性が私の横で止まった。


「昨日もここ見てたな。傘はちゃんと持った?」

「はい。拾ってくださってありがとうございました。」

「で、今日は何を探してる。」

「ここに……濡れないのに光る跡があるんです。」

男性はサンダルの先で路面をこつこつとつついた。「ああ、見える口か。そういうのは二歩離れて横目で見るんだ。飛びつくと滑る。」

「二歩……覚えておきます。」

「飯もな。」男性は笑った。「飯は食ってけ。」


私は二歩下がって、その跡を追った。道はアーケードを抜けて排水口の方へ向かう。昨夜見た真珠色のヘアピンがまだあった。指は届かない。コンビニでストローを何本か買い、テープでつないで即席の釣り鉤を作った。先を少し曲げて輪にかける。**コツン。**軽い感触が指先に伝わる。


「もう少し……。」ストローの継ぎ目がぶうと震えた。引き上がる瞬間、後ろから水流がすっと引いた。ストローがぷつりと抜ける。舌打ちを飲み込み、呼吸を整えると、こんどは逆に水がそっと押し上げてくれた。ピンが排水口の縁を越え、ふわりと私の手のひらに乗った。


ポケットのティッシュに包み、バッグのファスナーポケットへ。*回収完了。現実側の理由、確保。*顔を上げると、艶は港の方へ向き直っていた。理由はないが、その道を行けば話せる気がした。


水族館のサービス通路へ入ると、塩素・塩・金属の匂いが混ざった空気が鼻を刺した。メイン水槽のガラスの前に立つ。触っていないのに、表面に平行な三本線がゆっくり立ち上がった。右端には小さな括弧みたいな余白。昨夜、家の窓でふざけて引いたその形が、自動で現れる感覚だった。


「誰か触ったか?」管理人がモップを持って立っていた。

「えっと、今日ガラス清掃って……」

「その線は俺じゃない。」彼は目を細める。「なんか今日は水垢がつきにくい。変だ。」

「いい意味で、ですか?」

「いいけど変だな。開館前にスピーカーのテストだけしてけ。……それから今日はわざわざポンプ室のバックドア開けるなよ。塩の粉が舞いやすい。」


彼が去ると、廊下の奥、ポンプ室の扉からひやりとした気配が漏れた。隙間からしょっぱい匂いが濃くなる。正面は見ない。横目だけで確かめる。階段が下へ続き、最後の段が薄く水色に光っていた。


一歩。足首をなでる感覚——冷たくて、同時に熱い水。大きく吸って、小さく吐く。階段の下はまた水没路地だった。朝のせいかネオンは昨夜より淡い。けれどガラス瓶は相変わらず並び、瓶の中の鼻歌が浅く呼吸している。


「また来たな。」

昨夜の少年だ。今回はランタンではなく、灯台レンズの破片を嵌めた懐中電灯を持っている。光の線が路地を分解した。

「昨日……押してくれてありがとう。」

「反射だよ。」少年は事務的だ。「今日は最後まで言え。お前の言葉が遅れてついてきてもいい。終わりまで。」


うなずく。「ここがどこなのか、聞きたい。俺は……ハルです。」

「俺は灯台守の見習い。名札に刻むほどの名前はまだない。」

「昨日、紙を差し出してきた人は誰? 帳簿を持ってた。」

「塩水書記。」彼は一語で言い、ゆっくり解いてくれた。「塩の契約の書記。結末保証をエサに声を少し預からせ、残余共鳴が0になった瞬間に泡帰属(消滅)の条項で人を消す。あの甘い匂いが合図だ。」


昨夜の匂いが鼻先によみがえる。唾を飲む。少年が低く付け足す。


「それと、レシピを持ち込むな。『元は』みたいな言い方がレシピだ。ここではいまで話せ。」


一拍置いて、慎重に聞く。「じゃあ……子どもの頃の絵本で見たその話に近い側は、あるの?」

「同じ/違うを先に決めるな。」少年は懐中電灯を下げた。「まず誰が聞いていて、何を失っているかを見るんだ。」


そのとき脇の扉がカチリと開いた。昨夜の男——塩水書記——が微笑をたたえたまま立っていた。濡れた絹のような裾、胸には澄んだ赤いインク壺。


「またお会いしましたね。」書記が丁寧に頭を下げる。「昨日は驚かせました。今日は気楽にいきましょう。安全な結末——なんて甘美な言葉でしょう。予告のない悲劇も、無情な偶然もなく。ほんの少しだけ声をお預かりすれば——」


「少しなら、返ってくるんですか?」私は割って入った。

「もちろん。」笑みが広がる。「ただし約款に同意いただければ。残余共鳴がゼロになった瞬間——」

少年が私だけに聞こえるようにささやく。「泡帰属。」

書記の目が一瞬揺れたが、すぐ柔らかさを取り戻した。「法的な語は少々違いますが——とにかく、これが署名面です。手のひらにそっと当てるだけで、印はあなたの発音が代わりに押してくれます。」


紙が手の甲へ迫る。バラ飴の匂いが濃くなり、喉がからりと乾いた。昨夜のメモを思い出す。今は聞く。署名はしない。


「今は……聞きに来ました。」私は最後まで言った。「署名はできません。」

「『できない』……。」書記が語を転がす。「では猶予署名はいかがでしょう。効力は後から——」

「いいえ。今は、いいえ。」


言葉の終わりが届くと、路地の空気がほんの少しゆるんだ。瓶たちの視線がまた散る。書記は笑みを保ったまま、インク壺の表面に細いヒビを走らせた。


「では方式を変えましょう。」声は親切だ。「結末はそのままに、途中だけを甘く。あなたが安心を好むなら、『元どおり』という感覚を保証できます。」


その言葉は一瞬魅力的に響いた。私は反射で二歩下がる。彼と私のあいだに細い赤い線がすっと引かれた——路地の床にも、私のスマホ画面にも同時に。一瞬だけ現れて消える。


少年が低く言う。「越えてはいけない線。お前が引いた。」

「今……私、何を?」

「お前がいまを選んだ。」


書記はそれ以上引き留めなかった。「聞きたいというなら、聞くための便宜を条件にまた来ましょう。」丁寧に頭を下げ、扉の内へ消える。甘い匂いも薄く退いた。


長く息を吐くと、指先の震えが止まった。私は床のきらめきを指さす。「あれ、辿っても?」

少年がうなずく。「光るものはたいてい道だ。けど——正面で見るな。お前が消える。」

「わかった。横目で。」


私たちは並んで歩いた。私は二歩の距離を保ち、少年は私の歩調に合わせた。路地の果てで空気が裏返る。水の温度が変わり、ネオンの色が消える。灯台の灯りが一度消えて点く。階段はまた現実のコンクリートだった。


水族館の廊下へ戻り、ポンプ室の扉を閉める。ガラスの三本線は少し濃くなっていた。右端の小さな括弧の余白もはっきりしている。私は触れない。代わりに二歩下がった。呼吸が整う。


「ハル!」バックヤードからユナが駆けてくる。「管理人さんが探してたよ。道を挟んだ向かいのBブロック図書館がチラシ置いてったって。寄贈品管理の補助、短期バイト——時間あえばやってみない?」

「図書館……?」

「うん。手先器用でしょ。」ユナは私の顔色を見て首をかしげる。「大丈夫? ちょっと青い。」

「平気。水飲めば戻る。」

「じゃ、これ。」小さな岩塩のパックを渡して笑う。「今日は動物の給餌、忘れないでね。」


彼女が去ったあと、チラシを手に取った。〈Bブロック図書館 — 寄贈品管理補助 募集〉。時給、時間、連絡先。片隅に小さな手書きの文字——昨夜のシャッターの落書きと同じ筆致。


> — 結末は強制しない。




背筋が冷えた。ボールペンに見える文字が、光の下では墨縄みたいに真っ直ぐ立っていた。誰が、なぜここに。


退勤間際、もう一度横断歩道を通り、排水口をのぞく。ファスナーポケットのヘアピンはそこにある。真珠が一粒欠け、ピン先は塩の結晶のように白く固まっていた。アンカー。——声に出さずに、心の中でそう名づけた。


家に戻ってチラシの番号へ電話をかける。二回鳴って、すぐ出た。


「はい、Bブロック図書館です。」

「こんにちは。チラシを見て電話しました。寄贈品管理の補助、まだ募集してますか。」

「はい、しています。よろしければ明日の午後二時、地下入口へお越しください。簡単な適性テストと現場のご案内をします。」

「……大丈夫です。」

「お名前は……ハルさんで?」

「はい。ハルです。」

「では明日お待ちしています。二時、地下入口です。」


通話を切って、しばらく立ち尽くした。二時と二歩が頭の中で重なる。偶然だろうか。——それとも、「偶然」という名のサイン。


夜が降りた。シャワーを浴びながら、ファスナーポケットを何度も確かめる。ピンはそこにある。明日、図書館へ持っていくべきか、家に置くべきか——判断は保留。今日は「見る」だけにしよう。ベッドに横たわり、目を閉じた。


とても遅く、とても小さく——

…あ。


昨夜より少しだけはっきりした最初の母音が喉の奥で形になった。驚かないように慎重に息を整え、次の母音を取っておく。*明日二時。地下入口。聞いて、最後まで言う。そして——結末は、強制しない。*

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