E03 —— 契約書のある箱、そして扉が息をする方法

ペンギンの餌やりの時間には手が速くなる。速くなるほど、私の呼吸は短くなる。ユナが水と飴を一緒に差し出した。


「今日はしょっぱいのじゃなくて甘いの。最後まで読む人はエネルギー落ちるから」

「……ありがとう」


退勤のハンコを押しながら、鞄の中の小さなノートの角を親指でこする。中学のカウンセリング室で始まった癖だった。4-4-6呼吸、語尾つなぎ、今日の一行。 発表の前、試験の前、息が揺れたら一行を書いて最後まで読む。最初は緊張を縛る紐だった。今ここでは、その紐がマニュアルの名を得た。同じ動作だけど、席ができた。それだけが違う。


横断歩道を渡ってBブロックに入ると、ガラスのロビーに薄い曇り線が生まれては消えた。湿度差。財布の中の五行カードがこわばって触れる。二歩/横目/コンマ/赤い点/赤い線。


地下へ降りる前、ミホがラミカードの角を指でトンと弾く。「今日も現場ログは短く、最後まで。圧——レッドライン——待機」

私は上唇を湿らせて復唱した。「圧正常、レッドライン維持、待機6」


階段の一段目に、チョークの短い線がもう一本増えた。チュンベが言う。「外気湿度ちょい上がり。二歩維持。コンマ六」私は正面を避け、横目で艶を確認する。線は角度で現れては消える。越えてはいけない線。


乾燥室の前、昨日貼ったラベルのコピーに小さなチェックが増えていた。照度OK/湿度OK/匂い:維持/艶:維持。ミホが言う。「書類上は今日は一次確認。開封しても安全値。その前に——ハルさん、一行を先に」


ポケットのジッパーをすっと撫でる。ピンはそこにある。出さない。 その約束が手首を落ち着かせた。


「今は——規定に従って開封する。開封後は、記録を優先する。」


語尾が届いた瞬間、除湿機の風は同じなのに目の前の繊維が一度だけ薄く反転した。箱のテープ上の光が細り、元へ戻る。正常。 自分でそう記録して、カッターでテープをスッと切る。匂いは紙の埃と油、そして遅れて追いかけてくる甘さ。私は二歩ぶん体を引き、心臓を三度叩いた。ミホがマスクを上げる。


「匂い——甘+塩。強度1.5。視覚記録、開始。」


バインダーと封筒を斜めに流し見る。『灯台交代日誌』『海霧警報の伝達』『入出港の報告』。同じ月の記録が交差して綴じられている。底板の上に、白い封筒が一つ上品に横たわり、右上には〈案内〉。ミホが首を振る。「封筒は最後」


交代日誌を開くと、表が正直だった。交代者——交代時刻——視程——海面——灯光——特記。 特記:なし/なし/なし…… 右上に王冠に似た薄い印が押されたページが一枚。日付の隣に小さな鉛筆の丸。私が口にすると、ミホが赤い点を先に席に置く。「紙に直接記入は禁止。席が先。目でだけ確認。」


舌の先に『今は——読まない』がちらっと浮かんで、そのまま飲み込まれた。アクリル板の赤い点が、私の判断の代わりになる感覚。海霧警報の伝達記録の一行はインクの滲みが遅れ、そのすぐ後ろの行は先に走っていた。遅延と追い越し。 言葉の二つの速度。私はカード裏に短く記す。遅延——一行——後行/なし——前進。


扉がコトンと鳴り、風の道がわずかに変わった。「圧4.5。階段側に赤い線を一つ追加」チュンベの声。言葉の背後で、出入口の影が猫のしっぽみたいにすっとよぎって消える。正面を避け、横目だけで確認。影は赤い線の手前ですくみ、空調へほぐれていった。


最後に白い封筒を裏返す。隅に小さなロゴ——王冠、そして本物みたいな水滴。文面は正直で親切。〈安全な結末の保証〉。昨夜スマホで受け取ったアンケートと同じ語。私はほとんど反射で言った。「スパム」

「スパム」ミホも同じ語で受けた。だが声色には用心が乗る。「寄贈箱から出たスパムは“汚染”。手順は簡単。読む——隔離——保留」


私は封筒を開き、正面から文を読む。偶発的な悲劇も、予告のない喪失も、ここでは起こりません。今ここでの結末を保証するために——あなたの小さな声が必要です。 親切な書体、下線なし、安心を誘うフォント。文末が自分で滑り出しそうになった瞬間、私は一行をつかむ。


「今は——読むが、ついてはいかない」


舌の奥がうすく痺れた。ミホが封筒を透明ポケットに入れて隔離し、赤い点を席へ移す。その時、ポケットの中のヘアピンがコトンと二度揺れた。……ア——ラ。 母音が二つ。 私はメモカードに書く。鼻歌の影——母音2——伸びる。それからポケットに手を置く。今は、保留。


乾燥室がゆっくり沈静した。ラベルプリンタは止まり、風は低い音に戻る。私は『特記なし』の画をなぞり直す。日によって「なし」の最初の縦画が長かったり短かったり。同じ人、同じ表、違う速度。

「見えますか?」ミホ。

「はい。ある日は——先に走ってます」

彼女は**『なし——前進——後行比較』**と書いた。「今日はここまで」


箱を再封し、今日の日付をラベルに添える。一次確認——完了——保留維持。 廊下を抜けながら、階段側は正面だけ見た。赤い線は所定にあった。チュンベがチョークをポケットにしまいながらぽんと放る。

「安全は退屈であって安全だ」

「退屈ですね」

「そう。だから安全」


退館のサインをしてから、私はおそるおそる訊ねる。

「その……私、何か——よく見える方なんでしょうか?」

「角度がいいです」ミホは同じ言葉を繰り返す。「でも今日はラベルを変えないで。図書館だから。今の名前だけ」


外に出ると、ロビーのガラスに薄い曇りがもう一度すっとかすめた。スマホの画面に別のアンケート。Q2. 今すぐ結末の保証を受けたいですか? 本日加入なら音声入力なしでも可能です。 画面の中央をごく薄い赤い線が横切る。私はボタンを押さず、入力欄にゆっくり一文を打ち込んだ。


「今は——いいえ。」


送信と同時に、胸の内で**……アが鳴り、続いてラが低く追う**。今度はとても小さくウが付いた。……ア——ラ——ウ。ハル。 名前が内側で鋳上がる感じ。私は道の真ん中で止まり、正面だけ空を見た。甘い匂いはない。風は風で、信号は信号だった。


家の前で、今日最後の一行を取り出す。カウンセリング室のノートではなく、ラミカードの書式どおり。二つが今や一つになったみたいに。


「今は——よくやった。そして——明日、訊ねる。」


句点が触れると、小さな**……ア**が一度鳴いて止まった。その先の音は保留。質問は明日。なぜ私がこれらを見るのか、なぜあなたたちは私にこんなに自然なのか。

今日は——結末を強いない。今日は——席だけ整える。

扉は、今日も、静かに息をしていた。

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