第29話 Never More(もう二度と)

報告を受けたリヒトは、駆けつけた。

リヒトの不安が表面化し、息も冷たく、指の感覚も無くなるほどの冷気が彼を覆っていた。

無機質な廊下を走り、彼は何故、どうしてと自問していた。


中央デッキでは、ナギニ・ラオが冷たいカプセルの中で眠っていた。


「何があったんだ、瞬。」

「……彼が、ナギニが“自分が密偵(スパイ)だった”と自白した。」


リヒトは拳を握りしめた。

「そんなはず、ない。」


「だが、証拠も出てきた。」

瞬の声は冷静だった。だが、その手は震えていた。


「リヒト。これ以上、ナギニを庇うのはやめてくれ。」


リヒトは答えなかった。

ただ、ナギニの眠るカプセルに触れた。

その掌に、青の光が微かに滲んだ。


「……そんなはずない。俺はナギを信じる。最後まで」


誰に言ったのか、自分でもわからなかった。


***


ナギニは冷凍カプセルで母星に移送されることになった。

異例の対応なのは、ナギニの能力ゆえである。

ナギニの黒(ノクス)の能力は未知で、不完全だ。万一のことがあってはいけないと、完全に意識のない状態で運ばれることになった。


「…んだよそれっ!まるで重罪人みたいじゃないかっ!」


リヒトは最後まで瞬に抗議した。


「瞬、せめて一言…ナギと話させてくれよ」

「ダメだ。逃亡の恐れがある。」


…うそだ。ナギの能力なら、母星に送った所で逃亡なんていくらでも出来る。

瞬はリヒトが裏切ることを警戒しているのだ。

ナギと一緒に、アスリオンの勢力構造をひっくり返してしまうかもしれないと。


それに…絶対に裏切らない、とは言えなかった。

ナギに懇願されたら、ナギが自分じゃないと言ったら、リヒトは自分でも何をするか分からなかった。


「リヒト…」


リミとカイハが心配そうにリヒトの名を呼ぶ。

結果的にそれが抑止力となって、リヒトは口を閉ざした。


星の海を滑るように、一隻の輸送艦が母艦(アスリオン)に近づく。

ナギニの輸送艦がブリッジに到着する。


リヒトはそれをハッチの内側から眺め、息を吐いた。

壁に背を預け、冷たい床に腰を下ろす。

もうこれ以上、冷静に見ていられそうになかった。


「リヒト…どうする?」


リヒトの影からノクスの声が聞こえた。


「頼む…ナギを守ってくれ。必ず助けに行く。」


リヒトは頭を上げず、ノクスに語り掛ける。

生きているかぎり、助ける方法はある。焦るな。

まずはナギを嵌めた奴を見つける。リヒトはジワリと黒の力を放出した。



***


その時、戸ヶ崎光一郎は歓喜に打ち震えていた。

かつて地上にあったアスリオンの廃墟の中、薄暗い研究室に、男の低い笑い声がこだました。


――やはり、神は俺を選んだ。

この手で、新たな時代を創るのだ。


壁一面に並ぶホログラムモニターが、青と黒の光で室内を照らしている。

ひとつの映像に、冷凍カプセルに眠る青年――ナギニ・ラオの姿が映っていた。


「黒(ノクス)の適合者が、ついに手に入りました。」

背後で報告する部下の声が、震えていた。

光一郎はゆっくりと立ち上がり、画面に手を伸ばす。


「いつだ?」

「数日中には、母星への搬送が完了する予定です。」


光一郎の唇が歪む。

「そうか。……神の摂理とは、なんと美しいことだ。」


彼はまるで祈るように両手を組み、うっとりと呟いた。

「“黒”が目覚める。すなわち、“光”の時代の終わりだ。

 我々は、真の神の意志をこの世界に顕現させる。」


モニターの中のナギニが、微かに光を反射して見えた。

光一郎の目が、それに応えるように妖しく輝く。


「――ノクスの力を、我が手に。」


背後の報告員が小さく頭を下げる。

「例のスパイ、計画通りに動いております。」


「よくやった。」

光一郎は静かに笑った。その笑みには、神への信仰と、人間としての理性の崩壊が入り混じっていた。


――すべては、神の――俺の意志のままに。




***


目を覚ますと、真っ白な光に包まれていた。

天井のライトが眩しく、視界の端には宇宙服を着た数人の人影が見える。

金属の冷たさが、手足を締めつけていた。


――拘束されている。


腕も足も、ベッドごと固定され、身じろぎひとつできない。

ナギニは反射的に力を込めた。

だが、拘束具はびくともしない。

それなのに、周囲の人間が一斉に後ずさる。


「黒(ノクス)の適合者が、目を覚ましたぞ!」

「距離を取れ、力が発動したら終わりだ!」


怯えの声が飛び交う。

その言葉に、ナギニはようやく気づいた。

――彼らは、自分の“力”を恐れている。


(俺は……怪物かよ)


心の底が、ひどく冷たくなった。

ナギニは目を閉じ、手のひらに意識を集める。

少しでも力を解放すれば、拘束具など一瞬で消失するだろう。


だが――その先にある光景を、彼は知っていた。

黒い霧の立ち込める研究棟。

生きとし生けるもの死へ導く闇。

崩れ落ちる幼馴染の少女。その片割れの慟哭。

血の匂いと、後悔。


「……もう、誰も殺したくない。」


リヒトの声が脳裏に蘇る。

“お前の力は、壊すためのものじゃない。守るためにあるんだ。”


ナギニの手の中で、黒い光が震えた。

制御を失えば、暴走する。

しかしその瞬間――耳元で低い声がした。


「……力を使え。」


息が詰まる。

忘れもしない、憎悪そのものの声。


「ノクス……!」


奥歯がきしむほど、強く噛み締めた。

この声、この存在。

こいつのせいで、自分は“人殺し”になった。

こいつのせいで、柚葉を――カイハの妹を――殺した。


「今さら、何を守れってんだよ……!」


胸の奥が、灼けるように痛んだ。

それでも、ノクスの声は静かだった。


「俺ではない。……リヒトの言葉を、聞け。」


ノクスの気配が、心の奥で静かに揺らぐ。

冷たいが、どこかに“人”の温もりがあった。


(リヒト……?)


声は出ない。だが、確かに答えが返ってきた。


「リヒトが、お前を助けに来る。それまで――生き延びろ。」


(……やっぱり、見捨ててなかったんだな)


胸の奥が、ほんのりと熱くなった。

ナギニの指先がわずかに震える。

その光を、彼はそっと握りつぶした。


やがて、監視員たちが慎重に近づいてくる。

麻酔針、冷却装置、検体搬送用のカプセル――。

きっと、ろくなことにはならない。


けれど、ナギニはもう抵抗しなかった。

彼が取った最後の手段は、力ではなく、静寂だった。


――意識の奥底へ、自ら沈んでいく。

リヒトが来るその時まで、決して目を覚まさないように。


白い光が遠ざかっていく中で、彼の影だけがゆっくりと蠢いた。

黒(ノクス)の力が、彼を包み込み、眠りへと導く。


そしてその瞬間、

ナギニの中で何かが“覚醒”を始めていた。

破壊ではなく――守るための黒が、静かに息づき始めていた。

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