第30話 追跡 ―リヒト、母星へ―
施設全体が、まるで時間を止めたかのように静まり返っていた。
照明は落とされ、薄闇の中にわずかな黒いモヤが漂っている。
それはノクスの残滓にも似ていた。
空調の音も、電子パネルの点滅も止まっている。
生きているはずの機械が、息を潜めていた。
「ナギ……ノクス、いるか?」
応答はない。
リヒトは無音の廊下を一歩ずつ進んだ。
足音だけが、虚ろに反響する。
扉を一つ開けるたび、冷たい風が頬をかすめた。
人気がない。
それなのに、誰かに見られているような気配がある。
(……やっぱり、ここにいるんだな。)
胸の奥がざらつくような感覚。
ノクスが残した“影の道”を辿るようにして、リヒトは進んでいった――。
* * *
時を遡ること五日前。
ナギニの移送後――アスリオンは徹底した内部調査に入っていた。
そんな中、リヒトは一人、訓練室の隅に座っていた。
床に落ちる自分の影を見つめ、拳を握る。
「……影が、動いた?」
微かな黒が、床の上で波打った。
黒(ノクス)の力は、確かにリヒト自身のものだった。
しかし――黒(ノクス)の力が共鳴する。
ナギニの力が、遠く離れた場所から“応えて”いた。
一瞬、脳裏にノイズのような声が走る。
「……リヒト……」
言葉にならない音が、胸の奥で脈打つ。
確かに、ナギの“意志”が呼んでいた。
そこに、何かの断片が見えた。
通信ログ。暗号化データ。
発信源――“イチゴ”。
「……お前だったのか。」
喉の奥が焼けるようだった。
信じたくなかった。
だが、真実は冷酷だった。
リヒトはすぐにイチゴの私室へ向かった。
ドアを開けると、イチゴはいつもの笑みを浮かべていた。
「どうしたん? そんな顔して。」
「イチゴ、もうやめてくれ。ナギを巻き込むな。」
リヒトの声は低く、冷たく沈んでいた。
イチゴは目を細め、肩をすくめた。
「……あれぇ?もうバレてもうた?」
「どうしてだ。お前が敵側に……」
「敵? 敵ちゃうよ。俺は最初から“生き残る側”についてるだけや。」
その言葉が引き金になった。
黒い光が一瞬、リヒトの掌で閃く。
「言え、誰に指示された!?ナギをどこに連れて行った!」
イチゴは一歩下がり、通信端末に手を伸ばした――その瞬間。
「やめろ、リヒト。」
静かな声が部屋を裂いた。
瞬が立っていた。
その目は、かつての仲間を見るようなものではなかった。
「瞬……邪魔をするのか。」
リヒトの声は低く、震えていた。
彼の周囲に黒い光の粒子が浮かび始める。
「イチゴの身柄は黄(ソレイユ)が預かって、調べる。」
「いまさら取調べ? ナギはすぐに母星に送ったくせに?お前、何考えてんだよ!?」
その言葉に、瞬の眉がわずかに動いた。
沈黙が数秒続き――次の瞬間、二人の力がぶつかり合った。
黒と黄。
影と光。
床が悲鳴を上げ、壁がひび割れる。
空気が焼け、訓練室全体が軋んだ。
「お前は感情で動くな、リヒト!」
「感情で動かずに、誰がナギを守るんだよッ!」
「それがお前の弱さだ!」
「違ぇよ、それが“人間”だ!!」
互いの力が衝突し、爆風が走る。
機材が吹き飛び、モニターが弾ける。
黒が黄を侵食し、黄が黒を焼く。
「やめろ、二人とも!!!」
轟音の中、レオンの怒声が響いた。
巨体を盾のように割って入り、二人の力を腕で受け止める。
衝撃でレオンの髪が舞い、金属の床がきしむ。
「これ以上やったら、本当に壊れるぞ……お前らの守ったアスリオンが!」
リヒトと瞬は睨み合ったまま、息を荒げた。
互いに一歩も引かない。
沈黙の後、瞬が吐き出すように言った。
「……イチゴは黄(ソレイユ)の監視下に置く。これ以上の干渉は禁止だ。」
リヒトは歯を食いしばったまま、拳を握りしめた。
「……好きにしろ。」
黒い残光を残して、リヒトは部屋を出ていった。
***
――しかし、その三日後。
警報が鳴り響いた。
黄(ソレイユ)管轄の隔離区画で、通信妨害。
監視ドローンは全て停止。
封鎖ゲートが一瞬だけ開いた。
「イチゴが――逃げた!?」
報告が上がった時にはもう、遅かった。
シャトルの残影が、宇宙空間へと消えていった。
リヒトと瞬がブリッジに駆け込んだ時、
モニターには、微かに光るシャトルの尾だけが映っていた。
瞬は唇を噛み、低く呟く。
「……間違いない。スパイはイチゴだ。」
その言葉に、リヒトは拳を強く握りしめた。
血が滲むほどに。
「もう遅ぇんだよ、瞬……!」
怒りが爆ぜた。
背後に黒い渦が立ち昇り、床を焦がす。
瞬の光がそれを押し返し、二人の間で稲妻が走る。
「お前は、どこへ行くつもりだ。」
「ナギを取り戻す。」
言い終えると同時に、リヒトは背を向けた。
白い制服の裾が、黒い風に揺れる。
瞬は追わなかった。
ただ、ほんの一瞬――その目に“寂しさ”が灯った。
「……そうか。行けよ、リヒト。」
扉が閉まり、残されたのは焦げた空気と、静寂だけだった。
***
リヒトは自室へ戻る。
部屋はいつものようにしんと静まり返っていた。
ここに居たはずの柚葉もアズも、ナギも居ない。
笑い声が溢れていた頃を思い出す。
もうここには戻らない。――そう決めて、荷をまとめた。
ブリッジにはリヒトを見送る三人がいた。
カイハが腕を組み、わざと明るい声で言う。
「ねぇ、あのバカ連れて帰ってきてよ。死なせたら承知しないからね。」
リヒトは笑おうとしたが、声が出なかった。
リミがそっと近づき、ぽつりと呟く。
「……帰ってきたら、“サトミ”って呼んで。」
「え?」
「約束だからね。」
照れ隠しのように、リミはすぐに背を向けた。
レオンは小銃を渡しながら言う。
「それ返せよ。直接、だ。」
リヒトは小銃を受け取り、小さく頷いた。
「……ああ。わかった。」
それ以上、何も言えなかった。
もし言葉を発したら、泣いてしまいそうだったから。
格納庫の扉が開く。
白い光が差し込み、宇宙の闇が広がる。
リヒトは一歩、前へ出た。
(待ってろ、ナギ。今度こそ、お前を守る。)
その影が、光の中に溶けて消えた。
遠く、誰かの声が呼んでいる気がした。――「リヒト」と。
――そして、物語は再び“今”へ。
静まり返った母星の廊下で、リヒトは息を潜めながら、ナギニの名を呼んだ。
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