14歩目 革命
「試技順五番。三一〇六、戸田さん」
「はい」
ウォーミングアップを止め、Tシャツを脱いで紺色のユニフォーム姿になる。
胸に書かれた「夏風」の文字に手を置く。
――今日こそ勝つ。
去年ぶりの夏風運動公園。夏季大会が始まる。
相変わらず緑は青々と茂っている。
山の土のにおいがすぐそばにある。
グラウンドは、いつもの市の競技場より影が濃くて、太陽も近い。
空気は曇りも濁りもない。青くて透明な色をしている。
肺に取り込むたび、ストンと落ちて染み渡る。指先の細胞一つ一つまでも冴えわたっていくイメージだ。
順番待ちの待機テントの外は風が無く、日陰を出れば直射日光がチカチカとまぶしい。
山から聞こえる、うるさかったはずの蝉の声も、トラックを走る三〇〇〇メートル走の応援も、どこか遠くに聞こえた。
二四.五メートル先の景色は陽炎が揺らいで、世界が歪んで見える。
日焼け止めと制汗剤が混じった匂い。
前髪をはり付ける汗でさえ、今は心地よい。
うんざりするはずの暑さを感じないほど、身体は興奮しているのだ。
今日は跳べる。絶対に。
「いきます」
走り出して、勢いのままに跳んだ。
踏み切りの瞬間、空中姿勢。コマ送りの世界に飛び込んだように、〇コンマ数秒がよく見えた。
山の緑と空の青。二色のコントラストは、去年の夏より一等はっきりしている。
高く、軽やかに。
目線の先に広がる景色は開けていて、青い。
空に手を伸ばす。太陽の光が眩しくて、目を細めた。
全体で抱きかかえた真夏の空気は、涼しくて熱い。
着地をしても、まだ身体の奥に空への浮遊感が残る。
「四メートル二五!」
記録係の声でハッとする。
自己ベスト更新だ。
ふわふわとした感覚で砂場を出ようとした瞬間、肩を叩かれた。
「オメデトウ!」
一番に結果を伝えたかった声の主。満面の笑みとはこのことを言う。
「向井さん、待機のテントに戻っていなかったんですか!?」
「せっかくだから砂場の横で、ツバサちゃんのこと見てた」
全部この人は見ていてくれた。
あの一本を見ていてくれたんだ。
握ったこぶしが大きく一度震え、暑いはずなのに身体が泡立つ。
小学生の陸上大会から二年。やっとこの会場で記録が出せた。
四メートルを公式記録で測ってもらえた。
今までで、いちばん向井さんの記録に近付いた。
喜ばないわけがない。
興奮して、うれしくて、でもまだ跳べると思える。
自分の感情がわからない。気持ちがあふれ出すように、口角が上がりきったままだ。
「……向井さん、さっきの一本どのくらい跳びましたか?」
私の三人前の、試技順は二番目。
結果をきけば、八重歯をのぞかせた笑みとブイサインが返ってくる。
「二八」
「……あと三センチ」
届きそうで届かない。
この距離がどうしようもなくもどかしい。
「まだ五本ある! がんばろう!」
「五本って、ふたりで決勝まで行く予定ですか」
走幅跳の決勝は上位八名。
今跳んでいる予選で三本、決勝に進めればもう三本。合計六本の勝負だ。
「ちっちゃい大会だし、四メートル出せば決勝は確実だよ」
「そーですね」
二本目は二人とも記録が伸びず。
四メートル一五と〇九。
昨日の調子とはまるで違う。
いつも通り向井さんはアドバイスをしてくれるけど、約二〇センチも急に記録が悪くなる理由だとも思えなかった。
助走のスピードは? 腕の伸びは? 振り上げた足、背中の反らせ具合は?
無限ループのように考えるけれど、改善点は見つかりそうで見つからない。
カンッ、と足の裏に音が響いて。
さっき空は、何色だった?
「向井さん、自己ベストのプレッシャー的な感じですかね」
音もなく首を横に振る。
「肩の力、抜こう。ほら、キミはツバサちゃん!」
バシッと音を立てて背中を叩かれた。
答えになっていない。それでもあなたがそう言うなら。
「そうですね。私はツバサちゃん、ですもんね」
ジンジンとする背中。
真っ直ぐに伸びた気がする。
後悔する時間より、自分の跳躍に自信を持て。
大丈夫。きっと次に見上げる空は青いから。
「ちょっと飛んでくるから、よく見ていて」
三本目の試技が始まる。
テントの中から見えた背中。
いつものように歩くように助走が始まる。
紺色のユニフォームと白い肩。直射日光で一層白飛びして見える。おそろいの紺が食い込む太腿も、一歩進むごとに反発をもらいながらブルリと発光する。
ゆっくりとリズムに乗って加速する。
競技場の地面、赤いタータンのゴムを蹴って、残り数メートルを残してトップスピード。
ラスト一歩は短く。
ふくらはぎが隆起する。
真っ白な踏切板からは、
カンッ。
高い音が響いた。
――宙を舞う。
そんな言葉が相応しい。
ゆるく弓なりに身体が反る。
着地までの時間で静止画を見た。
高い跳躍は長い滞空時間を意味する。
前方に向かってななめ四五度。なだらかな弧を描く中で反らされた身体はかがむ姿勢になる。
完璧だ。
揺れる短髪も、細くしなやかな指先も、全部が夏の青の一部になった。
悔しいが二年間となりで見てきた中で一番きれいな反り跳びだ。
くちびるを嚙むよりも先に声が漏れた。
「ああ」とか「おお」とか「わあ」だったかもしれない。
ため息と変わらない、歓声に似たなき声だ。
砂場の横の記録板の文字が書き換わる。
「四メートル三二」
「まだ、私は戦える。届く、絶対に」
立ち上がった向井さんが、静かに笑った気がした。
何度だって最高を、その瞬間に越えていく。
負けていられない。
胸を叩いて、息を吸う。
「いきます!」
もっと高く、遠くへ。
近付いたら、近付いた分だけ、あなたは先に行ってしまうから。
私が跳んでいるのはまだ「空」で、もっと遠くに行かなければ追いつけない。手を伸ばして私も早く「飛びたい」から。
感情が高まった状態で走ると自分が自分でなくなる感覚と、思いのままに、想像以上に身体が動く感覚がある。
意識せずとも意のままに。
足の回転が上がり、キレのある一歩が出るたびに「私ってこんなに動けたんだ」と感動する。
ストッパーが外れたように。
トリガーを引かれたように。
感情の濁流に押されて「もっと走れ」の電気信号が身体中を駆け巡る。
スパイクのピンが反発して、前に前にと身体を送る。
足の筋肉も体幹もこわばるようだが、張り詰めてはいない。
指先でぬるい空気を切り開くと、ひゅるりと風は耳元で歌う。
左足を詰める。一七歩目、右足を踏み込む。ジャスト。
カンッ!
地上から羽ばたく音がした。
「ツバサちゃん、今日の調子いいね」
「向井さんに勝つまでは下手な記録出せないので」
あなたのように飛びたい。
私は、いちばんになりたいんだ。
「五センチ差は向井サンも焦るよ?」
「私が優勝で、向井さんが準優勝の未来にしますね」
ケラケラと笑いながら、あったらいいなの話をする。
あればいいのにと、私は決まりきった協議終了までの時間を必死に伸ばしているのかもしれない。
「決勝で五メートル跳ばないとツバサちゃんには無理かなー?」
「三二より跳んだことない人が、五メートルとか言っちゃダメですよ。県大会とかのレベルの記録じゃないですか……」
「世界記録出すんだヨ」
「さすがに会場まちがっていますって。オリンピック、出ます?」
「けっこうアリかも! でもでも日本の! 山に囲まれた田舎の競技場で! 一〇メートルとか跳んだらカッコよくない?」
がんばれば本当にできそう、みたいな熱量で話すからこの人には一生敵わない。
できっこないを知らない人。
そんな所が大好きだけど、今はこっそり胸に閉まっておく。
「大ぼら吹きの向井さんは跳んでいる時以外はかっこ悪いですよね」
「え、地味に傷ついた」
わざとジト目で言えば小学生並にしょげる。
「ごめんなさーい!」
ふたりで顔を見合せて笑い合う。こんな和やかな時間があっても許してほしい。
最後の全助走対決。
最後の大会。
先輩の引退試合。
現実なんて見たくないから笑っていたい。
決勝に残っていなければ、三本目の試技で終わり。夏も終わってしまう。
記録板に自分のナンバーは書かれているけれど、呼ばれるまでは確定じゃない。
係員が紙を手に、決勝進出者を読み上げる。
「試技順一番、三一〇六の戸田さん。試技順二番、二七一〇の向井さん。試技順三番………以上八名、準備を始めて下さい。残りの皆さんはお疲れ様でした」
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