13歩目 「 」
土の感触を確かめながら二四.五メートルを指すオレンジ色のマーカーまで歩いた。
メジャーの終着点で向井さんが右手を挙げている。返事をするように私も右手を挙げ、上体をやや反らす。
スッと短く息を吸うと、青くて乾いた、塩辛い夏のにおいがした。
「いきます」
サクリ、サクリとスパイクのピンが乾いたグラウンドに刺さる。
どれだけ走れば向井さんに追いつけるのだろう。
何回跳べば向井さん、あなたの記録をこせるだろう。
考えても答えは出ない。出なかった。
だから今日も、私は真っ直ぐに前を向いて走る。
ピッチ(足の回転)を上げて加速する。
ほぼトップスピードで風に乗る。
イマ、ここ。
カンッ!
右足で白い板を思い切り蹴り上げる。足の裏がビリビリする。ふわりと身体が空に浮かぶ。
青い。あの春の日よりもずっと。
空が高い。
ザッと足に砂がかかって地上に引き戻される。
もっと速く走れれば。高く跳ぶことができるなら。
視線を足元に落とすと、自分の着地点より先に、ゆるく湾曲した線が一本。
「向井さん、遠いですね」
「引退するまでは、だよ」
まぶしい。届きそうで届かない。
手を伸ばせば触れることができるだろうか。
見上げた向井さんの顔は逆光だ。背景の青が鮮烈だった。
立ち上がり、一足分短い記録を線で引く。
「よんめーとる、跳んでない……か。九〇前後」
もっと跳べた気分だったけれど。大丈夫、まだ一本目。
「踏み切り位置はどうでしたか」
「ばっちり。踏切板のド真ん中。リズムもよし。でも、ラスト一歩はもう少し詰められるかも」
淡々と要点を伝えてくれる。
どこが良くて、どうすれば良くなるのか。
普段はあんななのに、走幅跳にはびっくりするほど真剣だ。
そんな姿に、私はずっと憧れてきた。
「イッセーくん的には?」
「オレっスか? いつもより高かったなーって思いました」
「よく見てるじゃん。ナイス」
「ありがとうございます!」
イッセーの後ろに、しっぽと耳が見える気がした。
向井さんが大好きなのは、私だけじゃない。
「跳んでおいで」
鼻歌まじりに助走位置に向かうイッセー。
最近私と向井さんが歌っているCMソングだった。
ご機嫌な今日の彼は、きっとよく跳ぶ。
「ツバサちゃん、答えは出たかい?」
最近の向井さんは、なぞなぞブームだった。最後だから、特別な問題を用意してくれたのかもしれない。
「いいえ。まだです」
目を細めて助走レーンを見る。私
よりちょうど一〇センチ高い少年が走り出す。
スパイクの足跡が増えていく。グラウンドに響くリズムは軽やかだ。
短距離選手より早く一〇〇パーセントが出てしまうんだ、といつだったか教えてくれたのを思い出した。
カンッ。
踏切板を蹴り、右足が伸びる。
振り上げた左膝が身体に引き寄せられた。
真横に立つ私の頭より、どれほど高く跳び上がるのか。
両の手足を投げ、そのまま空中も走り続けるように飛ぶ。
一瞬。弾丸のような速度で跳び出した軌跡は、放物線の頂点になった。
高さも飛距離も一番はイッセーだ。
それでも、彼が跳ぶ瞬間も、私は――
「向井さん」
あなたを重ねて見てしまう。
揺れる髪、しなやかに反る身体。キラリと輝く瞳。
――水曜日。思い浮かぶ人だぁれ?
いつもより、少しだけ部活を長くできる水曜日。
少し早く、向井さんに会える水曜日。
なぞなぞを一問だけ多く解ける水曜日。
「向井さんは水曜日」
「え?」
「心理テストです。水曜日は向井さん」
「あ、オレも! オレも向井さん」
パンパンと砂を払ってイッセーは立ち上がって言った。
「二人とも私でいいの?」
向井さんはじわじわと赤くなって、両手で顔を隠した。
「こたえはね……こうなりたいとおもってる、あこがれのひとぉ」
砂場のすみっこにしゃがみこんで小さくなっている向井さんは、消えそうな声で「アリガト」と言った。
私とイッセーは、やっぱり顔を見合わせて吹き出した。
「イッセーくん、次、つま先ちょっと出てファールするかも。助走合わせようとしなくていい。そのまま走って。あと、空中にいるときの姿勢、めっちゃきれいになっていて、いいはさみ跳びできてた……」
向井さんの声はいつもより声が小さくて、早口。それでも丁寧で。
私でいいの? と不安がっているあなたがいいのだ。
私があこがれてしまったのはあの日からずっと向井さん、あなただから。
「イッセー、空、青く見えた?」
「今日はまだ。きっともっと高く飛べる」
グラウンドのはじっこ。小さな砂場で残り四本。
ジリジリと真上に向かう太陽は、残りの時間を急かしているようだ。
お願い。まだ昇りきらないで。終わりたくないんだ。
夏休み中は暑くなる前の午前中が活動時間だ。
今ばかりは熱中症対策に必死になってる大人がにくい。
そんな大人の事情はいらない。私たちには今しかないのに。
「向井さん、私もなぞなぞ出しますね」
「めずらしー」
まだ耳がほんのり赤い向井さんが、両手のすき間から上目遣いでのぞく。
「毎日見ているのに、一生かかっても手で触れないもの、なぁーんだ」
それはきっとあなたみたいな。
手を伸ばしても届かない。それでも触れたくて仕方ない、そんなもの。
「部活終わるまでに答えてくださいね」
短い髪をふるふると揺らし、しゃがんだ姿勢から向井さんはゆっくりと立ち上がる。
砂場の向こう側に悩む背中を見送って、私は真っ直ぐに手を空に伸ばした。
ああ、やっぱりまぶしい。視界が全部青になる。
指先からジンジンと熱で焼けそうで、汗がにじんでいく。
もういっそのこと私を溶かしてくれたらいいのに。
ギュッと目をつぶり、ゆっくりと開く。
向井さんは助走位置について右手を挙げていた。
私も伸ばしたままの右腕を下ろす。
「いきます」
凛として鋭い声が、風に乗ってグラウンドに抜けた。
スパイクの足音は、軽やかな夏の音。
白い踏切板を蹴って、向井さんが舞い上がる。
手を伸ばせば背中に触れることができるだろう。
でも、そうじゃないのだ。そんな簡単なことではない。
向井さんはずっと前で跳んでいる。もっと高く、もっと遠い場所にいる。
「……オレ、答えわかったわ」
イッセーは目を細めて、短距離を走る同級生たちを見ていた。夏風の男子リレーメンバーだ。
うちの部には短距離は三年男子がいなかった。
二年生でリレーを組むことになったが、一〇〇メートル、二〇〇メートルの短距離を専門に走る選手はたったの三人だけ。
後輩にスタートを出してもらって一〇〇メートルの加速走。
だんだんとゴールに向かってトップスピードになっていく。
今が何本目なのかは分からない。
白線上を転がるようにゴールして、遠目でもわかるくらい三人が笑いあっていた。
「すっげぇ、まぶしいよな」
イッセーは目を細めて真上を見た。
「青い」
きっとそれは彼も手を伸ばしたもの。
毎日見ているのに、触れられない。
ずっと遠い、――あこがれに似た、何か。
あの「 」に向かって私たちは助走をする。
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