5歩目 白マル

 競技前はサブグラウンド――競技場のとなりにある少し小さなグラウンドで身体を温める。

 いつもの練習みたいにジョギング、体操。ドリル運動のスキップ、両足ジャンプ。基礎的な動きを何種類か繰り返した。


「……向井さん、指先だけがずっと冷たいです」


 グーパーと手を動かして血を送るけれど、血色は今朝から戻らない。


「どんだけ緊張してるの!? 多めに流しておこうか」


「はい。五、六本走ります」


 “流し”は全力疾走を一〇〇パーセントとしたとき、七、八〇パーセントの速さで走るアップの一種。快調走なんて言い方もあるらしい。


「ツバサちゃん、今日の動き固くない? 肩に力入りすぎて苦しそう」


「自覚あります……」


 身体はポカポカに温まっているのに、筋肉はガチガチ。緊張でビクビク。

 どこにも「快調」要素が見当たらない。

 戸田つばさ、デビュー戦。コンディション最悪のまま開幕だ。


 大丈夫。落ち着け、私。

 バクバク鳴る心臓の音は聞こえないふり。

 大きく息を吸え。ちゃんと息を吸って吐け。呼吸をしろ私!

 それでも、はくはくと浅く空気が上手く吸えない。もちろん十分に息も吐けない。

 世界中の色が少しずつ褪せていくみたいに、競技場が別世界になっていく。

 幅跳びの砂場までの助走レーン。赤いタータンの地面に立っているのに、今、私の足はどこにも着いていなかった。


 助走レーンの終点。白い旗が下がる。

 ――競技開始の合図だ。


 泥で汚れたスパイク。他の同級生のものより茶色いスパイク。

 左足はオレンジ色の七番のマークに合わせる。

 二三・五メートル。

 いつもの助走距離で間違いない。大丈夫。大丈夫。


 息を吸う。右手をまっすぐ上に挙げる。

 ふっと息を短く吐いて、一歩目は右足から。


 練習の通り。いつも通り。

 走って勢いをつけて、踏切板が、もうすぐ。


 せーの、いち、に、さんっ。


 小さな音とともに身体が浮く。ほんの少しの浮遊感。

 次の瞬間には、砂場に両足が着いていた。


「マルッ!」


 審判の声が聞こえた。白い旗が上がる。砂場から出た私の横で、私の着地点、かかとの位置に刺さったピンが記録を測る前に抜かれていく。


 ……マルって何だ?


 マル、まる、丸。

 赤い旗ならファール。踏切板から出てしまっているんだから、記録なし。

 じゃあ白旗で「マル」ってことは、踏み切りには成功? 


「ツバサちゃん、おつかれさま!」


 ニコニコと駆け寄ってくる向井さん。

 私は、うまく笑えなかった。


「マルって言われました」


 その言葉を聞いた瞬間、向井さんの瞳の奥の色がほんの一瞬、変わった。

 言われなくても目で分かった。

 すごく悲しい顔を必死に隠している。まゆ毛も目じりも下がって、口の端だけ無理やり上げようとしている。

 だけど、中途半端に口が開いて、すぅと息だけが漏れた。


「……に届かなかったんだね」


 息が止まった。


 なんだそれは。


 走幅跳は、ファールしなければ記録を測ってもらえる競技じゃないのか。

 短距離や長距離みたいに、全員が記録をもらえるわけじゃないのか。


「走幅跳はね、毎回測ってもらえるワケじゃないんだ。大会によって“計測ライン”があるの」


「え、でも」


「春季選手権は三メートル二〇センチ。来週の市内大会や新人戦は三メートル五〇。……だいたいの公式戦が五〇かな。届かなければ測ってもらえないヨ」


 陸上競技は簡単なスポーツじゃなかったのか。

 誰でも、私だって向井さんみたいに跳べると思っていた。

 ……記録を必ず測ってもらえると思っていた。


「私、三メートル二〇も跳べなかったってことですか」


 入部して一ヶ月、毎日練習していたのに、小学生のころと変わらない記録、もしかしたらそれ以下しか跳べなかったってこと?


 小学生のころの記録が三メートル一四。二〇センチの計測ラインまであと六センチ。

 たぶん人差し指一本分くらい。

 たったそれだけ。なのに届かなかった。


 私は何も成長できなかったのか?


 自分の助走距離を知った。

 スピードに乗って遠くに跳べるように、短距離の走り込みだってした。


 イッセーから、高く跳べれば遠くにも跳べるって教えてもらった。

 助走の最後はリズムよく。

 ななめ四五度に向かって跳ぶ。

 目線は遠くに、膝を引き付けるようにして跳ぶ。


 たくさんのアドバイスをもらって、全部はムリだったけど、できるようになったこともたくさんある。

 だから……跳べた、かもしれない、くらいには思っていたんだ。記録はきっと伸びていると期待していたんだ。


「走幅跳ってさ、三本勝負なんだよ? まだ一本目。あと二本チャンスある。落ち込むのは、全部終わってから」


 向井さんの言葉を、唇を噛んで受け取る。


 聞き入れたくないから黙って耐える。

 心の中の私は「こんなはずじゃない」と叫んだ。

 わんわんと泣くように心が叫び続ける。

 口を開けたらきっとこの声は漏れ出てしまう。


「ツバサちゃん、二本目は改善できる。踏切板、足が届いてなかった。助走を二〇センチ短くして、足を前に出そう」


「そんなに出したら、つま先出ちゃいませんか」


 ファールがこわい。

「マル」の次が「バツ」ならどうしよう。

 記録が足りなかった次が、ルール違反なら?

 ちがう理由で記録なし。そんな未来が無いなんて、誰も約束してくれない。


「怖がらなくても大丈夫。損して記録なしより、勝負して実力見たくない?」


 この人には敵わない。

 届かないなら、自分が前に出る。

 私はいつも怖くて、ビビって、縮こまって立ち止まる。向井さんは迷いなく進む。


「つばさ」


 幅跳びピットの上。競技場の二階応援席からイッセーが顔を出していた。


「つばさは知らないかもだけど、向井さんはずっと前から踏み切ってるから!」


「そのくらい知ってるよ!」


 踏切板ぎりぎり。つま先すれすれ。

 それが向井さんの跳び方だ。練習中だって、何度もファールしていた。


「オレも、つばさより、ずっと前から跳んでいる!」


 そんなこと自分が一番わかっているよ。助走が合ってないことも、届いていないことも、そんなに言いたいか? 何回も言われなくたってわかる。私だってバカじゃない。


「ほら、向井さん跳ぶぞ。一緒に見ようぜ」


 イッセーの指先が助走レーンに移る。濃紺のユニフォームに身を包んだ先輩がいた。


 右手をまっすぐ伸ばして、スタートの合図。胸元に降ろした手を引き付けて、身体も少しだけ後ろに倒す。一拍置いて、走る。


 バネを使って走っているんだと思う。ポンポンとリズミカルに向井さんは走る。跳ねるように軽やかに、この人は楽しそうに走る。だんだんとスピードに乗って――

 イチ、ニ、サン。ドンピシャリ。


 踏切板を叩く音。バン。

 ぴったり一七歩目。右足が強く踏み込まれた。


 向井さんの身体が大きく空を飛ぶ。

 背中から回した両腕が、まるで羽のようだと思った。

 大鷲みたいに、まっすぐに一点を見つめる瞳に鳥肌が立った。


 向井さんは高くて遠い。

 私より少しだけ高い一六〇センチちょっとの身長が、私にはどんな選手よりも大きく見えた。


 反らされた上半身は大きくしなる。

 指先が青い空を撫でる。つかむ。かすめる。

 一瞬のうちにかがむ動作になって、全身で青を飲み込んだ。

 ふわりと風に揺れた毛先が太陽で輝く。背中の濃紺色が溶ける。


「……ずっと前だ」


 白旗が上がる。記録が読まれる。


 踏切の位置だけじゃない。

 向井さんも、イッセーも、ずっと前から

 一回目で並べるわけがない。私はまだ、同じ場所から踏み切れてさえいない。


「つばさ、焦るなよ」


 イッセーの声に、大きく頷いた。

 踏切板のギリギリ。


 あの音で、飛びたい。

 板の上から踏み切りたい。

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