4歩目 春と迷子
入部してから、なんとなく陸上競技ってヤツに慣れ始めた。
校庭の桜がすっかり葉桜に変わった日のことだった。
「さあ、キミたち。聞いておどろきたまえ!」
向井さんが突然、グラウンドに声を響かせた。
イッセーが目を細めて、わずらわしそうに返事をした。
「何ですか、向井さん。急に偉そうに改まっちゃって」
「いいからサボってないで手伝ってくださいよ。イッセーの荷物、持ってあげてください」
「ちえっ」
現在、部活開始の一〇分前。
今日は「部活デー」と呼ばれる、水曜日。五限が終わると即放課になる日だ。週に一度、六限目の授業も掃除もないのだ。
だから、いつもよりグラウンドに集まる時間が早い。
一年生は三階の教室からダッシュで集合。先輩方が来る前に何としても練習環境を整える使命を持っている。
私たち幅跳び組は、砂場の準備係。
体育倉庫から必要な道具を全部持っていく。
スコップ、砂ならしのトンボ、デカメジャー、ちびメジャー、目印マーカー、などなどの大荷物を二人で運んでいる最中である。
とにかく重い。しゃべっている場合でも、足を止める余裕もないのだ。
私たちには握力のタイムリミットが迫っていた。
「で、何なんスか」
スコップを一本持ってもらったイッセーが口を開いた。
「いやぁ、陸上部顧問の波多野先生いるでしょ? 社会の授業中に、ぽろっと聞いちゃったんだ」
「もったいぶらないで教えてくださいよ」
「えー? そういえばツバサちゃん、イッセーくんのこと呼び捨てになったね。いつの間に!?」
「それは、“苗字は不仲みたいだから呼び捨てにして欲しい”ってって言われて……いや、どうでもいいじゃないですか」
「オレの呼び方とか置いておいて。で、何を波多野先生から何聞いたんスか」
ズシャッ。
私は荷物を地面に置いた。手が限界だった。
白くなった手のひらに、ゆっくりと血が巡り始める。
「大会日程。キミたちのデビュー戦だよ」
「えっ!?」
ガツン、と音を立てて、私は思い切り地面に転がしたトンボを蹴り飛ばした。
つま先が痛いけど、構っていられない。
大股で三歩、向井さんのほうへ詰め寄る。
「いつですか! どこでやるんですか! 大きい大会なんですか!」
「来月末の土曜日、市の陸上競技場。大会って言っても、参加校はそんな多くないよ」
「……時期的に春季選手権っスか?」
イッセーが両手の荷物を地面に置き、首をかしげる。
「イッセーくん、大当たり。春季選手権なんだけど、多くの学校は、その次の週の市内大会を重視してるから出ないんだ。うちは毎年両方出るけど、春季選手権は任意参加なんだよ」
ふふん、と向井さんは鼻を鳴らしながら、私たちのことを見た。
「で、もちろん出場するよね?」
「出ます!!」
イッセーと私の声が重なった。
思わず笑ってしまう。
そんなこんなで出場が決まった「春季陸上選手権大会」だ。
参加校は、市内の「かけっこクラブなつかぜ」をはじめとする小学生チーム。中学校が春ケ丘、夏風、秋葉、冬河の四校。高校は春ケ丘と秋葉農業の二校。
イッセーは「かけっこクラブなつかぜ」の出身だ。
他校にはかつての仲間も選手として走って、今大会にも出場しているらしい。
中高一貫の強豪・春ケ丘にも、ライバルがいるとか。
さすが、としか言えない。
私には他校の状況なんて全く分からないけれど、イッセーが「すごい」と言うなら、本当にすごいのだろう。
先輩やイッセーには「小さい大会だよ」と言われていた。
ウソだ。きっと気を使ってくれたのだ。ビビっていた私をなだめすかしたんだ。
だって今、目の前の競技場は人であふれている。
「女子幅跳びはフィールド種目の一番手だね。一〇時開始だから、ウォーミングアップしようか」
フィールド種目は、「走幅跳」、親友の美羽がやっている「走高跳」、マッチョな先輩方が鉄球を投げる「砲丸投」、夏風中にはないが「棒高跳」という競技を中学生では指す。
高校生になると「三段跳」という走幅跳の進化バージョンみたいな競技や「円盤投」や「ハンマー投げ」、「やり投げ」なる新たな投てき競技もあるらしい。
どれも「トラック」と呼ばれる競技場内の走るレーン(短距離や長距離が走るところ)から外れたそれぞれの「フィールド」で競技が行われる。
走幅跳は幅跳びピットと呼ばれる砂場で競技を行う。
これだけあるのに、最初が「中高女子走幅跳」だとは。
ちなみに、プログラム二番は「小学生走幅跳」になっている。
中学生は小学生の次にプログラムを組んでほしかった。
「どうしてよりによって一番目なんですか」
「女子の幅跳びは午前中に終わることが多いからね。今のうちに大会のパターン、体で覚えとこ」
小学生は人数の関係で男女混合だからだろうか。
それを抜きにしても、女子の幅跳びだから私たちの競技は朝一番らしい。
向井さんは軽く笑った。
緊張して震える私の手を握りながら、陸上競技場の中へ入った。
ななめに肩からかけたエナメルバックのひもをぎゅっと握る。
練習の時よりもずっと重たい。
つめこんだ水筒やお弁当の重さを抜いたとしても、きっといつもよりも重く感じてしまうだろう。
ギリギリと肩口に食い込むひもも、左手に持ったスパイクシューズも、絶対にいつもの三倍くらい大きくなっているんだ。
市の競技場は初めてだった。
小学生の大会はもっと小さな会場で、自分より年上の選手はいなかったし、大人も少なかった。
体育の授業の延長にあった大会と全くちがう。
息がつまるほどピリついた空気。
夏風の先輩方の顔がこわばっているし、キビキビと歩く他校の上級生も同じ空気をまとっている。縮こまってすみっこを歩く私は、彼らの視界にすら入っていないだろう。冷たい汗が気持ち悪く背中を伝って、下くちびるを嚙んだ。
会場の空気が冷たくて、体をこわばらせた。
自分より大きな選手たち。強い選手。
笑っていない目から一歩下がってしまいそうだ。
少しくたびれたジャージを着た選手たちは、ずっとずっと大人に見えた。
競技の前だが帰りたい。
今この場から逃げ出したい。
知らない世界はいつでも怖い。
自分よりも大きな人は怖い。
小さなグラウンドのすみっこで跳んでいた私にとって、競技場は広すぎて迷子になった気分だった。
同じ夏風中の仲間は近くにいる。
なのに、私だけがぽつんと取り残されてしまったみたいに、心細い。
競技場がはじめては私だけじゃないのに、私だけが知らない場所。
きっとずっと私は、私が思っているより何も知らない。
夏風の先輩も、今日がデビュー戦の同級生も、誰一人としてビクビクしている人はいない。
みんな「選手」の顔をしているのだ。
何が私とちがうだろう?
身長、筋肉量、背筋の伸び具合? それだけではない。
まっすぐ前を向いて、キリッと冷たくて熱い空気が一番ちがう。
息がつまる。苦しいほどに自分が情けなくて、どんどん小さくなっていく。
――幼いころ、デパートで迷子になった時のことを思い出す。
私の周り全員が知らない人で。ふらふら歩いていても声をかけて助けてくれる人がいない。
どんなに呼んでも、誰も気づかない。
みんな私を知らんぷり。だあれも私を瞳に映さない。
あの時みたいに、ここでも私は小さくなる。
「ねぇ、ツバサちゃん」
その声に、はっと顔を上げた。
誰も私を見ていなかった? そんなことはなかった。
向井さんがすぐそばにいた。
今日みたいに私を呼んでくれた人がいた。
やわらかい声はすぐそばにあったんだ。
「ツバサちゃん、大会のときこそ笑って」
つかまれた右腕に力がこもった。
下を向いていた顔を上げると、ぱっちりした目が合う。
「ほら、だいじょうぶ。笑えば、こわいものなしだよ」
白い歯がまぶしかった。
初めての競技場。
それでも、隣に向井さんがいる。
私は迷子じゃない。
「デビュー戦はキンチョーするよね。空気が熱すぎて、自分も焦がされそうになるもん」
向井さんの手は熱い。
私の冷たい手とはまるでちがう。
瞳がきらきらと光であふれている。
「ツバサちゃん。先輩から大会の極意を伝授しよう!」
向井さんは私だけを瞳の中に閉じ込めて言った。
「楽しんで跳べ!」
その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなった。
向井さんの手が私を引く。
――さあ、行こう。ここから始まるんだ。
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