第1部:交流 / 第10話:神様のおまじない

 その夜、ユーリたちの計らいで訪れた町の大きな食堂は、活気と熱気に満ちていた。

 中央に設けられた小さな舞台では、旅芸人のリリィが情熱的な舞を披露している。その傍らでは、相棒のラナがリュートを奏で、異国情緒あふれる旋律で、リリィの踊りを彩っていた。リリィの豊満な身体がしなやかに、そして大胆に動くたび、食堂に集まった男たちから熱狂的な歓声が上がった。

「うおおぉ、リリィちゃーん!」

「こっち向いてくれー!」

 アンナの幼なじみのノアまでもが、目をハートにしてデレデレとその姿に見とれている。その隣で、フィオナが呆れたように「何デレデレしてるのよ!」とノアの脇腹に肘鉄を食らわせた。

 マチルダは、その光景を腕を組んで冷ややかに見ていた。「…なんじゃ、あの下品な女は。乳を放り出して、はしたない」とアーサーにだけ聞こえるように毒づきつつも、その瞳は、人間の肉体が描き出す圧倒的な「美しさ」からは、目が離せないでいた。

 食堂の隅の席では、ユーリとカリーナ婆が、その喧騒から切り離されたように深刻な会話を交わしている。

 一方、リリィの舞が終わり、喝采を浴びながら舞台を降りた彼女は、まっすぐにマチルダたちのテーブルへとやって来た。

「かーわいー!」

 リリィはそう叫ぶなり、有無を言わさずその豊満な胸にマチルダの顔を埋めるように抱きしめた。

「なっ…!はっ、はなせ!寄るでない!ち、乳が邪魔じゃ!」

 未知の柔らかい感触と息苦しさに、マチルダは顔を真っ赤にして大パニック。その様子を見て、アンナもフィオナも大笑いしている。

 リリィはからからと笑ってマチルダを解放すると、今度はアーサーの頭を優しく撫でた。「あんたは賢そうね」。アーサーはまんざらでもない様子で、少しデレっとする。

 その瞬間、マチルダの中に名状しがたいイラッとした感情が湧き上がる。彼女は無意識に、デレっとしているアーサーの頭をポカリと小突く。

「イタッ! まっ、マチルダ様、なにをするんですか!?」

「…理由などない」

 自分でもなぜ小突いたのか分からず、マチルダはぷいっとそっぽを向いた。

 その騒ぎの隙に、チャチャが目にもとまらぬ速さでリリィの胸の谷間にダイブ! それを見ていた男たちが「ヒューヒュー!」とやんややんやの喝采だ。

「こらっ、この子はどこに入り込んでるのさ!」

 リリィは笑いながら、胸元で満足げに丸まっているチャチャをつまみ出した。

 ひとしきり騒いだ後、マチルダはリリィとラナに向き直り、尊大な態度で告げた。

「まあ、悪くない舞であった。褒美をくれてやる」

 彼女は二人に、まるで世界の真理でも告げるかのように厳かに宣言し、なにやら手をかざした。

「よし!これでおぬしたちは、この先一生、雨に濡れることはないじゃろう」

 しーん、と一瞬の静寂の後、食堂にいた町人たちがどっと笑い出した。

「ははは!なんだい、そりゃ!」「面白いお嬢ちゃんだな!」

 リリィやラナ、アンナたちも、それが子供の可愛らしい冗談だと思い、微笑ましく笑っている。

 しかし、マチルダは『笑われていた』その事実に気づいた彼女の雰囲気が一変する。食堂の賑やかな空気が氷のように冷え込み、彼女は食堂全体に冷たい眼差しを向けた。それは、まるで虫けらを見るような、いつでも握りつぶせるか弱い命を弄ぶかのような、ただの石ころを見るような目だった。

「……おまえたち、ワシを愚弄しておるのか?」

 その声には、先ほどまでの子供っぽさなど微塵もなかった。その隣で、カラスのアーサーもまた、周囲を冷徹な瞳で見渡していた。

 凍りついた空気の中、ラナが優しく一歩前に出る。

「ちがうのよ、マチルダちゃん」

 彼女は、マチルダを宥めるように、そして皆に教えるように、魔法の理を丁寧に説明し始めた。

「あのね、魔法っていうのは、まず地面や空中に『魔法陣』っていう術式を描いて、そこに流れているマナっていう力を通すことで初めて使えるものなの。だから、術式なしに魔法は使えないのよ」

 ラナは続ける。

「それに、雨っていうのはね、とってもとっても小さな水の粒がたくさん集まったものなの。その全てを体に触れる前に弾くとなると、すっごく複雑な術式と、膨大な魔力が必要になるわ。例えば風の魔法で体を包もうとしても、そんな繊細なコントロールをしたら周りの人や物が吹き飛んじゃう。それを自動で、他人に、しかも『一生』だなんて…そんな魔法、時の大賢者様だってできっこないと思うわ」

 マチルダは、その小難しい説明に心底うんざりした顔をした。

「なんじゃ人間はややこしいのう。そんなもの、ただ思えば良いだけではないか」

 ラナは、マチルダの気持ちを否定しないように、場を収めるためににっこりと微笑んだ。

「そう…じゃあ、私とリリィに素敵なおまじないをかけてくれたのかな?」

「おまじないとはなんじゃ?」

「ん〜」とラナは少し考える。「神様にお願いするようなものかな?」

 その言葉に、マチルダの表情が初めて大きく動いた。彼女は一瞬きょとんとし、やがて腹を抱えて高笑いを始めた。

「神か! カカカ! そうじゃ、そうじゃ!そういうことにしておいてやる!」

 マチルダのけたけたという笑い声に、町人たちは「なんだかよく分からないけど、面白い子だな」と安堵し、食堂は再び和やかな雰囲気に包まれた。

 しかし、その食堂の隅の席で、ユーリとカリーナ婆だけは、笑っていなかった。二人は、マチルダの言葉と、彼女が放ったただならぬ気配の余韻に、真剣な顔で彼女を観察し続けていた。

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