第1部:交流 / 第11話:漆黒のナイト

 食事が終わり、一行が席を立とうとした、その時だった。それまで食堂の隅で静かにお茶を飲んでいた老婆――カリーナ婆が、杖を頼りにゆっくりと立ち上がり、マチルダの前に進み出る。町の誰もが息を呑んで、その様子を見守る。

「おい、あれはカリーナ婆様じゃないか…?」

 町人たちの困惑をよそに、カリーナ婆は、マチルダの前に深く、深く頭を下げた。その光景に、町人たちのどよめきは頂点に達する。この町で最も敬愛される物知りの老婆が、なぜ見ず知らずの小さな少女に、あれほどまでの敬意を払っているのか。

「マチルダ様…」

 その敬意のこもった呼び方に、マチルダは少し驚いたように目を見開く。

「どうか、その御力で…このささやかな町と、この美しき国、そしてこの世界を、お守りくだされ…」

 老婆の真摯な願い。それは祈りにも似ていた。

 マチルダは、その願いを正面から受け止めると、少し照れくさそうに、しかしすぐにいつもの尊大な態度に戻り、「えっへん!」と胸を張った。

「うむ! よかろう! このワシにすべて任せておけば問題ないのじゃ!」

 食堂を出ると、外はすっかり夜の闇に包まれていた。ユーリが心配そうにアンナたちに声をかける。

「アンナ、フィオナ。夜も遅いし、危険だから家まで送ろう」

「心配には及ばん。ワシがついておる」

 マチルダはそう言うと、絶対的な自信を湛えてニッコリと微笑んだ。その笑顔を前に、ユーリは反論の言葉を見つけられなかった。

「…わかったよ、マチルダちゃん。では、私たちはカリーナ婆様ともう少し話をしてから帰ろう」

 ユーリはグレンと目配せをし、娘たちを見送ることにした。

 一行が家路につこうと、ランタンの灯りが途切れる少し暗い路地に入った瞬間だった。

 ヒュン、という風切り音と共に、闇の中から鈍い銀色の光がアンナめがけて飛来する。

「アーサーッ!」

 アンナが気づくよりも早く、マチルダが叫んだ。

 その声に応え、アンナの肩に止まっていたカラスが黒い影となって飛び出す。影は一瞬で人の形を取り、アンナの前に立ちはだかる。キンッ!という甲高い音を立て飛来する刃を弾き返したのは、紫がかった黒髪のショートカットに、漆黒の瞳を持つ、息をのむほどの美少年だった。

「…アーサー…?」

 アンナは、声も出ないほどの驚きと、目の前の少年の美しさに、顔を真っ赤にして固まる。

(やばっ…超絶イケメンじゃん…!)

 フィオナもまた、恐怖と、場違いなときめきで大混乱に陥っていた。

「お怪我は?」

 アーサーは振り返り、少し照れくさそうに微笑む。その瞬間、闇の中から数人の暗殺者が姿を現した。

 だが、アーサーは動じない。漆黒の剣――夜刀之影(ヤトノカゲ)を構え直すと、その姿は一瞬で闇に溶けた。いや、闇よりも速く動いているのだ。電光石火。暗殺者たちが反応する間もなく、鮮やかな剣閃が闇を切り裂き、鈍い打撃音と共に、全ての刺客が地面に崩れ落ちていた。

「おい、そこに隠れていないで出て来たらどうだ?」

 あっという間に敵を無力化したアーサーが、路地の奥の闇を睨みつけて言った。

 闇の中からぬっと、あの黒髪の男――ザインが姿を現す。

 言葉はなく、二人の剣が激しく打ち合わされた。アーサーの夜刀之影と、ザインの神剣ネメシスが、火花を散らしながら夜の闇に幾筋もの光の軌跡を描く。

 アーサーの剣技は人間離れしていた。しかし、ザインの剣技はそれを上回っていた。彼はあくまで楽しむように、しかし確実にアーサーの猛攻を受け流し、捌き、圧倒していく。

「アーサー、下がれ!」

 追い詰められたアーサーを見て、マチルダが鋭く声を上げる。アーサーは悔しそうに歯噛みしながら、マチルダの前まで後退する。

「ワシの家来であれば、こんなやつ、ちょちょいのちょいと倒さねばならぬぞ?」

 マチルダはそんな彼を、少しからかうように見る。

「女に撫でられてデレデレしておるからそんなことになるのじゃ」

 アーサーは、その言葉にムッとして言い返す。

「無茶を言わないでください! あいつ、めちゃくちゃ強いですよ…たぶん、兄上と同等か、それ以上に…」

「さっきのこと、まだ怒ってるんですか? まったく…」

 アーサーはぶつくさ言うが、マチルダはフン、と鼻を鳴らすだけだった。

 ザインは、そのやり取りを聞いてフッと笑った。

「君は十分強いよ、アーサー君。ただ、俺の方が少しだけ強かった。それだけの話だ」

 その余裕の態度に、アーサーはさらに悔しさを滲ませる。

 マチルダがザインの前に一歩踏み出し、いよいよ二人が対峙しようとした、その瞬間。

 ザインはすっと神剣ネメシスを背中に収めた。

「…フン。今日のところは見逃してやる」

 彼はマチルダに背を向けると、謎の言葉を残して夜の闇へと姿を消した。

「お前たちの『おままごと』、もう少しだけ見物させてもらうぞ」

 残されたマチルダたちは、彼の真意が分からず、ただ立ち尽くすしかなかった。

 静寂が戻った路地裏で、アンナとフィオナは、まだ夢見心地のような、ぽーっとした表情でアーサーの人間としての姿を見つめている。その視線に気づいたマチルダが、厭味ったらしく言った。

「さっさとカラスの姿に戻れ、アーサー。アンナとフィオナが惚けておる」

「はいはい、分かりましたよ。まったく、僕の主様はカラス使いが荒いんだから…」

 アーサーはやれやれといった態度で肩をすくめると、その姿は再び黒い影に包まれ、一羽のカラスとなってマチルダの肩に舞い戻った。

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