第1部:交流 / 第9話:神の落とし子

 ユーリは、書斎の扉に鍵をかけ、震える手で古文書のページをめくっていた。彼が探していたのは、今まで御伽噺だと信じていた、ある古い時代の記述だった。

 羊皮紙に、色褪せたインクでこう記されている。

『いにしえの昔、天なる神の一柱、地に降りて人の子を愛し、その血を交えたり。その罪は天の理を乱し、神々の怒りを招かん』

 そして、別のページには、当時の争いを目撃したであろう人間の手記が引用されていた。

『神、その御力を顕現せし時、その御身に纏いし光、昇る太陽の如く黄金なりき』

 ユーリは、アンナの無邪気な言葉を思い出す。「――体ぜんぶが、金色にぶわーって光ったの!」 ありえないはずの可能性が、冷たい恐怖となって彼の心臓を鷲掴みにした。

 ほとんど一睡もできないまま夜が明け、ユーリが重い足取りで居間へ向かうと、そこには信じられないほど平和な光景が広がっていた。

「なんじゃこれは!? 赤くて甘いだけではない、少し酸っぱい! 面白い味じゃ!」

 マチルダが、ソフィアが焼いたパンに塗られた苺ジャムに、昨日のお菓子以上のカルチャーショックを受けていた。その横では、チャチャがジャムのついたマチルダの指を必死に舐めようとしている。

「こら!このねずみ風情が!ワシの指を舐めるでない!」

 マチルダが怒ってチャチャの頭を小突くと、チャチャも負けじとその指先にカプリと噛みついた。

「イタッ!なにをする!待てこのクソネズミ!」

 マチルダが本気でチャチャを追いかけ回し始め、チャチャは「キュー!キュー!」と逃げ回る。そのあまりに子供っぽい、年頃の普通の女の子のようになっていくマチルダに、アーサーは思わず翼で口元を覆って笑みをこぼし、フィオナまでが「ぷっ」と吹き出して笑っていた。

「ねえマチルダ。この後、町の市場に行ってみない?もっと美味しいものがたくさんあるんだよ」

 アンナは笑みを浮かべながらマチルダに声をかけた。

 その言葉に、マチルダはチャチャを追いかけるのをぴたりとやめ、「えっへん!」と胸を張った。

「ふん! おぬしのようなか弱い人間を、一人で市場に行かせるわけにはいかんからのう。このワシが、特別についていってやるのじゃ!」

 その分かりやすいツンデレな態度に、アンナは嬉しそうに笑う。

「わっ私もついて行ってあげる!アンナ一人じゃ心配だし!」

 フィオナも慌てて付け加える。その様子を見ながら、ソフィアは全てを包み込むような、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。

 娘たちの賑やかな声を聞きながらも、ユーリの心は晴れなかった。彼は一人、静かに席を立つと、町外れにある鍛冶屋、グレンの仕事場を訪れていた。そこは、男の仕事場特有の汗と鉄の匂い、そして炉の熱気が満ちていた。壁には使い込まれた様々な工具が並び、部屋の隅にはまだ熱を帯びた武具が置かれている。グレンは、熊のように大きな体躯を持つ、無口な男だ。しかし、ユーリが何も言わずに隣に立つと、彼は一瞥しただけで何かを察したように、トン、とハンマーを置いた。言葉はなくとも、二人の間には、かつて同じ戦場を生き抜いた者同士の、深い信頼関係があった。

「…信じられないかもしれんが、これが私の見立てだ」

 ユーリは、マチルダが「神の落とし子」である可能性が高いこと、古文書の不吉な記述、そして森に現れた暗殺者の存在を、戦友にだけ打ち明けた。

 グレンは、しばらくの間、燃え盛る炉の炎を無言で見つめていたが、やがて顔を上げ、静かに、しかし力強く言った。

「…で、どうするんだ、ユーリ。俺は何をすればいい?」

「ありがとう、グレン」

 ユーリの目頭が熱くなる。

「お前の子供は、俺の子供も同然だ。いまさら水臭いこと言うなよ、戦友」

 この件を下手に王国に報告すれば家族や町の人々にまで被害が及ぶかもしれない。そう考えた二人は、王国には報告せず、自分たちの手でアンナと町を守り、そしてマチルダの様子を見守るという、あまりにも危険な決断を共有した。

 グレンは、覚悟を決めた戦友の顔を見て、少し考えて付け加えた。「伝承のことなら、町一番の物知り、カリーナ婆に話を聞いてみるのが一番だろう。今夜あたり、食堂に顔を出すかもしれん」

 その頃、遠く離れたグリムロック連邦の首都ヴィンターヘイム。その一室で、影のような男が、闇に溶けるような声で報告をしていた。

「“神の落とし子”は、現在エアデールのグリーンウィロウという町に滞在中。勇者ザインも同地域に潜伏している模様、と」

「ほう…」

 部屋の奥、薄闇の中から、楽しそうな、それでいて底冷えのする声が響く。

「二つの駒が、自ら盤上に揃ったか。好都合だ。監視を続けよ。そして、新たな『種』を撒いてこい。あの少女の心が、もっと揺らぐような、な」

 その夜。マチルダたちの噂で持ちきりのグリーンウィロウだったが、ユーリたちの計らいで、町の中心にある一番大きな食堂で、皆で食事を共にすることになった。

 町人たちは遠巻きに、しかし好奇心に満ちた目でマチルダたちを見ている。マチルダは、初めて体験する人間の食堂の賑やかさと、次々と運ばれてくる料理に、尊大な態度を保ちつつも、瞳をきらきらさせていた。

 その食堂の隅の席で、ユーリは一人静かにお茶を飲んでいた老婆――カリーナ婆に、そっと近づいた。

「カリーナ様…古い伝承について、お聞きしたいことが…」

 カリーナ婆はゆっくりと顔を上げた。その皺深い瞳は、まるで全てを見透かすようにユーリを見つめ、そして、食堂の喧騒の中心で楽しそうに食事をしているマチルダへと、静かに向けられた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る