序章 / 第3話:明日への約束

 翌朝、台所から漂う食欲をそそる香りでアンナは目を覚ました。テーブルには、母ソフィアが作ってくれた特製のシチューが湯気を立てている。

「お母さん、これ、少し分けてもらってもいい?」

 アンナが少し大きめの鍋を指さして言うと、ソフィアはにこやかに頷いた。

「ええ、もちろんよ。あら、そんなにたくさん。どこかへお出かけ?」

 母の優しい問いかけに、アンナの胸がちくりと痛んだ。本当のことを言えば、きっと心配させてしまう。正直でありたい気持ちと、母を想う気持ちがせめぎ合う。

「う、うん! ちょっと…森の奥の、綺麗な場所を見つけたから、そこでピクニックに!」

 自分でも少し声が上ずったのが分かった。嘘をつくのは苦手だ。ソフィアはそんな娘の様子に気づくでもなく、嬉しそうに目を細めた。

「まあ、素敵ね。フィオナと行くの? 気をつけて行ってらっしゃい」

「……うん!」

 親友の名前を出され、アンナは一瞬言葉に詰まったが、力なく頷くことしかできなかった。母の信頼が、今は少しだけ重たい。アンナは鍋を丁寧に包むと、小さな秘密を抱えた気まずさで家を飛び出した。

 村のはずれまで来た時、前方から親友のフィオナが歩いてくるのが見えた。

「あら、おはようアンナ。どこかいくの?」

 フィオナの声はいつも通り明るい。でも、一人で、しかも大きな鍋を抱えているアンナを、その瞳は鋭く観察していた。いつもなら、どこかへ行く時は必ず自分を誘うはずなのに。

「うん!ちょっとピクニックに!」

 アンナは努めて元気に、少しだけ早口で答えた。フィオナは、じっとアンナの顔を数秒見つめ、何かを言いたげに口を少し開いたが、結局小さく息を吐いて、こう言った。

「ふーん…? 気をつけてね」

 その言葉に含まれた、かすかな疑念と寂しさに、アンナは胸がちくりと痛んだ。「また後でね!」とだけ言い残し、少し早足で森へと入っていく。フィオナは、その背中を訝しげに見送っていた。

 湖畔に到着すると、昨日とほとんど変わらない光景がそこにあった。マチルダは相変わらず水面を指先でなぞって遊び、アーサーは木の枝の上で静かに佇み、チャチャはせっせと何かを集めている。

「こんにちは!約束通り、持ってきました!」

 アンナが笑顔で鍋を見せると、真っ先にチャチャが匂いに釣られて駆け寄り、アンナの足元にまとわりついて「キュイ、キュイ!」と催促するように鳴いた。

「これはご丁寧に、お嬢さん」

 アーサーが礼儀正しく言うが、当のマチルダは鍋を一瞥しただけだった。

「なぜ持ってきた? ワシは約束などしておらんぞ」

 昨日と同じ、感情の読めない声。でも、もうアンナは臆さなかった。

「でも、わたしが約束しましたから!」

 きっぱりと言い放ち、アンナは持参したお皿にシチューをよそい始める。チャチャが我慢できずに鍋に顔を突っ込みそうになり、アンナは笑いながらそれを宥めた。

 アーサーとチャチャが美味しそうにシチューを味わう中、マチルダは少し離れた場所からその様子をただ眺めているだけだった。

「マチルダ様も、どうぞ。一口だけでも!」

 アンナに強く勧められ、マチルダは仕方なさそうに、しかしどこか興味深げに、差し出されたスプーンを受け取った。そして、ほんの少しだけシチューをすくい、おそるおそる口に運ぶ。

 その瞬間、彼女の黒い瞳が、ほんの僅かに見開かれた。

 感想は言わない。ただ、ゆっくりと咀嚼し、飲み込むと、ポツリと呟いた。

「……人間の食うものは、妙な味がするのう」

 その言葉にアンナが「もう一口、どうですか?」とスプーンを差し出すと、今度は拒まなかった。それは、マチルダが初めて味わった「人の手の温もり」が溶け込んだ味だったのかもしれない。

 食事の後、少し気まずい沈黙が流れた。アンナはそれを破るように、ぱん、と手を叩く。

「そうだ!水切りしませんか?」

 アンナは手頃な平たい石を探し出すと、湖に向かってしなやかに腕を振った。石は美しい波紋を描きながら、ト、トン、トトトンッ、と軽やかに水面を跳ねていく。

「わあ、見てください!たくさん跳ねました!」

 子供のようにはしゃぐアンナを見て、チャチャも真似をしようと小さな石を前足で転がし、勢い余って湖にぽちゃんと落ちてしまった。アーサーが枝の上でやれやれと翼を小さく広げる。

 マチルダは、その光景をただ無表情で見ているだけだった。

「マチルダ様もやってみませんか?楽しいですよ!」

 アンナが石を手渡しながら誘うと、マチルダは純粋な疑問として問いかけた。

「何が『楽しい』のじゃ? 石を投げて、水面を跳ねる。ただの物理現象じゃろう。そこに何の価値がある?」

 その問いに、アンナは怒るでもなく、少し困ったように笑った。

「うーん…うまく言えないけど、綺麗な波紋が広がったり、思ったよりたくさん跳ねたりすると、心がわくわくするんです。それが、楽しい、かな?」

「わくわく…」

 マチルダはその言葉の意味を理解できない。しかし、楽しそうに笑うアンナの表情を、まるで未知の美しい生き物を観察するかのように、じっと、真剣に見つめていた。

 やがて陽が傾き始め、アンナは帰る支度を始めた。アーサーが礼儀正しくお礼を言い、チャチャは寂しそうに「キュー…」と鳴いてアンナの足にすり寄る。

 マチルダは相変わらずそっぽを向いて何も言わない。

「それでは、また明日」

 アンナが挨拶をして背を向け、数歩歩いた、その時だった。

「……その、妙な味のする汁は」

 独り言のような、消え入りそうな声で、マチルダが呟いた。アンナが驚いて振り返ると、マチルダは湖の方を見たまま、続けた。

「また、持ってくるのか?」

 それは要求ではなかった。けれど、マチルダが初めて見せた「明日」への興味だった。

 アンナの心に、温かい光が灯る。彼女は振り返り、夕陽に負けないくらい満面の笑みで、力強く頷いた。

「はいっ!また明日!」

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