序章 / 第2話:あなたの名前は

 湖畔には、まるで何も起こらなかったかのような静寂が戻っていた。吹き飛ばされた野盗たちの痕跡はなく、ただ穏やかな風が水面を撫で、木々の葉を優しく揺らすだけ。

 アンナは、地面にへたり込んだまま、目の前の少女を見上げていた。恐怖と安堵でまだ身体の震えが止まらない。それでも、必死で声を絞り出した。

「あ、アンナです…!わたしの名前は、アンナ。助けてくださって、本当に、ありがとうございます…!」

 心の底からの感謝だった。けれど、少女――マチルダは、その言葉にも表情一つ変えない。黒曜石のような瞳がアンナを捉えているが、そこに感情の色はなかった。彼女はちらりと、近くの枝に舞い戻ったカラスに視線を送り、素っ気なく言った。

「別に。そこのカラスがやかましかっただけじゃ」

 その言葉に、アンナの心臓がどきり、と冷えた。感謝すら届かない。自分の存在そのものが、この少女にとっては取るに足らないことなのだと、突きつけられた気がした。

 どうしたらいいのか分からず戸惑うアンナの前に、そのカラスがふわりと舞い降りた。そして、アンナは今度こそ腰を抜かしそうになる。

「マチルダ様は気まぐれなのです。お気になさらないでください、お嬢さん」

 凛とした、若い男の声。声の主は、間違いなく目の前のカラスだった。

「しゃ、喋った…!?」

「ええ。アーサーと申します。以後、お見知りおきを」

 紳士的にお辞儀をするかのように、カラスは恭しく頭を下げた。アンナが呆然としていると、今度は足元で「キュッ」と小さな鳴き声がした。見れば、あの金色の毛並みの小動物が、トコトコとアンナに近づき、くんくんとドレスの裾の匂いを嗅いでいる。アンナがおずおずと手を差し出すと、チャチャと呼ばれたその子は、ぷっくりと膨らんだ頬袋からコロン、と木の実を一つ取り出し、アンナのてのひらに乗せた。その無邪気な仕草に、張り詰めていたアンナの心が、少しだけ和らいだ。

 アンナは少しだけ勇気を出し、改めてマチルダに向き直る。助けてくれたのは事実だ。そして、この不思議な存在のことを、もっと知りたいと思った。

「あの…あなたのお名前は?」

 その問いに、マチルダは初めて、心底不思議そうな顔で首を傾げた。

「名前? なぜそんなものが必要なのじゃ? ワシはワシじゃろう」

 悪意も何もない、純粋な疑問。その言葉に、アンナははっとした。この少女は、誰かと関わる上で当たり前のことすら、知らないのかもしれない。

 アーサーが、まるで心を読んだかのようにそっと呟く。

「マチルダ様は、お名前で呼ばれることに慣れていないのです。我々はただ『マチルダ様』とお呼びしておりますが…」

 アンナは、ごくりと喉を鳴らした。怖くない、と言えば嘘になる。でも、それ以上に強い衝動が胸を満たしていた。

「でも、わたしはあなたのことを知りたいから、名前で呼びたいです」

 まっすぐにマチルダの瞳を見つめて、アンナは続けた。

「あなたの名前は、マチルダ…様、でいいですか?」

 自分を「知りたい」という、初めて向けられる真っ直ぐな眼差し。マチルダの黒い瞳が、ほんの僅かに揺らめいたように見えた。少女はふい、とそっぽを向きながらも、拒絶はしなかった。

「……好きにすればよかろう」

 安堵からか、アンナは立ち上がろうとして、足首の痛みに「あっ…」と小さく声を上げた。転んだ時に捻ってしまったらしい。

 その様子を見て、マチルダがまた面倒くさそうに、しかしはっきりとため息をついた。

「……手間のかかるやつじゃのう」

 マチルダがアンナの前に屈み、その白い指がそっと足首に触れる。瞬間、ふわりと温かい光が灯り、先ほどまでズキズキと痛んでいた足首から、嘘のように痛みが消え去っていた。

 言葉を失うアンナに、マチルダは「これで帰れるじゃろ。さっさと行け」と、やはり感情の読めない声で告げる。

 アンナは、この不思議な出会いと二度目の奇跡に、胸がいっぱいになった。このまま別れたくない。もっと、あなたのことを知りたい。

「明日、また来ます!」

 気づけば、アンナはそう叫んでいた。

「お礼に、母が作った美味しいシチューを持ってきますから!絶対に!」

 一方的な約束に、マチルダは少しだけ眉をひそめたが、やがて興味を失ったように「…好きにせよ」とだけ返した。

 町――グリーンウィロウへの帰り道、アンナの足取りは軽かった。

 恐ろしかった野盗たち。全てを吹き飛ばした不思議な力。喋るカラス。可愛い相棒。

 そして、全てがどうでもよさそうなのに、どこか寂しそうに見えた、黒髪の少女。

 アンナは、ポケットの中で、チャチャがくれた木の実をそっと握りしめた。

 それはまだ、ほんのりと温かい気がした。

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