序章 / 第4話:花冠を君に
アンナがマチルダ達の所に通うようになってから、何日かが過ぎた。
それは、彼女たちにとって不思議で、けれど心地よい日常になりつつある。
母ソフィアは、もう何も聞かずに「ピクニックに行くのね」と微笑み、毎日少し多めにシチューやパンを持たせてくれる。親友のフィオナは、相変わらず訝しげな視線を向けてくるものの、アンナの本当に楽しそうな様子に、強く問い詰めることはしなくなっていた。
湖畔の風景も、少しずつ変わってきた。
アンナが茂みを抜けて姿を現すと、チャチャが「キュー!」と喜びの声を上げて駆け寄ってくるのが、日課の始まりの合図になった。木の枝の上にいるアーサーは「お待ちしておりました、アンナ嬢」と紳士的に翼を少しだけ広げる。そしてマチルダも、以前のような完全な無視ではなく、アンナの姿をちらりと視線で捉え、小さく頷くくらいの変化は見せるようになっていた。
その小さな変化の一つ一つが、アンナにとっては大きな喜びだった。
その日も、アンナが持ってきたパンをみんなで食べた後のことだった。チャチャが高い木の枝になっている木の実を取ろうと、何度もぴょんぴょん跳ねては、その短い手足で空を切っている。
「チャチャ、危ないわ。待ってて、わたしが取ってあげる」
アンナがそう言って、近くに落ちていた長い枝を拾い、木の実を落とそうと奮闘し始めた。
その様子を眺めていたマチルダが、いつものように純粋な疑問を口にする。
「なぜ手伝う?あれはあれで勝手にやっておることじゃ。放っておけばよかろう」
アンナは汗を拭いながら、にっこり笑って答えた。
「だって、困っているみたいだから。それに、チャチャはお友達ですもの」
「ともだち…」
マチルダは、その言葉を小さく、確かめるように繰り返した。
「…非効率じゃのう」
やがてマチルダはそう呟くと、指先をすっと木の枝に向けた。すると、枝が意思を持ったかのようにしなやかに曲がり、チャチャの目の前にたくさんの木の実が差し出される。
「まあ!マチルダ様も、チャチャを助けてくれたんですね!」
アンナがぱっと顔を輝かせて言うと、マチルダは少し困ったように「助けたのではない。非効率な動きを正しただけじゃ」と訂正した。
アンナは、ありがとうと言いながら、昼の間にこっそり作っておいたシロツメクサの花冠をマチルダの黒髪にそっと乗せた。
「お友達の、しるしです!」
マチルダは一瞬、身体をこわばらせた。「こんなもので何になる」と言わんばかりの怪訝な顔で花冠に触れる。
「マチルダ様にとってもお似合いです!すごく、可愛いですよ」
可愛い、という言葉の意味は分からない。けれど、マチルダは、何の打算も恐怖もなく、ただ純粋な好意だけで自分を見て微笑むアンナの顔を、初めてまともに見た。自分に向けられる、温かい感情。マチルダは、胸の奥が少しだけ、むず痒くなるような不思議な感覚を覚えた。彼女は、花冠を外さなかった。
その様子を見て、アンナは少しだけ勇気を出す。
「あの…お友達なら、様をつけずに呼んでも、いいですか?」
マチルダは、アンナの顔と、自分の頭に乗った花冠を交互に見るように少し視線を動かしてから、ふいっとそっぽを向いた。
「……好きにせよ。おぬしは、マチルダでよい」
その言葉に、アンナは満面の笑みを浮かべた。
「はいっ!マチルダ!」
そのやり取りを枝の上から見ていたアーサーの翼が、ぴくりと震えた。彼は、わざとらしく咳払いを一つすると、小さな声で、しかしはっきりと聞こえるように呟いた。
「……私ですら、いまだにマチルダ様とお呼びしているというのに…」
そして、ぷいっとそっぽを向き、クチバシで自分の羽をしきりに繕い始める。その少し拗ねたような仕草に気づいたアンナがくすくすと笑い、湖畔は穏やかな空気に包まれた。
和やかな午後が過ぎようとした、その時だった。
突如、森の空気が冷たく張り詰め、鳥の声がぴたりと止んだ。
「カァッ!」
アーサーが枝の上で鋭い警告を発し、チャチャは弾かれたようにアンナの後ろに隠れた。
湖の対岸、木々の影から、ぬっと一人の男が姿を現した。
背が高く、細身。古びたコートを羽織り、長い黒髪を無造作に束ねている。しかし、その佇まいには一切の隙がない。ただそこに立っているだけで、周囲の空間を支配するような異様な存在感があった。背中に下げられた、布に巻かれた長剣が、不吉な光を鈍く反射していた。
男は剣には手をかけない。しかし、その鋭い瞳は、まっすぐにマチルダだけを射抜いていた。
マチルダは、初めて明確な警戒心を露わにした。普段の無関心な態度は消え、その瞳が、獲物を値踏みする古代の捕食者のように細められる。
絶対的な強者である彼女にとって、人間など脅威ですらない。
それでも、警戒を解くことはなかった。男が放つ、鍛え上げられた人間の限界点とも言える強者の気配、そして何より、彼の背にある長剣から放たれる、微かだが禍々しい気配。それは、マチルダの人ならざる本能を、わずかに、しかし確かに刺激した。
二人は言葉を交わさない。ただ、湖を挟んで互いの存在を確かめ合うように、濃密な沈黙だけが流れた。
やがて、男はふっと口の端を吊り上げ、挑戦的とも言える笑みを浮かべた。そして、何も言わずに踵を返し、森の闇へと再び音もなく姿を消した。
張り詰めていた空気が緩む。しかし、穏やかな日常の雰囲気は、もうどこにもなかった。
「……い、今の、誰…?」
アンナが震える声で尋ねる。アーサーは、逆立った羽毛を落ち着かせながら、低い声で答えた。
「分かりません…。しかし、ただの人間ではない。あの剣…何か、禍々しい気配がします」
マチルダは、男が消えた森の闇を、今まで見せたことのない険しい表情で、ただ黙って見つめ続けていた。
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