かわいそうでかわいい子
部屋全体がきしむような乱暴な音を立てて、作りの粗い扉が閉じられた。粗雑なベッドにどかっと腰を下ろしたラッドは、濃く錆びた鉄の色をした目でアトラを睨みつけた。
魔物すら射殺しそうな目に貫かれても気にした様子もなく、ベッドから少し離れた位置にある小さな椅子に座ったアトラはラッドに微笑み返す。
「イライラしてるね。お腹空いてるの?」
「だまれ。その声で喋るな」
にべもなく返されたアトラはつまらなさそうに唇を尖らせて、座ったばかりの椅子から立ち上がった。
ベッドの方へ歩み寄り、座っているラッドを無視してその隣に膝をかける。ぎしっと安物のスプリングが軋む音がした。
ベッドサイドの壁際には黒いカーテンが掛けられていて、アトラは白い指でそのカーテンを開けると出窓の方へと身を乗り出す。窓を開けようとしたアトラの肩を無骨な指で掴んで、ラッドが押しのける。
「窓は開けるんじゃねえ。霧が入るだろう」
ラッドの、やすりのようにざらついた低い声。
アトラは薄墨色の瞳で窓から外を見下ろして、口を開く。
「ここには入らないよ。それに、入ったっておまえは大丈夫でしょ?」
娼館の二階から見下ろせる位置に、あの霧とこちらの世界との境がある。白く立ち込める霧の中から、腐った蔦を絡めて作ったいびつな人形のような化け物がこちらを見ていた。どういうわけか、あの異形どもは霧から出られないようなのだ。それに、霧の範囲が広がることもない。まるで見えない壁でも存在するかのように、霧の境はいつだってはっきりと存在している。
アトラの言葉を無視して、ラッドが問う。
「おまえ、どこから来た?」
視線を清潔感の薄い床に向けたままのラッドの横顔。アトラは彼の不機嫌そうな目元に視線をやって、ひらひらと手を振って見せた。
「さあ、記憶がないんだ。気がついたらこのあたりにいて、なんか、霧の中に帰らなきゃいけないような気がして……
でも、霧の中なんか女が入れる場所じゃないでしょ? だからここで、おまえみたいなのを待ってたの」
内容の割にあまりにも軽い口調で話すアトラ。ラッドが床に向けて伏せたままの顔の中で、古い血の色をした虹彩だけを横に移動してアトラを見た。
世にあふれている冒険者の中には、数は少ないがもちろん女だっている。しかし、入ったものの気を狂わせるこの霧の周辺には、女の冒険者は異様に少ない。
もともと、女の冒険者というものは、自身の持つ身体のせいで気性の粗い男どもに
蠱惑的な表情でラッドを見上げるアトラ。彼女は不健康すれすれに痩せていて、屈強な肉体を持つラッドが触れただけで壊れてしまいそうな儚げな容姿をしている。――確かに、この様子では霧の中に潜れば凄惨な死か陰惨な凌辱かのどちらかに見舞われる運命が見える。
アトラが、ラッドの筋肉質な腕にもたれてきた。石鹸で洗ってもまだ仄かに血の匂いがするラッドの濡れた髪に唇を寄せて、彼の脚をさすりながら耳元で囁いた。
「ところで、
白い肌によく映えるネイビーブルーのワンピース。細い肩ひもを引いて、下着を付けていない白い胸元をのぞかせながら、アトラがラッドに迫る。
「しねえ。おまえは床で寝てろ」
アトラの肩をぐいっと押して、ベッドのへりから追い出すラッド。押されるままにベッドから落ちて床に尻もちをついたアトラは、立ち上がりながらわざとらしい仕草で肩をいからせてラッドをにらみつけた。
「ひどーい。女のコ床で寝かすの?」
「知るか。おれは明日も忙しいんだ。てめえに気ぃ使ってる場合じゃねえんだよ」
アトラの顔めがけて薄手の掛け布団をぶん投げて、ベッドから引き抜いたシーツを羽織ったラッドが痩せた娼婦に背を向けて寝そべった。はぁ、と鋭く息を吐いて、アトラは素直に掛け布団に身を包んで床に寝転ぶ。
室内が静かになると、両隣の部屋から物音が聞こえてくる。
ぎしっ、ぎしっ……安物のベッドと、瘴気で痛んだ床が軋む音。それに、娼婦の演技がかった大げさな嬌声。
「ちくしょう」
ラッドが、小さな声で悪態をついた。両隣がうるさくて眠れやしない。――否、うるさくなくたって、ラッドはもう眠れないだろう。霧へ挑み始めて一年経つ頃には、ラッドはもう
ラッドが毎晩娼館を訪れて、娼婦の美醜にかかわらずに彼女たちをめちゃくちゃに犯すのは、性欲のためではなく一晩ぐっすりと眠るためなのである。相手が泣いても叫んでも気絶してもかまわずに犯して、そうしているうちに体力を使い果たしていつの間にか眠るのを待つ。そうしなければ、ラッドはもう眠ることもできないのだ。目が覚めた時にラッドが覚えているのは、自分の獣のような呼吸音だけ。相手の顔も声も朧げにすら覚えていない。
隣からの嬌声は、まだ聞こえる。自分の行いを思い出して、ラッドは苦く目を閉じた。
「ちくしょう」
再び悪態をついたラッドの頬に、いつの間にかベッドのそばに立っていたアトラの小さな指先が触れた。びくっと身体を震わせてアトラの方へ身体を向けたラッドの鉄錆色の瞳に向けて、アトラが穏やかに目を細めた。
「眠れないの? かわいい子。かわいそうな子」
ぎしっ……ベッドのスプリングが軋む。アトラがベッドに膝を掛けて、ラッドに覆いかぶさる。天井につけられた粗末な魔導ランプの逆光で、アトラの顔がラッドから視認できなくなる。
ラッドの筋肉質な腿の上に乗る、頼りない体重。ラッドは、この重みを知っている。
「男は
耳元で囁かれる、絹のように滑らかで耳触りの柔らかい声。ラッドはこの声を、聞いたことがある。
「……エンシア……」
幻でも見たかのようにぼんやりとつぶやくラッド。アトラが彼に現実を突きつけるように、ゆっくりと、はっきりと口にした。
「わたしはアトラだよ。――ねえ、ラッド。わたしはもうおまえのものだよ。おまえも、わたしのものになってくれる?」
アトラのささめくような静かな声が、ラッドの耳朶を揺らす。まるで愛のささやきのような言葉だった。しかしどこか、悪魔の誘いのような色をはらんだ声。ラッドの脳髄が、ぐらぐらと揺れる。
「おれはおまえのものじゃない」
自分に言い聞かせるように低い声を響かせて、ラッドが自分に覆いかぶさっているアトラの細い肩を掴んだ。素早い動きで起き上がって、華奢な娼婦をあっという間にベッドに組み敷く。
うつ伏せの状態で押さえつけられて、腕を掴まれたアトラが顔だけをラッドに向けて微笑む。ラッドは彼女の顔にシーツを掛けて覆い隠した。
「ちょっと、何すんの!? なんにも見えないんだけど!」
少しずれた抗議をしながらラッドの尻の下で脚をばたつかせるアトラ。そんなことではラッドの巨躯はびくともしない。
「おまえが煽るからだぜ……
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