フォギーヘッドラナウェイ−壊れた男、亡くした恋人によく似た女に出会う

ねさかなこ

1. 霧に呼ばれた男

霧に呼ばれた男


 霧の匂いが、ここまで届いている。


 あの霧のすぐそばには教会と宿と娼館があって、夜には特に娼館が賑わう。深い霧の中で死を間近に見た男たちは、どうしようもなく、にすがりたくなる。冒険者稼業で得られるあぶく銭におぼれてまっとうな職につけなくなった彼らはもう、そうしなければ生きていけないのだ。


 冒険者たちが少しずつ霧を晴らしていくたびに、協会も宿も娼館も少しずつその数を増やしていった。この三年で、地図の上では街五つほどを飲み込むような広範囲にわたって広がっていた霧は、三分の二ほどの規模にまで小さくなった。しかし、その先があまりにも苛烈で、この霧がすべて晴れるまでにはあとどれほどの年月がいるのか誰も予見できないような状態である。


 ここは霧の一番近く。先月にようやく開業したばかりの、このあたりで一番大規模な娼館。窓の外にはえた臭いの霧が臨む。時折、霧の中で異形のものがこちらを誘うように見ていることがある。死の恐怖を与えられたものと対面しながらのはどうやら、心が壊れた冒険者たちのゆがんだ欲望へのいいスパイスになるらしい。そんな理由もあって、霧の一番そばに建てられた娼館は、昼間だってそれなりに賑わっている。


 とっくの昔に日が落ちて、娼館が一番賑わう時間帯。まだ新しいのに霧で痛んで建付けの悪い蝶番ちょうつがいを軋ませながら、大きな扉が開いた。ひとりの赤い男が入って来る。


 粘り気のある、湿った足音がする。乾きかけてヘドロのように粘性を帯びた異形の血液。それを木造りの床から引き剥がしながら歩く音と、自らの身体から滴る血液が床を弾く小さな音が響く。


 男たちとそれを誘う女たちの声でガヤガヤとうるさいその雑踏も、彼が発する音を聞けばすぐに静まり返った。


 誰も彼もが息をひそめて、男の赤い眼差しと目が合わぬように視線を逸らす。以前に勝手のわからない冒険者が彼に絡んで、手ひどいけがを負わされたことがある。それ以来、彼には触れるなというのは、冒険者たちの暗黙の了解となっている。


 霧の中でいくつもの死線をくぐってきた男たちでも、誰もこの男には敵わない。なぜなら彼は、ここに集まる冒険者たちの中で唯一、『霧に呼ばれた男』なのだから。


 血滴けってきのラッド。あるいは、死神憑きのラッド。いつしか彼はそう呼ばれて、畏怖されるようになった。


 血にまみれた足跡を残しながら彼が歩けば、冒険者たちは自然と道を開ける。作りの粗いガラスの向こうで客を誘う娼婦たちも、彼に見染められぬように顔を伏せた。その中で一人だけ、何食わぬ顔で彼を見つめる痩せた女が一人。


 彼――ラッドが、その女の姿を捉えて足を止めた。ぽたり。床に赤い滴が垂れ落ちる。普段は不愛想に細められている鉄錆色の眼が見開かれている。


「……エンシア」


 娼婦の薄墨色の瞳を見つめて、ラッドが小さな声でつぶやいた。彼の視界の中央で、娼婦が、笑った。


 女から視線を外さずに立っているラッドに、声をかける者がひとり。


「血滴の旦那」


 娼館の管理人が、わざとらしく揉み手をしながら近づいてきた。


 声を掛けられたラッドはいつものように瞼を不機嫌そうに細めて、視線だけを動かして彼の油ぎった顔をにらみつける。


「あの女は、いくらだ?」


 ラッドの、金属の破断面のようにざらついた低い声。並みいる冒険者たちよりも高い位置から見下ろされて、小男は一瞬おびえた眼差しを彼に向けてから、ラッドが指さす痩せた娼婦を見た。


「ああ、あの黒髪の……今朝入ってきたばかりの者です。一晩ですと……」


「あいつの一生を買うには、いくら要る?」


 続いてラッドが放った言葉に、小男は一瞬面食らって黙した。彼はいつも、違う女を選ぶ。おそらく、猛る欲望のはけ口にするためなら、いいのだ。一晩の相手の見目がどれだけよかろうと悪かろうと気にもしない彼がいきなりこんなことを言ってくる意味が、小男には皆目見当も付かなかった。


「えぇ? 身請けを? それでしたら……」


 空中で指を弾いて計算し始めた彼の目の前に、ラッドが節くれだった拳を差し出した。驚いて身を引いた管理人の目の前でラッドが握った指先を開くと、そこには金貨の入った布の袋があった。数枚、なんていうかわいい量ではない。並の冒険者であれば十年かかったってお目にかかれないような量の金貨だ。小男が、思わず生唾を飲み込んでまばたきをした。


「これで買えるか? おれの三年分の稼ぎだ」


「それはもう! それだけあれば女のひとりやふたり――」


 媚びた笑顔を浮かべてから、管理人が急に顔色を暗くする。まるで命乞いでもするようにいやらしく揉み手なんかしながら、ガラスの向こうからラッドを見つめている娼婦にちらりと視線をやって、首を左右に振る。


「しかし身請けは女の許可もいるのです。そういうルールで私どもはやっておりまして……」

「……その、今日の今日ですし、旦那は何かとので、娼婦どもがそれを受け入れるかは……」


「聞いてこい。早くしろ」


「ああ、はい! では、今すぐに」


 ラッドの低い声に叩かれて、管理人は飛び跳ねるような勢いでその場を去った。


 数分もしないうちに戻ってきた小男は、後ろにあの娼婦を連れていた。

 黒髪黒目の、不健康気味に痩せた娼婦。屈強な男どもにも恐れられるラッドの前に立ち、怖じることもなく微笑んでいる。


「身請けを了承するとのことでしたので……ほら、挨拶をしなさい」


 管理人の男が、娼婦の肩を叩く。その脂ぎって丸い手を、ラッドの骨ばった指先が捕まえて吊り上げた。


「そいつに触るな」


「えええええ……すみません旦那……ご容赦を!」


 額に脂汗を浮かべながらおびえる小男。ラッドのいやにぎらぎらとした赤銅色の視線に貫かれて、はくはくと死にそうな呼気を繰り返している。


 ラッドの太い手首に、娼婦が手を触れた。弾かれるようにラッドが握っていた指をほどくと、どさりと管理人の小男が床に落ちる音がした。足元で悲鳴を上げている管理人なんか気にした風もなく、痩せた娼婦はラッドの胸元に向けて小さな手を差し出した。


「わたしはアトラ。よろしくね、ラッド」


 アトラと名乗った娼婦の声を聞いて、ラッドが目を見開いた。いつになく大きく開かれた瞼の中で、赤銅色の虹彩が揺らめく。


「……エンシア」


 ラッドの薄い唇からこぼれたその名を拾って、アトラが妖艶に笑った。


「だぁれ? それ。わたしに似てるの?」


「だまってろ」


 すかさず放たれたラッドの低い声に動じた様子もなく、アトラは長いまつ毛の生えた瞼を細めて、その奥に光る瞳でラッドを見つめて笑った。


「んふふ」





 埃とかびと、饐えた血の匂い。不穏な湿り気に満ちたあの霧は、今から三年前に突然現れた。深い夜のうちに現れて、一晩にして広い範囲を死の匂いで包み込んだ。あの晩霧の中にいたものは、誰一人として生きて出ては来なかった。


 霧の被害を免れた近隣の男たちが霧の中に入り、そして帰って来なくなる。霧が生まれた次の晩には何人もの男がそうして消えて、ようやく帰ってきたひとりは精神に異常を来たしていた。なにか、とてつもなく怖い思いをしたらしい。


 ラッドが霧のもとに現れたのは、霧が生まれてからわずか二日後のことである。霧の噂カネになる話を聞きつけて他所から賞金稼ぎのごろつきどもが集まってくるよりもはるかに前のことだ。誰よりも早く霧の元へたどり着いたラッドは、霧へ飲まれた者たちを追って今まさに霧に入ろうとしている男たちにこう言った。


「おまえたちも、霧に呼ばれたのか」


 そこに居合わせた男たちの中にも、そのあとに集まってきた男たちの中にも、「霧に呼ばれた」というものはひとりとしていなかった。


 ラッドが男たちにそれ以上のことを語ったのか、それとも語らなかったのかは誰も知らない。なぜなら、その時にその場にいたものはみな、近いうちにあの霧の中で息絶えたのだから。


 いつしか噂に尾ひれがついて、「ラッドが霧の原因である」とか、「霧の奥に住む異形の主に魅入られている」とか、そんな噂まで流れ始めて、彼に近寄る者はいなくなった。


『霧に呼ばれた男』――死神憑きのラッド。あるいは、血滴のラッド。いつも異形の血にまみれて歩く、狂気の男。最古から霧に挑み、鬼気迫る勢いで霧を攻略する男。彼の素性は、誰も知らない。


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