No.015 / 薄っぺらな命
こんこん、と2回ノックをして職員室の引き戸を開けた。
だだっ広い空間に、事務机が向い合せに島を作っている。
見た限りでは、そのうちの三つにノマ先生やノート先生といったクラス萌黄の授業を担当している先生方の姿があった。
「ノマ先生、今、いいですか?」
1時間ある昼休みも残り半分ほどとなっている。
食事中ではなく食後であろう時間帯を狙ったのは、メバエなりの配慮であった。
「なんでしょう」
相変わらず自身の作ったツクモである宙に浮かぶ雲に乗った状態のノマ先生は、ふわふわと小さく上下しながら、緑茶をぐびぐびと飲み下し、白く長い眉毛の下からメバエを見やった。
「私、スリープ前の自分の情報が少なすぎて、知りたくて仕方がないんですが、どうにかして知る方法はないでしょうか。ツクモに尋ねても検索不可能だと言われてしまって。先生なら何かご存じかと思いまして」
と、メバエは一息に伝えた。
頭の上ではルナがあくびをしているのが分かった。
「ああ、そういった内容ですか。それはちょっと私にも分かりませんねぇ」
ノマ先生が言葉の間に作ったわずかな間に、メバエは不自然なものを感じた。
「そんな。仮にも幽世学園の先生じゃありませんか。生徒に関して、そのスリープ前の情報など、アクセスできたりしないんですか」
失礼かとは思ったが、メバエは少々語気を荒げて訴えた。
「メバエさん」
よく通る凛とした声で名を呼ばれたのでそちらの方を見ると、ノマ先生の向かいの机で湯呑を手にするノート先生の姿があった。
「はい」
長い黒髪の間に見える切れ長の目が、どこかキツネを思わせる。
「その件に関してあまり深追いはしない方がいい。学園にいられなくなりますから。いえ、下手をするとこの世界にもいられなくなるかもしれませんよ」
それはノート先生からの明らかなな「脅し」であった。
一介の生徒をつかまえて学園の教師が脅しをかけるだなんて――。
スリープ前の情報に触れるということは、どうやらそれほど重大な事らしいと、メバエは全身をかたくした。
「あらあら、生徒を脅してはいけませんよ、ノート先生。メバエさんもね、これを最後にこの件は忘れなさいね」
ノート先生の隣で紅茶をすすっていたクイン先生がそう言葉を投げかけた。
相変わらず中世ヨーロッパの貴族のような恰好をしていて、頭の上にはおもちゃのような王冠を乗っけている。
そのちぐはぐな印象が少し緊張をほぐしてくれたのだろう、メバエはノマ先生に向き直り、「ありがとうございました。では」とだけ言って、その場を後にした。
「あーびっくりした」
落ち着くためにひとり女子トイレの個室に逃げ込んだメバエは、そうこぼすと、やっと力が抜けたかのように一度大きく深呼吸をした。
「ノート先生の脅し、あれは本物だったわね」
頭の上のルナに話しかけてみる。
にゃあ、とルナは鳴き声で返事をした。
「私たちって、あんな脅しひとつで命を危うくするほど、この世界では薄っぺらな存在なんだわ。この世界以外に生きる場所なんて無いのに、ね」
独り言だと理解しているのか、ルナの返事は無い。
「とりあえずは学園で好成績をおさめて社会に出ることだわ。社会人としての時間の方が長いんだもの、問題意識を持ち続けている限りは、いつか問題解決のチャンスが巡ってくるかもしれないし、気長にいきましょ。今できることはもうないわ」
トイレの中に、メバエの独り言が響く。
それに――。
「たとえ死ぬまでに解決できないとしても、その間の時間を有意義に生きてやるんだから。こんな薄っぺらな命でも、ね」
言葉にしてみると、非力な自分と相まって、なおさら薄っぺらく感じられる。
でも――。
「それでいいわよね、ルナ」
ルナの脇の下に両手を差し込んで持ち上げ、自分の膝の上まで降ろしてやる。
にゃー。
と、ルナは再び鳴き声で返した。
高性能Aiのくせして、返事を鳴き声で済ませることを覚えちゃったのかしら。
そっと、ルナの背に手を乗せる。
あたたかい。
「前向きな性格で良かったわ。ほんと。両親に感謝ね」
ん?
メバエの思考が停止する。
親?
当然ながら、両親の記憶も、無い。
私の親ってどんな人たちだったのかしら。
「ね、それすら思い出せないなんて、やるせないわね」
メバエがルナの背をなでると、手の形に毛並みが跡を作ってゆく。
にゃー、と、ルナは鳴き声を返すばかりである。
この子、本当に高性能Aiなのかしら。
「ふふ」
しばらくの沈黙が降りる。
何分経ったろうか。
「やるしかないわね。まぁ励みましょ」
そう言うと、メバエはルナを再び頭の上に乗せ、女子トイレの個室を後にした。
トイレの窓から外を見やると、昼休憩を利用して、一つ上の学年の、クラス群青の先輩方が、バレーボールに興じている。
もう4月も終わるし、そろそろ入る部活も決めなきゃな。
今はまだ、学園の生徒。
ノート先生の言葉が蘇る。
今はまだ、何も知らない学生ジガ・メバエのままでいたいと、思うのだった。
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