第3話 香りの記憶

 晴れた平日の午後、人の少ない美術館はとても居心地が良い。美術館でじっくりと作品を眺める彩音を見つめる私。

綺麗な横顔、真剣な眼差しに、自然と胸が高鳴る。


 作品は素敵だけれど、関心の中心は彩音だけだった。

 画家の人生と絵の考察を私の耳元で囁く彩音。声の波と吐息が身体を撫で、甘く痺れる。博識で感心するけれど、今は頭に入らない。作品集を買い、あとでじっくり復習しようと心に決める。


 一時間以上かけて絵を観た後、美術館を出ると周りは公園になっていて、二人でベンチに腰を下ろす。

 彩音がバッグから手作りのサンドイッチを取り出す。

「また作ってきちゃった。食べてみる?」


「うん、ありがとう」

頬が自然に緩み、手元にあるサンドイッチを受け取る。卵の滑らかな味と共に、麗奈の優しさが胸にゆっくり染み渡る。


 午後の日差しは柔らかく、二人の間の空気をほんのり温める。

「今日も…本当に楽しいわね」

「私も…彩音さんといると、時間がゆっくりで、幸せ」


 ゆっくりランチを楽しんだ後、手をつなぎながら街へ戻る。デパートで洋服を眺め、試着もしたが、購入したのは可愛い小さな香水だけだった。


 夕闇が迫る頃、彩音を家に送る。アパートの下で、彼女がふわりと笑う。

「上がっていく? お茶で良かったら出せるわよ」


 寛美は小さく頷き、甘く蕩ける時間がまだ続くことを胸に感じながら、ドアを開ける。


 彩音の部屋に入ると、彼女の香りがふんわり漂い、心臓が高鳴り、鼓動が急に速くなる。


 紅茶を淹れる彩音の所作はとても美しい。部屋も整えられていて、センスが光る空間だ。

「クリエイターの部屋って凄くオシャレ…」

心の奥から、ドキドキと胸の奥が弾む感覚が湧き上がる。


 壁に彩音の撮った写真が飾られている。一つ一つ観ると、同じ男性が写っていることに気づく。

彼氏…?


紅茶をテーブルに置く彩音。

「あ、それ?元彼。仕事仲間だから、その、深い意味はないのよ…」


 胸がズキンと痛む。

でも平静を装うしかない。手は少し震えて、まだ紅茶に手を伸ばせない。


 買った作品集を広げ、今日観た作品を二人で振り返る。

 美術館では彩音に夢中だったけれど、今は元彼の存在を心から追い出したくて、絵の解説がすっと記憶に入る。


 それでも無意識に目は元彼の写真に向かう。胸の奥がざわつき、手が微かに震える。まだ恋したてで、彩音を独り占めしたいのに、焦りと嫉妬が胸に押し寄せる。


 彩音は私の表情に気づいたのか、そっと頬に手を添え、優しく口づけをくれる。

軽く音を立てて軽やかに、その温もりは柔らかく、でも胸の奥のざわつきは消えない。むしろ焦燥や嫉妬を抱えたまま、心がさらに熱くなる。


 デパートで買った香水を手に取り、意を決して差し出す。

「…寛美が選んでくれたの?」

少し照れた笑顔の彩音に、胸の奥で抑えていた気持ちが波打つ。


「はい。これ、彩音さんにぴったりだと思って…もし気に入ってくれたら、今日のことが香りとして残るかも…」


 香水の柔らかい香りが二人を包む。彩音が小さく息を漏らした瞬間、胸の奥が熱く締め付けられ、唇は自然に彼女へ向かう。手のひらに伝わる温もりと互いの鼓動の速さが、甘く蕩ける熱を全身に広げる。


 最初は控えめで挨拶のような口づけ。でも香水の香りと互いの鼓動に溶け込むうち、キスは自然に「記憶に刻むためのもの」へ変わる。

 胸の奥がじんわり熱くなり、焦燥と嫉妬を含んだ午後の余韻が、二人だけの宝物になる。


「この香り…私、好きよ」

彩音の微笑みに、私は心がふわりと染まる。


「ありがとう。どんなに時間が経っても、今日の気持ちは忘れない」

 

私は囁く。焦りや嫉妬も含め、この特別な午後の感情を心に刻み込むように。


彩音の記憶にも、私の心にも、今日の気持ちを深く刻み付けたかった。


 初めて口付け。寛美にとっては人生で初めての。彩音にとっては女の子同士は初めての。

バニラの香りとともに二人の心にしっかりと刻み込まれた。

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