第三章 慶州の影と赤い使者 ②



 俺の馬鹿、馬鹿、馬鹿。


 俺は頭を抱えたい気分なほど後悔していた。

 まず、山へ行く前に排尿を済ませておくべきだった。

 和式トイレへの抵抗感から、朝に一度行ったきり、ずっと我慢していたツケが、今、最悪の形で回ってきている。

 尿意が切迫していて、お尻が左右に揺れてしまう。

 そして、この状況が「星花を見に行く」という穏やかなハイキングなどでは断じてなかったことだ。


 季節は初夏に近づき、山肌を吹き抜ける風も勢いを増していた。


「ひぃえええ! ちょっと、怖い怖い怖いッ!」

 目の前には、ほぼ垂直に切り立つ巨大な岸壁が、まるで天を突くようにそびえ立っている。

「姫君がた、もうすぐです」

 俺と千鶴は兄弟に背負われていた。着物は危ないからという理由で、俺と千鶴は体操服にブルマ姿にされている。

 対照的に兄弟は上半身裸で、筋肉を誇らしげに膨らませながら岩壁にへばりついていた。

 どこからどう見ても、この絵面は絶対におかしい。狂ってる。

 俺は炭十郎の背中にコアラのように抱きつき、目を閉じていたのに対し、千鶴は征十郎の背中に張り付いているのに、どういうわけか風景を見る余裕があるようだ。視線が動いている。

「あ、日翠雀」

 千鶴が嬉しそうに話す。

 恐る恐る目を開けて見上げると、小鳥の集団が動きの早い雲海に飲み込まれていく。頂が見えない。

 兄弟が足を置く場所は、岩肌に打ち込まれた頼りない鎖と、申し訳程度に削られた小さな足場だけだ。足を滑らせたら一巻の終わりだ。

「ぴえぇ」

 膀胱をチクチクと刺すような痛みと恐怖で、思考は真っ白になる。

 谷底から吹き上げてくる突風は容赦がない。俺たちの体を宙に浮かせようと襲いかかってくる。服が、髪が、激しく揺れる。

 高所恐怖症の俺にとって、ここは地獄以外の何物でもない。

「ひぇぇぇぇ」

「清香さま、我にピッタリと張り付いてくださいませ」

「はひぃ」

 足は竦み、力が入らない。指先の震えは止まらない。朝食が喉元までせり上がってきそうだ。

 しかし、それ以上に尿意が切迫している。

 背中にぴったりと抱きついている炭十郎の筋肉の硬さだけが、かろうじて俺を現実につなぎとめている。

 そして、最悪なことに恐怖が加速度的に膀胱を刺激していた。


 漏れる。漏れちゃう。


 すでに限界を示すように重く、張り詰めている。痛い。

 内腿に力を込めて必死に堪えるが、恐怖で全身の筋肉がこわばり、尿道だけを制御するというコントロールが効かない。

「あ、あぁ」

「美しいですね。慶州六山が見事に見えますね」

 恐怖を感じさせない千鶴の声が澄んでいる。

 その冷静さに、俺は再び目を開く勇気を得た。

 瞼を薄く持ち上げる。

 するとそこには、雲海の中から浮かび上がる山々の壮大な風景が広がっていた。いつの間にか雲海を越えていた。

 息を呑む。

 雲海の上に頭を出す峰々は、確かに、猛々しく、美しい。だが、この恐怖さえなければもっと堪能できたのに。

 尿意で身体がブルッと震える。

「それぞれの山々を、黒家が治めております。ですが、もっとも天高く」

 征十郎が解説を始め、語尾を伸ばすと、兄が続く。

「聳えるのが黒龍峰。黒龍峰こそが、黒松院家の美しい筋肉を錬成する鍛錬の場ぁ!」

 兄弟の呼吸が合っている。

「岩肌を素手で登り、頂の風に身を晒すことで、我らの体は鍛えられるのだ!」

「おおおおおッ、今日の風は下からの追い風で、負荷が足らん!」

 二人の掛け合いは熱を帯びていく。

「あ、赤い狐です!」

 千鶴が小さく声を上げた。

「おお、まさに、あれが赤狐です」

 岸壁の小さな岩棚に、三匹ほどの狐が佇んでいた。

 尾はフサフサと豊かで、確かに通常の狐より赤みの強い毛並みをしている。炎のような色だ。その目は異様に賢そうで、単なる野生動物とは思えない知性を感じさせる。

 しかし、そんな観察をする余裕も束の間だった。

 突風が岸壁に打ち当たり、乱気流が発生する。体が浮く。

「きゃあっ!」

 思わず女の子のような声になってしまう。反射的に下を見てしまう。

 ちょうど雲海が開き、谷底が口を開く。

「ひぃ。いやぁ、だめぇ」

 俺の爪が炭十郎の鍛え抜かれた背中に食い込む。

「清香どの、脚を我が腰に回してください」

「すみません! あぁ、もうだめぇ⋯⋯あぁあう」

 再び吹き上げる風。

「なになに大丈夫ですぞ。清香姫の爪が食い込むくらいでは、筋肉を撫でられるようなものです」

 炭十郎は余裕たっぷりに答え、筋肉を拍動させるように動かした。ボコボコと膨らむ。その動きが密着した股間に伝わり、さらに俺の恐怖を煽る。


 揺れる、揺らさないで。


 彼らにとっては日常的な光景なのだろうが、俺にとってはまさに命がけの冒険だった。花を見に来たはずだったのに。なぜこんな絶壁にいるのか、後悔の念が頭をよぎる。

 もう、だめだ。限界だ!

 せめて、せめてトイレさえあれば。

 下腹部が限界を訴えた。痛い、痛い。山にもトイレがあるという現代の日本の環境が異常なのだ。

「あッ、あぁ、だめぇ」

 頬が熱い。恥ずかしさと絶望感で、燃えるように。

 どうして女性の体になって初めての失敗がこんな状況で起きるのか。

 しかし、身体の生理的反応を止めるのは不可能だった。

 下腹部の緊張が一気に解けた。

「あああああああ」

 尿道が開く。

 温かい液体が無毛の割れ目に広がっていく。ブルマは一時的に液体を留めていたが、徐々に膨らんでいき、ある時点で、大腿の付け根の隙間から一気に溢れ出した。

 冷たい空気が濡れた肌に触れた。

「ひぃ」

 生地にも湿りが滲み出し、炭十郎の背中にまで伝わっていく。じわり、と。

「清香どの?」

 背中に広がるぬくもりに、炭十郎が不審に思ったのか声をかけてきた。

「す、すみません。すみません」

 消え入りそうな声になってしまう。止めたくとも、一度堰を切った排尿は止まらない。

「あぁ、だめ。だめぇ」

 恥ずかしさで身体が燃えるように熱いのに、血液は氷のように冷たく感じられた。

「あ、雨が降ってきたようですね!」

 千鶴が突然声を上げた。

 雲海を越えているので、空には雲ひとつない。快晴だ。

 彼女は明らかに俺の状況を察して、取り繕おうとしていた。優しい嘘だ。

 炭十郎が心配そうに声をかける。

「そうだ、山の天気は変わりやすい。すぐに下山しましょう」

 征十郎も空を見上げ、千鶴の言葉に乗った。

 二人とも俺の失態を見て見ぬふりをしてくれている。

「お嬢様がたを雨で濡らすわけにはまいりません。急ぎましょう」

 炭十郎も理解したのか、何事もなかったかのように下山を開始した。声が優しい。

「うぅ、すみません」

 俺は感謝と恥ずかしさが入り混じる中、ただ一刻も早くこの場から離れたいと願うだけだった。

 三人の優しさで胸が苦しい。

 これが俺か。

 前世では大人の男だった。データサイエンティストとして、冷静に判断し、行動してきた。

 だが、今は、失禁して固まっている。

 子どもの体はこんなにも弱い。恐怖に支配される。生理現象さえ、コントロールできない。

 これがあの爺さんがいった最弱の立場からの視点だったのか。

 文學の言葉が、今、身に染みる。

 これが俺の現実だ。認めるしかない。だが、だけど、絶対に。


 いつか洋式トイレをこの世界に造ることを誓うのだった。固く、強く。


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