第三章 慶州の影と赤い使者 ③


 下山した後、俺は泣いていた。

「大丈夫です。誰にでも失敗はありますから」

 千鶴の声。聖母のように柔らかい。

 だが、その温もりが胸の奥を抉った。

 視線が落ちる。下へ、下へ。草がぼやけて滲む。

「う、うぅ」

 俺はいい歳のおっさんなのに。

 頬が焼けるように熱い。指先が小刻みに震え、握りしめても、震えが止まらない。

 前世で、スーツを着て会議室に立っていた自分。あの冷静な分析者は、今、どこにいる? 視界の端が滲み、過去の自分が霧の中に溶けていく。

「大丈夫です。大丈夫ですよ」

 下山の途中、気を使ってくれた筋肉兄弟は前を行き、俺と千鶴が少し遅れて歩く形になった。

「山の小川があります。ここで少し休みましょう」

 征十郎が提案し、一行は清流の流れる小さな渓谷に辿り着いた。

「昼が近いですからな」

「お嬢様たちはここで一休みを。我らは獲物を探してきますので」

 二人の筋肉兄弟は遠くに見える木立の方へと向かって行った。

 俺と千鶴だけになると、千鶴は小川の方を指さした。

「水で洗えば大丈夫です。私が見張っていますから」

 千鶴に感謝し、小川へ向かう。

 小川の水は、初夏の昼前の空気よりも鋭く冷たかった。足首から這い上がる冷気が、太腿の内側までじわじわと侵食する。

 身体がぶるりと震えた。

 千鶴が声をかけてくる。

「どうか、これを着てください」

「だ、駄目です」

 千鶴が自分の服を脱いで、俺に着せようとしたのを慌てて押し留めた。

 十歳の子どもの裸体でも見られると恥ずかしいという感覚があるのに、思春期どまんなかの千鶴はそれ以上だろう。

「ですが。清香さまのお体が」

「大丈夫です。私もあの日、千鶴さんの身体を見てしまったので、これでおあいこにしてもらえますか?」

「……」

「駄目ですか?」

「曉人さまったら、そんな事を気にしてくださっていたんですか」

 体操服とブルマは意外と乾きが早い。

 岩の上に座っていると、誰かに裸体を見られないか気になって仕方なかった。

「では、せめて身体を冷やさないように、私の膝に頭をのせてください」

 千鶴は自分の白い脚を膝の上で軽く叩き、俺に優しく微笑みかけた。

「え? でも」

「遠慮なく」

 俺はおずおずと千鶴の膝の上に頭を預ける。

「は、はい」

 千鶴の太腿が頬に触れる。柔らかい。生地越しに体温が、じんわりと頭皮を温める。

 これが膝枕。

 施設の、あの冷たい壁。

 誰も触れてくれなかった夜々。それなのに今。

「きれいな髪ですね」

 千鶴の指が髪を梳く。あまりに優しくて、身体が貝のように固く縮こまる。胸の奥がじんわりと温かくなる。

 だが、その温もりの下で何かが蠢く。冷たく、黒く。

 これは恐怖だ。


 おまえは偽物だ。


 千鶴の指がまた髪を梳く。優しく、優しく。

 しかし、俺が俺を許さない。


 本物の曉人を奪った。簒奪者だ。


 この温もりを受け取る資格なんて。

 思わず自嘲気味に笑いがこぼれる。わかってる。わかってるんだ。だけど、こんなふうに誰かに甘えたり、守られたりしたのは、きっと初めてだ。

 今だけは、すべてを忘れさせてくれ。

 初夏の温かい陽射しと沢を吹く爽やかな風が、幼い身体を撫でていき、俺はまどろんだ。


 心地よい眠りに揺られていた。

 すると、肩を揺らされて、現実に引き戻された。

「起きてください」

 木立の向こうから筋肉兄弟の賑やかな声が聞こえてきたのだ。

「姫君、戻って参りましたぞ!」

「狩りは坊主でしたが、星花を摘んで参りました!」

 千鶴が素早く立ち上がり、両手を広げるように前に出た。

「少々お待ちください」

 その仕草で理解した兄弟は、すぐに背を向けた。

 その間に俺は急いで身支度を整える。ほぼ乾いたブルマとパンティを穿いた。

「どうぞ」

 千鶴の声で、兄弟が振り返った。

「お待たせしました」

 炭十郎の両手には、青白い花、星花が握られていた。岩肌の割れ目に咲くという、あの花。

 その繊細な美しさに、俺は思わず息を呑んだ。

「これが」

 花弁に指が触れた。

 その瞬間。

 青い花びらが指先から潜り込んでくる。

 冷たい。針のように鋭く。

 腕に這う。皮膚の下をムカデが這うように。

 花が咲いていく。一輪、また一輪。血管に沿って、肘へ、肩へ。

 後頭部を何かが貫いた。

「ッ!」

 熱い。いや、冷たい。わからない。視界が白く弾ける。明滅する。世界が裏返る。  脳裏の扉が軋みを上げて開く。

 中から何かが這い出してくる。

 禍々しい巨大な触手と、女の上半身。その髪には、青白い花が無数に咲き乱れている。星花だ。花弁が、まるで生きているように蠢く。

 これは何だ? 俺の記憶なのか! だが、思い出せない。なぜだ!


 胃液がせり上がる。吐き気に空嘔吐をしてしまう。

 全身の毛穴が一斉に開き、冷たい汗が噴き出す。

「う、うぐぅッ!」

「大丈夫ですか?」

 千鶴が心配そうに顔を覗き込む。

 俺は慌てて袖を捲る。花など何もない。細い腕。子供の白い肌。

 花は消えている。


 消えた? いや、幻覚だったのか?


 千鶴の顔が目の前にある。

「清香さま、聞こえていますか?」

「は、はい。一瞬だけ立ち眩みがしただけです」

「とても、そうは見えませんぞ」

 どうやら、俺は顔面蒼白だったらしい。汗が滝のように溢れ出している。

 俺の中では怒りの感情が渦巻いていた。

 どういうことだ。さっきの青い花に囲まれた髪を持つあの禍々しい姿はなんだ? どうして、こんなに心を掻き乱される?

 俺は呼吸を整えた。

 ほどなく顔色も戻ったようで、三人は胸を撫で下ろした。

 征十郎が心配そうに聞いてくる。

「腹は大丈夫ですか?」

「はい。全くなんともありません」

「そうですか、それなら⋯⋯よかったですが、なんだったのでしょうか?」

「わかりません⋯⋯」

 俺は首を左右に振った。

 俺は星花に近づかず、遠目から観察した。

 これが星花か。ゲームでは士気を高める戦略資源。こんなにも神々しいとは。使い方次第では、麻酔とかにもなるんだろうな。それが俺にも作用したってことか?

「きれい……」

 千鶴が星花を見つめ、うっとりと嘆息する。

(千鶴には、俺のような幻覚は見えていないのか? なぜだ?)

 俺は千鶴や筋肉兄弟の顔を盗み見た。皆、花の美しさに純粋に見惚れているだけだ。

(いや、今は深く考えている時間はない。もっと、星花の情報を集めなくては)

 俺は意識を切り替え、炭十郎に尋ねた。

「この花は、食べられるんですか?」

 麻薬としての側面を知っているからこその問いかけだ。

 炭十郎は星花を指でつまみ、にんまりと笑った。

「昔から痛み止めとして重宝されてきたが、下手に口にしたらぶっ倒れますぞ。昔、弟者が蜜を舐めてみたが、一晩中、夢の中で山を登ってた」

「兄者、それは言わない約束ですぞ」

 兄弟は筋肉を震わせて笑いあった。

 やはり強い麻酔作用があるんだ。麻薬効果があるなんて、不用意に口にしては駄目だな。

 俺は気を引き締めた。

「もう、殿方はこれほど美しい花を前にして、すぐに口にする話ばかり。風流がありませんわ」

 千鶴が呆れたように、しかし少し楽しそうに言うと、征十郎はわざと咳払いをした。

「星花は普通、岩壁の割れ目にしか咲きません。これほど近くで見られるのは珍しいことです」

「腹が減るから、花でさえ美味そうに見える」

 彼らは小さな籠から食事も取り出した。

 山菜の天ぷらと握り飯。単純な料理だが、空腹と疲労で研ぎ澄まされた感覚には極上の味だった。

 炭十郎は見た目通り豪快に片手で掴んで食べているが、俺は令嬢として楚々と両手でゆっくり食べる。

 絶対に炭十郎みたいに食べたほうが美味しいだろうな。

 そう思いながら征十郎の方を見ると、意外なほど少食のようだった。ほとんど手をつけていない。ときおり腹部を押さえる仕草も見られた。

「お腹でも痛いのですか?」

 千鶴の質問に征十郎は腹筋を指でなぞりながら、真顔で言った。

「いや、筋肉の谷間を深くする修行中なのです。空腹もまた鍛錬のうち」

 炭十郎が大声で笑う。

「昔から弟者は、これだ。筋肉のためなら飯も我慢する変人よ」

「兄者は、筋肉を大きくするために泣きながらでも大食いをする変人よ」

 二人は胸を張り、腹部の筋肉を収縮させて見せた。

 征十郎の腹部には確かに深い溝が刻まれ、一つ一つの筋肉が立体地図のように浮き出ている。一方、炭十郎の筋肉は豊かな丘のように丸みを帯びていて、兄弟でも筋肉の隆起が違っていた。

 だが、征十郎の表情には隠しきれない疲労が滲んでいる。

 ボディビルダーで餓死した人がいるくらいだからなぁ。体を極限まで絞るのは危険だろうに。

 食事を控えて筋肉を際立たせる。それはどこの世界でも変わらない肉体造形の極意なのだろうか。

 ちっとも理解はできんが、やつらの美学を否定することもできない。

 それほど、二人の兄弟は筋肉に対して紳士だった。


 食事の後には、持参した茶器でお茶を淹れる。

 黒松院家特製の薬茶だ。

 独特な苦みと香りがするが、一月ほど滞在している千鶴は慣れてきた様子で、優雅に口に運んでいる。

「清香さまもどうぞ」

 千鶴が俺に差し出す。俺は少し迷いながらも受け取った。

 一方、征十郎はお茶を見るなり、微妙な表情を浮かべた。

「すみません。私は」

 そう言うと、彼は川に向かい、手ですくった水を飲み始めた。

「弟者は昔から薬茶が苦手でして」

 炭十郎が苦笑した。

 水辺でかがむ巨漢の筋肉の背中を見ながら、俺は少し安心した。

 筋肉の権化のような彼らにも、苦手なものがあるのだ。それを知ると、自分の弱さも少し受け入れられるような気がした。

 昼食を終えた頃、炭十郎が提案した。

「帰り道に猟師小屋に立ち寄りましょう。もしよろしければですが」

 彼の目には、なにか別の懸念が見えた。

 俺は初日、漁師たちの集落の視線を思い出した。

 そのことに、炭十郎も気づいたように付け加えた。

「立ち寄るのは、変わり者で集落で暮らしてない偏屈爺さんのところなんです」

「山の師でもあるので、顔を見ておきたいのです」

 征十郎も続けて説明する。

鹿影爺しかかげじいさんが最近、調子が悪そうなので一目みておきたいと思いまして。山のことを知り尽くした名人なんです」


 俺と千鶴は顔を見合わせ頷いた。

「それなら、大丈夫です。行きましょう」

 鹿影爺さんという名の猟師に会うのも、この地方の文化を知る良い機会だろう。

「ぜひ、お会いして、山のことを聞きたいです。ですが、私の粗相のことは内緒ですよ」

 俺はあえて自分から話題にした。

「もちろんです」

 猟師小屋とはいえ、岩壁をくり抜いて作られたしっかりとした建物だった。石と木で組まれた小屋は周囲の自然と調和し、まるで山の一部のようだ。

「鹿影爺! ご機嫌いかがかな?」

 炭十郎が扉を叩きながら声をかけるが、応答はない。

「猟に出たのか?」

 征十郎が首を傾げる。

「鹿影爺! 開けるぞ」

 不審に思った炭十郎が扉を押し開けると、薄暗い室内から不穏なほど甘い匂いが溢れてきた。

「ッ!」

 俺はすぐにその異様さに気づいた。

 床に人影。横たわっている。老人だ。

 体が黄ばんでいる。不自然なほど。腹部は異様に膨れ、まるで水を溜め込んだ革袋のように張り詰めている。

 部屋には無数の蝿が旋回し、羽音がブーンと低く唸る。鼻を突く甘ったるい腐敗臭。生肉が発酵したような、吐き気を催す匂い。

 これは、腐敗ガスによる膨満。

 腐敗の進行度から見て、数日は経っている。

 前世の知識が、冷たく正確に状況を解析していく。

「鹿影爺!」

 兄弟が同時に叫び、部屋に飛び込もうとした。その顔は突然の出来事に驚きと心配で歪んでいる。

「近づいては駄目です!」

 俺は反射的に叫び、入ろうとする二人の手を掴んだ。

「あの方はすでに亡くなられています!」

 炭十郎と征十郎の顔から血の気が引いていた。それでも二人は必死に前に進もうとする。

 筋肉が緊張し、体が前のめりになっている。俺の手を振りほどくのは簡単なはずなのに、彼らはどうにか自制心を保ち、足を止めていた。

 死体を見つめたまま、体は震えている。

「それは我らにもわかります。どうして、近づいてはならぬのですか?」

 征十郎の声は低く、抑えられていた。

 炭十郎の拳が小刻みに震えている。

 二人の目、その奥に宿る光は、ただの悲しみではない。

 あのまま亡骸を放っておけない。丁重に葬りたい。

 俺には、その想いが痛いほど伝わってきた。二人にとって、鹿影爺は単なる知人ではなかったのだろう。

 炭十郎が一歩踏み出す。征十郎の手が扉の縁を掴む。

 駄目だ。言わなければこの二人も死ぬ。

 息を吸う。俺の肺を死の気配が満たす。それを一気に放つ。


「駄目です。触れたら、感染するかもしれません。離れてください!」


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