第二章 黒い山への調停者 ⑥
「ひぇ」
俺の喉から悲鳴が漏れた。
息が切れるほどの急坂が続く。膝が笑う。ふくらはぎが悲鳴を上げている。街並みは加州とは全く異なり、木造建築は少ない。代わりに、巨大な岩壁に無数の穴が穿たれ、そこが住居となっている。
蜂の巣のように連なる岩窟住居は、天然の要塞そのものだ。
慶州の防衛力が厄介だった理由は、これか。
この地形を利用したからこそ、難攻不落の要塞都市を築けるだろうな。
黒松院兄弟は俺たちの大量の荷物を担ぎながらも、まるで平地を歩くように軽々と登っていく。その足取りに乱れはない。
「大丈夫ですか?」
俺は隣の千鶴に声をかけた。
「はひぃ」
息を切らしながら千鶴が返事をした。
汗で髪が額に張り付いている。ブーツの俺と違い、草履の千鶴は足元が覚束ない。
兄弟が千鶴の様子に気づいたのか、足を止めた。
「姫君、よろしければこの肩にお乗りください」
炭十郎が言って、片膝をついた。
その黒い背中は、筋肉の山である。汗と油で妖しく光っている。
気持ち悪い。
「……」
「して、姫君たちは、どれほどの重さなのでしょう」
征十郎が身を乗り出して尋ねた。目が輝いている。
俺は自分の体重を知らない。答えに窮してしまう。
その時、千鶴が二人に注意をする。
「女性に目方を問うのは、不躾ですわ」
物怖じしない娘だ。
「いや、失礼した。そういうわけではなく、筋肉の負荷をかけるために知りたかったのです」
弟の征十郎は慌てて両手を振り、兄の炭十郎も続いた。
「我らの肉体は、日々この坂道で鍛えられる。筋肉は生きた証であり、悠久の友。つまり、意志の形、そのものです。より重い荷を担ぐことで、我らは己の弱さを破壊し、強さを積み上げていく。それが黒家に生まれた者の務めでございます。ぜひ、我らの筋肉のために肩に」
「ささ、肩に、肩に!」
二人は肩をゴリゴリと擦り合わせた。何か別の生き物みたいだ。「……」
千鶴と目が合った。
彼女の唇の端が僅かに上がる。俺も同じように微笑み返した。
そのとき、少年と妹と思しき童女が道に飛び出してきた。
少年がよろめく。
「大丈夫?」
俺が手を伸ばすと、少年の顔に怒気がこもる。
「ッ」
少年は童女の手を引き、無言で走り去る。家の中に駆け込んだ。扉がバタンと閉まる音。
「この辺に住む猟師の子供たちは、警戒心が強いのですみません」
炭十郎が謝り、歩き出す。
ふと、背筋に冷たいものが這い上がる。振り返った。
岩壁の住居の窓から、頭巾で顔の下半分を隠した村人たちが、こちらを無言で見下ろしていた。
その視線は冷たい。好奇心というよりは、値踏みするような、あるいは侵入者を警戒するような、排他的な色を帯びていた。
俺たちは、招かざる客。
海の民である港街、東玄の開放的な雰囲気とはまるで違っていた。
筋肉兄弟はこの視線に気づいているのか? それとも、この陽気さ自体が、俺たちを油断させるための演技なのか?
彼らは相変わらず、無邪気な様子で俺たちを肩に乗せようと促している。笑顔を崩さない。そのギャップで、筋肉兄弟の真意が、俺には見抜けない。
「さぁさぁ、我らが筋肉の鍛錬のために!」
背中の筋肉を波打たせながら催促してくる。ヌメヌメと光る肌が蠢く。
断ろう。
俺は千鶴に目配せしてみせた。千鶴が意図を察したように、息を吸い込む。薄桃色の唇が開きかけた。
「申し出はありがたいのですが、ひゃぁぁぁぁん!」
千鶴の悲鳴があがった。
「失礼!」
「千鶴しゃ、ぴぎゃぁぁあああ」
しかし、次の瞬間、視界が揺れた。体が宙に浮く。
羽毛を摘むような軽さで、二人は俺たちを担ぎ上げた。
まるで重力が消えたかのように、俺の体が空中に持ち上がる。地面が遠ざかる。
「高い! 高いぃ、高いぃぃ!」
目線が一気に変わった。俺の口から驚きの声が弾けた。
地上から二メートル以上の高さとなり、まるで展望台から見るような景色が広がる。足元に何もない。
だが、千鶴は観念したのか、それとも能力の影響で高いところに慣れているのか、平然としていた。
「あははは、高いですね」
「そうでしょ?」
征十郎が胸を張る。
彼女は動揺する様子もなく、むしろ少し楽しんでいるようだ。
「清香殿、我らも、行きますぞ」
俺を肩に担いだ炭十郎が歩き出す。
グングンと坂道を進んでいく。炭十郎が揺れるたび、俺の体も揺れる。上下に、左右に。
「無理無理無理ぃ!」
美しい景色が眼下に広がっているはずだ。しかし、俺は目を瞑っている。ぎゅっと。炭十郎の頭を両手で掴んでいる。爪が食い込むほど強く。申し訳ないが、怖いのだ。
「ひゃあぁぁあぁぁああ!」
中身はおっさんなのに、情けない悲鳴がこぼれる。
正直に語ると、俺は高所が駄目なのだ。足元に何もない感覚が、胃の底から全身を硬直させる。
「絶対に落としませぬから、目を開けてみてください」
「うぅ」
俺は恐る恐る、瞼を持ち上げた。薄く、ほんの少しだけ。
海が陽光を受けて黄金に輝いていた。風が俺の頬を撫でる。海の匂いと森の匂いが混じり合っている。不思議だ。
「綺麗です」
気づいたら左目で辺りを見回していた。
「でしょ」
「遠くを見ていると大丈夫です」
炭十郎の助言に従い、俺は地平線に視線を這わせた。山の稜線、雲の流れ、遠くの村々。しばらく景色を眺め続ける。
すると不思議なもので、胸の奥の氷が溶けていくようだった。恐怖心が薄れてくる。周りを観察する余裕ができる。爪が食い込むほど握りしめていた手から、ゆっくりと、力が抜けていく。指が一本、また一本と開いていった。
炭十郎の筋肉に、三日月型の爪の跡が赤く刻まれていた。
「すみません」
「なんの、なんの、これしき! 男の傷は勲章!」
炭十郎が豪快に笑った。その声と体の振動が、俺の体にも伝わってくる。大きく揺れた。バランスを崩してしまう。
反射的に、俺は再び炭十郎の頭に抱きついていた。両腕が、ぎゅっと。
おっさんなのに、こんなことするなんて!
頬が熱い。女の体だから、魂も引き寄せられるのか? それとも、ただ高所が怖いだけなのか? 自分でもわからない。
一日も早く元の体に戻らないとおかしくなりそうだ。
俺が決意に満ちていると、千鶴が征十郎の耳元に顔を近づけて、何やら囁いている姿が見えた。
その内容を聞いた弟の体が、ビクッと震えた。
「な、なななな、なんと博識な!」
「どうした、弟者よ!」
「兄者、聞いてくれ、先に船の錆の話をしたではないか!」
「おお、覚えておるぞ。しかと、な!」
「千鶴殿がいうには、犠牲陽極法なるもので錆を一箇所に集中させているのではないかというのだ」
征十郎が千鶴を乗せた肩を誇示するように上げる。
彼の瞳には純粋な驚きと尊敬の色が浮かんでいた。
「あ、申し訳ありません。つい、出過ぎた真似を」
千鶴の声が小さくなる。
「我には、先ほどの説明は到底口にできないので、今一度、兄者にも聞かせてやって。くぅ」
そう言いながら、征十郎は腹を押さえた。顔が歪む。
「どうされました?」
「いや、ここのところ腹の虫がおかしいようで、気になさらず、先ほどの話しを」
「大丈夫か?」
「一分ほどで消える」
征十郎は片手で腹を押さえながら、妙に慣れた仕草で息を整えた。
「治りましたぞ。千鶴殿、続きを」
「は、はい。では⋯⋯」
千鶴が解説を始めた。
途中から早口になっていく。
「は、はい。船体の特定の部分に亜鉛などの金属を配置し。その部分に意図的に電気を集中させることで、重要な部分の錆の侵食を防ぐのです。いわば、一部を犠牲にして全体を守る方法です。白家の船では、船底に沿って複数の犠牲陽極を配置し、定期的にそれだけを交換することで、船体全体の寿命を延ばしています」
「と、いうことらしいのだ。聞いたか、兄者」
「なんと!」
兄弟は互いに顔を見合わせた。
目を丸くする。
その筋肉の収縮は、筋肉が引き締まる音が聞こえてきそうなほどの驚きがあった。
「まさに知恵の女神のごとき慧眼」
炭十郎の声が震えている。
「いえ、私などまだまだ未熟者です。真の智者は清香さまですから」
千鶴はキラキラした目で俺を見た。
やめてくれ、その眼差し!
良かれと思って俺を持ち上げてくれているのか、ハードルを上げすぎだ!
俺には犠牲陽極法の知識なんて欠片もない!
熱い視線を感じる。兄弟の視線が突き刺さる。
尊敬と好奇心に満ちた、その重さに肩が強張った。
「そ、そんな。千鶴さんこそ、白蝋梅家の学識を継ぐ才媛ですわ」
俺は慌てて千鶴に話を振った。
しかし兄弟の好奇心の矛先はすでに俺に向いていた。体を俺の方に向けている。
「清香姫は、白桜蔭家の才媛と聞き及んでおりますぞ。謙遜なされるな」
「ならば船の構造以外にも、様々な知識をお持ちなのでしょうな! 例えば、筋肉の機能と構造についても深い学識をお持ちかも知れぬな」
「どうですか、この筋肉!」
兄弟の目が輝いている。
(やめてくれ、その期待の眼差し⋯⋯)
いや、待てよ。
筋肉の構造や効率的な鍛え方なら、前世でジムに通っていた時にトレーナーからいろいろと教わった知識があるじゃないか。基本的なことだが、この世界の彼らにとっては新しい情報かもしれない。これを上手く使えば、彼らとの関係を深め、情報を引き出すための「取引材料」になるのではないか?
前世の記憶を探る。
超回復、部位別トレーニング、栄養摂取のタイミング。
断片的だが、使えそうな知識はいくつかある。
これを小出しにすることで、彼らの興味を引きつけ、主導権を握れるかもしれない。
「なくも、ありませんわ」
俺は唇の端を上げた。悪戯っぽく、それでいて相手を試すような笑み。
女子教育の賜物か、自然と女性らしい蠱惑的な表情が作れるようになっていた。睫毛を伏せ、視線を斜め上から投げかける。
「そんなに知りたいのでしたら。そうですね、わたくしを満足させてくださったら、特別に教えて差し上げますわ」
挑発するように言うと、兄弟の反応は劇的だった。
「おおおおッ!」
二人は同時に声を上げた。まるで神託を受けたかのように全身を震わせる。
筋肉が喜びに打ち震え、波打っているようにさえ見えた。
いや、実際、俺を神輿のように担ぎ上げていた。激しく上下に揺れる。
「いかなることでも!」
「筋肉を極めるための知恵を賜るためなら!」
彼らの純粋な熱意に、俺は思わず笑ってしまった。
「ふふふ。わかりました」
不思議なものだ。こうして彼らと話していると、高さへの恐怖が薄れていく。
それどころか、黒家への警戒心も薄れた。
乗り心地は意外なほど良好だ。
肉の絨毯というか、筋肉が適度なクッションとなって衝撃を吸収してくれる。油で滑りそうな印象だったが、実際にはしっかりと安定していた。
「こらこら、くすぐったいですぞ」
炭十郎が笑う。俺の手が、気づけば彼の筋肉を掴んでいた。
「あまりに立派で、つい」
「清香姫は、正直者ですな。がははははッ!」
彼らは軽やかに坂を登り始めた。足音が規則正しく響く。俺たちと荷物を担いでいるにもかかわらず、まるで無重力であるかのようだ。
黒家の本邸はまだまだ先のようだ。
山頂に向かって伸びる道を、筋肉の山に乗って進んでいく。
不思議な感覚だった。楽しいと思ってしまったのだ。
だが、油断するな。俺たちは招かれざる客なんだ。
「本邸にもうすぐつきますぞ」
崖の中腹に巨大な窪みがあり、そこには一つの街が現れた。
道は狭く、人が密集している。
優美な日本建築が連なっている。
黒瓦が太陽に照らされて輝き、色彩豊かな洗濯物がまるで旗のようにはためいている。
絶壁に穿たれた街並みは、まるで異世界そのものだった。
岩肌に直接組み込まれた日本風の木造建築、チベットの僧院を思わせる色鮮やかな旗、洗濯物だが、よく見るとふんどしのようだ。そしてスペインのロンダのような崖上の立地である。文化が混淆した独特の景観に、俺はただただ圧倒された。
黒家=厳めしい、という先入観が、音を立てて崩れ去った。
兄弟を見て、慶州の山の民が話しかけてくる。
「お、兄弟、そちらの白くて小さいのが白家の娘かい?」
「白くて、小さくて、可愛いと言うのだ!」
途中で感じた閉鎖的な雰囲気は、黒家周辺にはなかった。
道行く人々は、加州の者たちより肌の色が濃く、服装も実用的で開放的だ。
屈強な男女が狭い石畳で、挨拶代わりに肩をぶつけ合い、互いの筋肉を讃え合っている。
その陽気さと生命力に満ちていた。
俺は不覚にも、胸が温かくなるのを感じていた。
まずいな。白家の息苦しい作法より、こっちのほうが性に合ってるかもしれない。このまま黒家の文化に染まってしまったらどうしよう。
加州の静謐さと格式を重んじる白家の文化とは正反対の、この黒家の荒々しくも自由な空気に、俺の心が揺さぶられている。
胸の奥で何かがざわめいた。
「あれが、我らの邸宅ですぞ」
炭十郎が指差す。
寺院を思わせる建物がどうやら黒松院家の邸宅らしい。
鉱物として産出されるのであろう金銀が柱に見事に飾られている。黒い石材と金銀の装飾が交錯する姿は、豪華絢爛でありながらも独特の美しさがあった。
なるほど、光龍を見て、異様なほど昂奮していたのは、黒松院家のシンボルカラーだったからだな。
炭十郎と征十郎は俺たちを慎重に肩から降ろした。
「ここが黒松院家の本邸でございます。一族の長がお待ちかねでございます」
彼らは一礼した。その動きには一切の乱れがなく、先ほどとは別人のようだった。
そして重々しい門へと俺たちを導いていった。
大きな黒檀の門をくぐると、小さい庭があり、さらに玄関を入ると、外の喧騒が嘘のように静まり返った。音が消えた。空間が広がっていた。
外の暑さとは対照的に、室内はひんやりとしている。湿度が安定している。肌に纏わりつく不快な湿気がない。
壁は岩をくり抜かれたところに漆喰で丁寧に塗り込められていた。
漆喰の白い壁は石灰の殺菌効果で疫病予防になるんだよな。それに、この適度な湿度は呼吸器系の病気や家庭内感染を防ぐ効果が高いはずだ。涼しいし、最高の環境だ。
ゲームの世界だということを忘れて分析してしまう。
このような建築様式を持つ文化は、科学的知識がなくても経験則で優れた生活環境を作り上げてきたのだろう。歴史だ。
廊下はヒノキの清々しい香りを放ち、深く息を吸い込むと、鼻腔が清められるようだった。足を踏み入れる室内は畳敷きになっていた。外側は岩山の洞窟でありながら、内部は完全な日本建築の様式を持っている。この不思議な融合が、黒家の文化の特徴なのかもしれない。
兄弟は俺たちを長い廊下の奥へと導いた。
壁には戦いの場面を描いた絵や、太古の英雄の像が並んでいる。すべての像が筋骨隆々としているのは言うまでもなかった。
「長の黒松院嵐鋼は謁見の間におられます」
炭十郎の声が低くなった。
「知や筋肉の誇示は慎むように」
征十郎が意外な忠告をした。眉を寄せている。
「長は古き礼節を重んじられます」
二人は大きな扉の前で立ち止まった。そして礼儀正しく頭を下げる。
それほどの人物なのか。
俺も気を引き締め、千鶴と無言で頷きあった。
「白桜蔭家の姫君をお連れしました」
謁見の間に座すは、
「失礼いたします」
その名が体現するかの如く、老いてなお岩のように揺るがぬ風格を持つ男だった。
七十歳は超えているだろうか。背筋は剃刀のように真っ直ぐで、寸分の隙もない正座の姿勢からは、長年の武人としての鍛錬が窺える。
黒を基調とした軍服にはいくつかの勲章が輝き、白髪は潔く後ろで束ねられている。 深く刻まれた顔の皺と傷跡が、彼の生きてきた激しい時代を物語っていた。
彼のうしろの二つの掛け軸には、『心技体』と記されていた。
これが軍人の圧力か。
筋肉を見せびらかす兄弟とは対照的に、嵐鋼は力を内に秘めている。
だが、その静かな佇まいから放たれる威圧感。部屋の空気が重い。
「白桜蔭家より来られし清香殿、そして白蝋梅家の千鶴殿、ようこそ慶州へ参られた」
嵐鋼の声は低く、しかし明瞭だった。
一音一音が耳に刺さる。言葉の一つ一つに重みがある。
俺は清香として、背筋を伸ばして座り、丁寧に礼をした。
俺と千鶴の髪が畳に触れる音が、さらり。
「お招きいただき、ありがとうございます。黒松院家の皆様に会えることを楽しみにしておりました」
嵐鋼の視線が、俺に向けられる。
それは単なる好奇心ではなかった。まるで魂の奥底まで見透かそうとするような鋭く、重い眼差し。心臓が鷲掴みされるような感覚。
文學とは違う。
文學が無数の動物ならではの視点で俺を分解するなら、嵐鋼は抜き身の刀だ。戦場で敵を見据える武将の眼光。油断すれば一刀両断にされて、内臓まで見透かされる。そんな錯覚を思わせる老人だった。
「右目はどうなさった?」
唐突な質問。
俺の心臓が一度、大きく跳ねた。
だが、すぐに清香としての役柄を思い出す。呼吸を整える。
「流行り病にて。お見苦しい姿をお見せしますが、眼帯を外させていただいてもかまいませんか?」
流行り病とは当然嘘である。
嵐鋼はわずかに頷いた。
その威厳ある顔に、僅かな柔和さが浮かんだように見えた。
口元がほんの少しだけ緩む。
「目は人の内面を映す窓といいます。ぜひとも両の目で、我が黒松院家を見ていただきたい」
相手から見るチャンスをもらえた。
俺はゆっくりと眼帯を持ち上げた。
光に慣れていない右目がチクリと痛んだ。だが、すぐに天算眼を発動する。
視界が変わる。嵐鋼の姿の上に、数値が浮かび上がった。
筋力:15
敏捷性:14
耐久力:15
知力:15
判断力:16
魅力:15
神くず:なし
やはり。
すべての能力が高水準だ。数値が均等に並んでいる。
特に肉体と精神のバランスが取れている。彼の威厳ある姿は純粋な鍛錬と経験によるものだろう。
掛け軸にあるように、心技体だ。それは敬意に値する。
「なにか見えましたかな?」
嵐鋼はじっと俺の顔を観察していた。瞬きもせず。
「いえ、若輩者の私には」
俺は畳の上に両手をついて頭をさげた。
文學爺さんとは違うタイプの怪物だ。策謀ではなく、揺るぎない意志と経験で相手を圧倒するタイプか。明治や昭和の軍人はきっとこんな感じだったんだろう。
巨大な山の前に対面するような、そんな圧倒的な威圧感。
「顔をあげなさい」
「はい」
視線が交錯した瞬間、彼の瞳の奥に、静かに燃える鋼のような意志の炎を見た気がした。
それは老いを知らぬ精神の力そのものだった。
「祖父から、お預かりしたものがございます」
俺は慎重に、袂から一通の書状を取り出した。指先が震えないように、意識して動かす。
白い絹布で丁寧に包まれた文學からの手紙だ。
出発前、「これを当主に渡せ。他の誰にも見せるな」と厳しく言い渡されていた。
「文學から、か」
「はい」
嵐鋼の目がわずかに揺れた。
彼は静かに手を伸ばした。ゆっくり書状を受け取る。
分厚い指が白い絹布に触れると、不思議な緊張感が部屋を満たした。空気が張り詰める。
一瞬、殺気のようなものが漂った。
俺ではなく、俺の背後にいる文學と対峙しているかのようだ。
「白桜蔭文學から直々の書状とは。久しいな」
嵐鋼は静かに呟いた。
殺気が老人の身体という鞘に収まる。
その声音には懐かしさと複雑な想いが混ざり合っていた。彼は書状を慎重に袖の中にしまった。
「お読みになりますか?」
俺の問いに、嵐鋼は小さく首を振った。
「後ほど、ゆっくりと。あの老狐の言葉は、一文字一文字に毒と蜜が混ざっている。慎重に味わわせてもらおう」
その表情には、長い歴史を共有してきたライバルへの複雑な感情が滲んでいた。目が遠くを見ている。
もしかして、手紙を嵐鋼殿にだけというのは、俺に少しでも嵐鋼殿を長く見せて、分析させるためか? いや、天算眼のことは知らないから考えすぎか? だが、あの祖父のことだ。
まるで文學の手のひらで操られている。
そんな気がした。
「二人とも、黒松院でごゆるりと過ごされよ」
最後に、彼はただそれだけを言った。
表情も変わらなかったが、彼の言葉には何か深い承認が含まれているようにも感じられた。
俺はどう判断されたんだ?
その言葉にどれほどの意味が込められているのか、悔しいが、俺には測りかねた。正座した足の親指に力を込めるしかできなかった。
「はい。お言葉に甘えさせていただきます」
静かに眼帯を元に戻した。布が右目を覆う。
この短い対面だけで、黒松院嵐鋼という人物の奥深さを垣間見た気がした。文學の策略的な知恵とは異なる、真っ直ぐで揺るぎない力の存在を感じたのだ。
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