第一章 異世界のゲーム ②



 意識が浮上する。二度目の目覚めだ。

 重たい瞼をこじ開けると、橙色の光が目に刺さった。夕陽が窓から差し込み、畳の目を黄金色に染め上げている。

 左目だけで世界を見ていた。

 シーツを握りしめる。夢ではなかった。

「⋯⋯お兄さま、大丈夫ですか?」

 清香が俺の手を包んでいた。ずっと傍にいてくれたのだろう。

「ああ、大丈夫だ」

 喉の奥から漏れた声は、細く高かった。喉仏のない滑らかな首筋に触れるたび、十歳の子供になった現実を突きつけられる。

 清香が長い睫毛を震わせて覗き込んでくる。

「本当に? 大丈夫なの?」

「ああ、本当だ」

 偽りの笑顔を向けた。

「いや⋯⋯すまない。まだ、動揺している」

「お兄さま⋯⋯」

「ごめんな」

 自分の声なのに、他人が話しているような違和感が耳に残る。

 頭が痛い。鼻の奥でツンとした痛みが脈打ち、記憶が霧散していく。

 ホテルの廊下、女性の悲鳴、何か巨大でおぞましいもの——。

 記憶の砂が指の間から零れ落ちていくように、確かな形を掴めない。リムゾムの名前を思い出した瞬間、胸が締め付けられた。

 右目の視界は闇に沈み、左目だけで見る世界は奥行きを失って平坦だ。この世界のことも、俺自身のことも、何もわからない。

 息を吸い、吐く。心臓の鼓動に合わせて思考を整理する。


 受け入れろ。


 目を背けても事実は変わらない。この小さな手、低い視線、失われた右目——これが俺の現実だ。早く順応しなければ、この「曉人」という器すら失うことになる。

 隣の部屋に控えていた雪路がやってきて、細い指で俺の頬に触れた。

「もう一度、先生を呼びましょうか?」

「日出吉先生は、異常はないと仰っていました。記憶の混乱も一時的なものだろうと」

 清香が答える。

「もし、体調が悪かったらすぐに言うのよ」

「はい」

 二人の視線が俺の顔に注がれている。

 俺は彼女たちの瞳を見つめ返した。雪路の目、清香の目。その奥に疑念の影はないか、必死に探る。

 そこにあるのは心配と安堵だけだった。

 息が少し楽になるのと同時に、罪悪感が渦を巻く。

「ありがとう、清香」

 清香の手は小さくて温かい。この子は俺を信じ、「お兄さま」と呼んで疑わない。  だが、俺は本物じゃない。

 俺はこの子の兄を奪った。


 簒奪者——その言葉が頭の中で反響する。


 元の曉人はどこへ行ったのか。死んだのか、消えたのか、それとも混ざったのか。何もわからない。ただ一つ、俺が偽物であることだけが真実だ。

「お兄さま⋯⋯何か思い出しましたか?」

「少しずつ⋯⋯戻ってきているよ」

 舌の上で嘘が滑る。砂を噛むように不快だった。

「無理をしなくてもいいのよ」

 雪路はベッドの縁に座り、俺の額に手を当てた。

「熱は下がったわね」

 ひんやりとした感触のあと、じんわりと温もりが広がる。心臓が大きく跳ねた。

 母親——施設育ちの俺には概念でしかなかった存在。理由もなく心配し、慈しむ。これが家族なのか。


 それを俺は奪った。


 雪路が俺の頬を両手で包み込んだ。

「曉人、お祖父さまが会いたがっていらっしゃるわ」

 雪路の声が硬質に響く。

「⋯⋯お祖父さま?」

「ええ、文學お祖父さまよ。あなたが目を覚ましたと聞いて、すぐに会いたいって……」

 ——文學。

 その名前を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。

 懐かしさと、恐怖。畏怖に近い感情が胸の奥で蠢く。これは俺のものではない、曉人の記憶だ。

 曉人はこの祖父を怖がっていたのか?

「お祖父様が、俺に?」

 雪路の目が泳いだ。指先が着物の袖を握りしめている。

 会うのを延期するか?

 いや、情報が足りない。この世界のルールを理解するには、できるだけ多くのピースを集める必要がある。

「会いたいです」

「わかったわ」


 しばらくして、襖が開いた。

 入ってきた老人を見た瞬間、部屋の空気が変わった。

 畳の上を大きな気配が滑るように近づいてくる。足袋の音、衣擦れの音、その挙措すべてが研ぎ澄まされている。

 痩せた体躯に、獲物を狙う猛禽のような鋭い目。皺の刻まれた顔の中で、その瞳だけが異様なまでに若々しい。近寄るだけで切られそうな気配を纏っていた。

「曉人」

 低く、静かな声。感情が削ぎ落とされている。

 前世で聞いたことがある。冷徹な上司の声だ。すべてを見透かし、容赦なく断罪する響き。

 老人はゆっくりとベッド脇の椅子に腰を下ろした。背筋は一本の若竹のように真っ直ぐだ。

「⋯⋯お祖父さま」

 喉が張り付くようだった。

「落馬したそうだな。馬にもなめられたようだな」

 言葉の端に刺がある。心配の色は微塵もない。目に映っているのは軽蔑だ。

「申し訳ありません」

「何を謝る。男は結果だけだ。次は落ちなければいい」

 短い言葉の奥に、諦めのような色が滲んでいないか?

 老人の視線が俺を観察している。値踏みし、品定めするように。


 部屋が静まり返る。時計の秒針が進む音だけが大きく響く。


 雪路の肩が小刻みに震えていた。「すぐに会いたい」と言ったのは彼女の優しい嘘だ。文學は俺に会いたがってなどいなかった。

 なぜ無理やり引き合わせたのか。

 俺に違和感を覚えたのか?

 背筋が凍る。この老人は危険だ。味方につければ生存確率は跳ね上がるが、敵に回せば終わりだ。

 俺は第一印象だけでも只者ではないと判断した老人を、さらに深く観察し始めた。

 前世のデータサイエンスの知識をフル活用する。

 データを集め、パターンを見つけ、仮説を立てろ。



【観察1:手指】

 右手の人差し指と中指の内側——微かなインク染みがある。ペンだこもある。毎日、長時間執筆している証拠だ。

 ただの趣味ではない。この年齢で毎日書き続けるということは、義務か、習慣か、あるいは使命感か。

 日記? 回顧録? それとも——何かの記録を残している?


【観察2:着物】

 質の良い絹の着物。だが、派手ではない。色は深い紺色で、家紋が控えめに入っている。

 成金の派手さではなく、旧家の落ち着いた品格。長年の地位と財力を示している。


【観察3:姿勢と動作】

 背筋が異常なまでに真っ直ぐだ。七十歳を超えているはずなのに、まるで若い軍人のようだ。

 座る時の動作——無駄がない。音を立てない。重心の移動が滑らかだ。

 これは幼少期からの訓練の賜物か? 

 武術か、あるいは軍隊式の教育を受けている。


【観察4:目つき】

 皺の刻まれた顔の中で、瞳だけが異様なまでに若々しい。

 その目は常に動いている。俺を見ているようで、部屋全体を視界に入れている。

 索敵——戦場で培った習慣だ。常に周囲の状況を把握し、脅威を探している。


【観察5:話し方】

 「男は結果だけだ」——実利主義者の言葉だ。

 感情を排し、結果だけを重視する。これは政治家か、軍人か、あるいは両方の経験者の思考だ。

 そして「次は落ちなければいい」——失敗を許容しつつ、次を要求する。

 これは部下を育てた経験がある者の言い方だ。組織を率いていた人間の言葉だ。


【仮説の構築】

 データを統合する。

 旧家の出身。幼少期から武術と規律の訓練を受けた。軍人か政治家として高い地位に就いた。現在は引退しているが、毎日何かを書き続けている。そして、常に周囲を警戒し、分析する習慣が抜けていない。



 つまり——。


 軍人上がりの政治家。あるいは政治に関与した軍人。

 そして今は、回顧録か、あるいは何かの記録を残している。


 俺が老人を観察している間に、老人も——俺を見ていた。


 背筋に冷たいものが走った。

 何を見抜かれた?

 深呼吸をして丹田に力を込めた。一瞬の隙も許されない。

 もし俺が偽物だと知られたら、殺されるかもしれない。

「⋯⋯」

「⋯⋯」

 沈黙が続く。

 何か言わなければ。

 記憶喪失という嘘だけでは、この老人には通じないだろう。ならば、覚悟を決めるしかない。

「私は——」

 乾いた唾を飲み込む。

「記憶が、抜け落ちてます」

 雪路が息を呑んだ。

「お祖父さまのことも、正直に申しますと——覚えておりません」

 会話の糸筋を組み立てろ。

「曉人!」

 雪路が立ち上がろうとした時、老人が手を上げた。静かだが絶対的な制止。

 俺に、興味を持ってくれた、か。

「——続けろ」

 感情の読めない低い声。氷のナイフを喉元に突きつけられているようだ。

「はい」

 ここから、選択肢を一つも間違えることが許されない。

 俺は眉間に力を込めて、目の前の老人の情報を言葉にした。

「お祖父さま、あなたは軍人、あるいは政治に携わる方でしょう。そして今は何か執筆もされている。恐らく日記か回顧録。右手の指の擦れ具合から察するに、毎日の習慣なのでしょう」

 老人の表情が変わった。目が細くなり、その奥で何かが光る。

 興味か、疑念か。

 文學はシニカルに笑った。俺の観察を悟られたのだ。

「ほぅ、慧眼は福を招くというが、まさにこのことか」

 老人が身を乗り出す。茶葉の渋い香りと、古書の匂いが鼻腔を満たす。

「あなたはかつて高い地位にあり、今は引退されている。ですが——完全には手を引いていない。まだ何かに関わっていますね」

 文學の目が見開かれた。

「武家には昔からこういう格言がある。蛙の子は⋯⋯」

 言葉が途切れる。

「いや、違うな⋯⋯」

 老人はゆっくりと立ち上がり、雪路と清香の方を向いた。

「雪路、清香、部屋から出なさい」

 老人の声に、拒否の余地はなかった。

 二人は顔を見合わせ、不安そうに部屋を出ていった。

 襖が閉まり、静寂が落ちる。

 文學は立ったまま俺を見下ろしている。

(何か、気づかれたのか?)

 時間が止まったように感じる。心臓の音が耳の奥で響く。

 やがて、椅子を俺の真横に移動させて、座った。

 背筋は変わらず真っ直ぐだ。

 だが、何かが変わった。空気が重い。

「⋯⋯」

 老人が口を開く。

 今までとは違う、底冷えするような声。氷の刃のように鋭く、俺の核心を突き刺す。

「お前は——何者ぞ?」

 肌が粟立ち、全身の血が凍りついた。

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