第一章 異世界のゲーム ①
意識が浮上してくる。
最初に感じたのは重さだった。胸の上に、何か温かいものが乗っている。
次に、香り。甘く、どこか懐かしい花の香り。俺の部屋にはない匂いだ。
耳元で、絹擦れのような衣擦れの音と、高い子供の歌声が聞こえる。
「⋯⋯」
鉛のように重い瞼をこじ開けた。
視界に飛び込んできたのは、木目の美しい格天井。
視線を巡らせると、広い部屋の壁は白木の板張りで、隅には花が生けられ、障子越しに柔らかな光が満ちていた。
そして——。
「目が醒めましたか!」
弾んだ子供の声。胸の上の重みが動く。
視線を下ろすと、陽の光を受けて艶めくおかっぱの黒髪があった。
顔を上げた少女は、整った鼻筋、小さな唇。
そして、大きな翡翠色の瞳を潤ませていた。
(外国人?)
その俺の思考を、少女が否定した——。
「お兄さま、お兄さまぁ!」
少女が俺の胸に顔を埋める。柔らかく、軽い体温。ミルクのような甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
(お兄様? 誰のことだ?)
それに、この子は誰だ。ここはどこだ。俺は——。
「よかった⋯⋯お兄さまが目を覚ましてくださって」
震える声。心から伝わってくる安堵。
だが、俺はこの子を知らない。
少女は俺から離れると、部屋の隅に控えていた人影に声をかけた。
「お母さまにすぐにお知らせしてください。お兄さまがお目覚めになりました」
地味な服を着た召使いらしき少女が、「かしこまりました、お嬢様」と恭しく一礼し、音もなく襖を開けて出ていった。
無駄のない動き。訓練されている。
(この子は——お嬢様?)
五歳ほどの幼子が、これほど的確に指示を出すのか。
俺がまじまじと少女の横顔を見つめていると、視線が合う。
やはり、翡翠色の瞳だ。
「⋯⋯本当によかったです」
少女は再び俺に抱きついた。
「ちょっと待ってくれ」
俺は身を起こそうとした。
瞬間、違和感に襲われる。
右側に、何もない。視界の右半分が、黒く塗り潰されている。
首を振る。右は暗闇。左は部屋。
「右目がッ!」
「お兄さま! まだ動いてはいけません!」
少女が慌てて俺を制する。その小さな手の力に、思いのほか抵抗できない。
視界に入った自分の腕に、息を呑んだ。
白く、細い。血管が透けるような華奢な腕。これは、俺の腕じゃない。
「これは、俺? 俺なのか?」
喉から漏れた声は高い。
触れた喉に、喉仏の感触もない。
俺はどうなってしまったんだ。
「お兄さまは落馬されたのですよ。お医者様が安静にするようにとおっしゃっていました」
「落馬?」
馬になど乗ったこともない。
震える手で右目に触れると、包帯の感触があった。
(何が起きている? 俺は世界大会で優勝したあと……刺されたはずだ)
腹を探るが、傷跡はない。
俺は——死んだのか? それとも——。
「お兄さま? 大丈夫ですか?」
少女の心配そうな顔。
俺は深呼吸をして、動揺を押し殺した。
「ああ、大丈夫だ。ちょっと混乱してるだけだ」
改めて少女を見る。上等な生地の服に身を包んだ、人形のように美しい子供。
施設で育った俺が見たことないタイプだ。
俺は少女を見つめ、静かに口を開いた。
「頼みがある」
「はい。なんでしょうか?
清香。美しい名前だ。
「俺の頬を思いっきり叩いてくれ」
「できません!」
即答だった。
「現実だと確信するために頼むんだ」
俺の懇願に、清香は愛らしい仕草で考え込む。そして、俺の顔に近づいてきた。
「では、こういうのはどうですか?」
避ける間もなく、唇に柔らかい感触が重なった。
「んん……」
甘い香りが鼻をくすぐる。一瞬思考が飛び、混乱に拍車がかかる。
(待て、相手は五歳くらいの女の子だぞ! 俺は何をされてるんだ!?)
慌てて俺は清香を引き離した。
「こ、これは!」
「お兄さま、これで現実だと分かりましたか?」
清香は無邪気な笑顔を向けた。その純真な瞳を見た瞬間、胃が重く沈む。
(待て! 冷静になれ。これは明らかに異常事態だ)
俺はきょとんとしている清香の肩を掴んだ。
「質問に答えてくれ」
「はい!」
清香は元気よく返事をする。その屈託のない笑顔に、力が抜けた。
「俺の名前は?」
「ハクオウ⋯⋯」
清香が言いかけたそのとき、襖が開いた。
入ってきたのは、頼りなさげな若い医師だった。十五、六歳ほどだろうか。顔色が悪く、手にした医療道具がカタカタと震えている。
カバンを開くと同時に、包帯を床に落とし、それを拾おうとするたびに、寝癖の髪がピョコピョコ跳ねる。
「
「は、はい。いますぐ——」
日出吉と呼ばれた少年医師は、緊張した面持ちで俺の目を診察した。手際は悪くないが、自信がなさそうだ。
俺の目を覗き込んでくる。
いや、待て、こんな少年が、医者だって?
「眼帯を当てておくといいでしょう。右目は⋯⋯これで大丈夫です」
言いながら、包帯を三度も落とした。
見かねたのか、後から入ってきた年配の看護婦が道具を取り上げた。
「先生、私がやります」
声音は丁寧だが、目は笑っていない。
「あ、す、す、すみません——」
日出吉は顔を赤らめて部屋の隅へ退く。看護婦の手際よい処置を見守るしかないようだ。
入れ替わるように、若い女性が駆け込んできた。
「
安堵と心配がない交ぜになった声。
息を呑むほど美しい人だった。清香によく似た翡翠色の瞳、艶やかな黒髪。
彼女は俺に飛びつき、涙を浮かべて抱きしめた。
「よかった——本当に、よかった」
柔らかく温かい感触。甘い花の香り。
全身が強張った。心臓が早鐘を打つ。
(何だ、これは——)
温もりが、全身を包み込んでくる。心地よいはずなのに、怖い。
この温もりが——恐ろしい。
(やめてくれ)
手が勝手に動いた。反射的に彼女を押しのけてしまった。
「すみません!」
裏返った高い声。震えが止まらない。
女性は驚いた顔をしたが、すぐに慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「ごめんなさいね。息ができなかったのね」
その笑顔に、胸が締め付けられる。
(母親——これが、母親?)
施設育ちの俺が知らなかった存在。
それが今、目の前にいる。
しかし、あまりに若すぎる。二十歳そこそこにしか見えない。
「曉人、大丈夫?」
優しく頭を撫でられると、喉の奥が熱くなった。
曉人——それが、俺の名前。
自分の手を見つめる。
子供のように小さい手が、震えている。
「わからないんです——自分が、わからない」
その告白に、室内は沈黙する。
「あなたは、落馬して頭を打ったの。医者は一時的な記憶の混乱があるかもしれないと言っていたわ」
その女性は俺の頭を撫でてくれる。
ここがどこかも、曉人が何者かもわからない。
だが、ここには家がある。
施設と同じ——偽りの家族だ。
俺は演技をすることにした。
現状を把握するためには、記憶喪失を装うのが最善だ。
「すみません。思い出せなくて」
「ゆっくり思い出せばいいわ」
母親は静かに語りだした。
「あなたは皇國陸軍幼年学校で学んでいたのよ。全寮制の名門校で、二年間も親元を離れていたの」
「二年も?」
「八歳のあなたを送り出したときは、胸が張り裂けそうだったわ」
八歳から、二年。
俺は自分の小さな手を見つめた。
「えッ、俺は十歳!?」
「そうよ。そして清香は五歳」
俺は言葉を失った。
「そして、私は
雪路は照れくさそうに微笑んだ。
どう見ても十歳の子供がいるとは思えない若々しさだ。
(二十四歳で十歳の子? 十四歳で出産したのか。尋常じゃないぞ。この世界は——どこだ?)
頭の中で何かが高速回転している。
(俺は本当に、あのとき⋯⋯)
雪路と清香の唇が動いているのが見えるが、音が届かない。
指先から血が抜けていく。視界の端から白く霞んでくる。
限界だった。
「すみません。少し、横になりたい」
雪路が優しく俺を寝かせてくれた。
「ゆっくり休みなさい。また後で話しましょう」
子守唄のような声を聞きながら、意識が沈んでいく。
(ここがどこであろうと。俺は——生きている)
リムゾムの声が蘇る。
「生きて」
(ああ——生きてる。この意味がわからない世界で、生きてやる)
意識が、闇に沈んでいった。
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