第一章 異世界のゲーム ③
「⋯⋯」
「今一度、問う——お前は誰だ?」
言葉の合間に見えない刃が潜んでいた。
《お前は——孫ではない》、と。
文學の視線が、俺を貫く。
その瞬間、背後の空気が揺らいだ。
何かが潜んでいる。見えないが、確実にこの部屋にいる。
首筋に熱い吐息。右肩に鋭い視線。左脇腹に冷たい鼻先。足首にザラついた舌。
そして、俺の顔を無数の瞳が見つめている。虎の黄金の瞳、龍の縦長の瞳、鷹の琥珀の瞳、狼の氷の瞳。
(これは——何だ? 幻覚か? それとも——)
上から、下から、前から、後ろから。あらゆる角度から俺という獲物を観察している。どこから食えば旨いか。どこを噛めば致命傷か。
皮膚が総毛立ち、冷や汗が噴き出す。息が吸えない。喉が締め上げられ、心臓が暴れる。
逃げろ!
脳が叫ぶが、身体が動かない。
これは金縛りではない。解体だ。生きたまま、俺は解体されている。
(俺の分析とは——レベルが違う)
文學の目が細く笑った。
その瞬間、獣たちの気配がふっと消えた。吐息も、爪も、牙も、すべて。
ただ、首筋に残る生温かい感触だけが、現実と幻覚の境界線を曖昧にしていた。
「くッ」
「どうした?」
わかっていながら老人は尋ねてくる。
「な、なんでもありません」
獣は消えたが、老人の視線はまだ俺を貫いたままだ。
掌が湿る。シャツの背中に冷たい汗が張り付く。
曉人という仮面が音を立てて剥がれ落ちていく。全てを打ち明けるか?
いや、危険すぎる。
中途半端な嘘で誤魔化すか?
だめだ、この老人には通じない。
俺は何者だ?
転生者か?
それとも、記憶が混ざっただけの曉人か?
自分でもわからない。
だったら、わからないことを武器にするしかない。
記憶喪失という仮面を、もう一度はめ直せ。
文學の視線がじっとこちらを睨めている。獲物が動くのを待つ蜘蛛のように。
喉の奥で唾を飲み込む音が、やけに大きく響いた。
「お祖父さまは、なぜそう思われるのですか?」
文學の口角がゆっくりと上がり、老いた顔の皺が深く刻まれる。
「曉人は小さい頃から愚鈍だった」
胸が締め付けられた。
「自分の名前を覚えるのにも三年かかり、三歩歩けば用事を忘れ、弓を引かせれば隣の木に矢を射る。そんな孫だからな」
望まれていなかったのか。
胸の奥で何かが軋む。施設の冷たいリノリウムの床。職員の「あの子たちの親は来ないよ」と囁く声。
同じだ。曉人も。
先程の雪路の柔らかい手のひらが、職員の義務的な掌に変わっていく。清香の体温が、マニュアル通りの温度に下がっていく。
お前も孤独だったのか。
「曉人?」
文學の声が現実に引き戻す。
「生まれたときから線が細く、泣き声も弱々しく、母親の乳も十分に飲めなかった。学校での成績は下から数えた方が早く、剣術の腕前も同様。跡取りとしては失格だった。正直、清香とお前は生まれる性別を間違えたと言わざるをえない」
言葉の一つ一つが錘のようにのしかかってくる。家族だからこそできる、容赦のない解体作業。
俺が経験したことのない愛情表現だ。
奥歯が噛み合う。喉の奥から乾いた笑いが漏れた。
ああ、これが家族というものなのか。
「失礼ですが、あまりの言いようです」
「くくく、そこで笑うか」
「お祖父さまなりの不器用な愛情を感じましたので」
文學の目が一瞬だけ細められた。
次の瞬間、老人の喉から太い笑い声が転がり出る。背筋が弓なりに反り、肩が大きく揺れた。
「これは一興。先ほど滔々とワシに意見したかと思うと、今度は愛情とな? これはモノノ怪か妖魔の類に魂を乗っ取られたか?」
引きつろうとする頬の筋肉を必死に押さえ込む。
老人は居住まいを正した。
「さぁ、ワシはおまえが知りたかったであろう、おまえ自身のことを答えてやったぞ」
文學の目が三日月のように細まる。まるで盤上で駒を追い詰めた棋士のように。
俺が知りたかった曉人のことだ。
それをわかっていながら説明してくれた。そして今、この状況を楽しんでいる?
心臓が喉元まで跳ね上がってくる。
今さら愚鈍な孫を演じるという道は防がれてしまった。
再び思考が高速回転する。
すべてを打ち明ける? リスクが高すぎる。
部分的な真実で煙に巻く? それも難しい。
ならば——転生者という核心だけは隠し、こちらから仕掛けるしかない。
鼻から息を吸い、肺に空気を溜める。
「お見通しのようですね。確かに私はあなたの孫の記憶とは違う記憶を持っていますが、モノノ怪や妖魔の類ではないことは誓います」
文學の視線がレンズのように焦点を絞る。
空気が止まった。
やがて片方の眉が持ち上がり、口元の皺が深くなるが、その意味は読み取れない。
「ならば、西の国に伝わるという精神侵食の魔法か? 敵国の術者が我が家の跡取りを乗っ取った、というわけかな?」
魔法。その単語が鼓膜を震わせた瞬間、目が勝手に見開く。
(本当に魔法が? 本当に異世界転生? 俺は?)
文學の目が鋭く光った。
「ふむ、これは図星というよりも、魔法の存在は知らなんだという類の顔じゃな」
視線が逸れる。首が勝手に動いてしまった。
しくじったと思っても遅かった。老人が確信めいた乾いた笑いをこぼしている。
情報が足りない。焦りが胃袋を掴んで揺さぶる。
吐きそうだ。
だが、この老練な相手に隙を見せてはいけない。冷静に、感情を制御する。
くそ、子供の体が言うことを聞かない。汗が止まらない。心臓が跳ねる。
「沈黙していても、おぬしの表情は雄弁に語っておるぞ。驚きと混乱、そして恐怖。お前は西の国どころか、魔法の存在すら知らないようじゃな?」
西の国。あえて伏せている。情報を小出しにする駆け引き。
胸の奥で怒りが燻る。と同時に、好敵手に出会ったような奇妙な高揚感が湧き上がってくる。
落ち着け。心臓よ、脳にだけ血を送れ。
データを分析するときのように、冷静に、客観的に。施設でも、学校でも、社会でも、イジメの標的にされないように心の動きを隠してきた。
だが、この子供の身体は裏切る。
このままでは一方的に探られて終わる。
話題を探さなくては——。
「西の国とやらは、敵国なのですか?」
文學の鼻から短く息が漏れた。
「同じ手を二度使うのは愚策ぞ」
先ほどの質問返しはもう通じない。
老人の瞳に、懸念と奇妙な好奇心が入り混じる。
ストレートな嘘は通じない。ならば、核心を伝えながらも、それを伝えられない旨を。
「真実は語れども、真相は消して霧の向こうで見えません。手を伸ばせば掴めそうで、永遠に届かぬものかもしれません」
言葉を紡ぎながら、文學の目を見る。
嘘ではない。俺は前世を説明できても、証明する術はどこにもないのだから。
老人の掌がゆっくりと口元を覆い、肩が小刻みに揺れている。
「なるほど、なるほど。詩人の魂を宿したか」
からかわれている? それとも本当に面白がっている?
文學の瞼が狭まる。
老人の背後から、またあの気配が強く滲み出してくる。無数の獣たちが俺の周囲を取り囲み、鼻先を顔に近づけてくる。生温かい吐息が頬を撫でた。獣臭い匂いが鼻腔を満たす。
無数の獣の目が、色々に俺を分析していく。
「嘘ではない、か」
「⋯⋯」
「だが、ワシに隠し事をするのは得策ではないぞ」
空気が重くなる。
すべてお見通しだと、その視線が告げている。
この爺さん、ただ者じゃない。正面からぶつかっても勝ち目はない。
なら、どうする? 観察した限り、退屈している。知的な刺激と、人を試すこと、支配することに喜びを感じるタイプ。
それならば。
背筋を一本の糸で吊られたように伸ばす。俺の周りの獣たちの気配を無視する。
「お祖父さま」
喉を通る声が震えないように、布団の中で拳を握りしめる。
「私と」
言葉を選ぶ。
取引、では通じない。賭けをしましょう。いや、それも違う。俺に賭けたくなるものを提示していない。
じゃあ、どうする。
俺は唇が張り付くのを無理やり開き、言葉を放った。
「お爺さま、私と人生を賭けたゲームをしましょう」
乗るか? それとも一蹴されるか?
少なくとも興味の対象となり続けることが、関係を維持する糸になる。悲しいほど細い糸だが。
文學の眉間に一瞬だけ皺が寄った。
「⋯⋯」
「⋯⋯」
沈黙。
文學は動かない。表情も変わらない。
目を逸らしたら負けだ。本能が叫んでいる。
視線を合わせ続ける。時間が止まったように感じる。一秒が一分に、一分が一時間に。 その間、老人がさらに探るように無数の動物の視線で俺を見極めようとする。
心臓の音が耳の奥で響く。
胸に爪を立てて毟りたくなる。
どれくらい時間が経っただろう。
文學の顔は動かない。だが、口元がわずかに動いたように見えた。そして、皺が広がった。
笑っている?
膝を叩く音が室内に響く。
「ゲームとな。相わかった」
今までもっとも長い沈黙の後、老人は俺が望んだ答えを口にした。
老人が姿勢を正し、尋ねてくる。
「どのような作法で望む?」
その眼差しには、刀剣のような鋭さと幼子のような好奇心が混在していた。
「お祖父さまは、私を立派な跡取りに育ててくださいませ。私にこの世界で生きる知識を与えてください。その間に、お祖父さまは私の正体を見破るのです」
時間稼ぎと情報収集。正体を見破られる前に、生き抜く術を身につける。
文學の舌先が唇をゆっくりと湿らせる。
「興味深い。何時から我が孫はこのような機知を備えたのか」
皮肉を滲ませつつも、目が輝いている。
文學の体が座に深く沈む。濁りなき瞳が煌めいた。
「では、若人に一つ忠告だ。『ゲーム』なる言葉、ワシは初耳だったぞ」
(——しまった!)
くそ、こっちの世界には、存在しない言葉だった。
知らないくせに話を合わせてくる。この爺さんのほうが妖怪の類じゃないか。
完敗だ。
「今後は不用意な発言を慎め。言霊は諸刃の剣、沈黙こそ叡智を司る。肝に命じよ」
「⋯⋯はい」
小さく頷く。
「では、問おう。お前の真の名は何と言う?」
(前世の名前を聞いている——だが)
俺は力強く答える。
「曉人」
老人の顔に刻まれた皺が、一層深く刻まれる。
(この名で生きると決めた。それが俺の答えだ)
「おまえは、白桜蔭曉人じゃ。わかったな?」
ゲームが成立した——。
「はい」
文學がゆっくり立ち上がる。
「約束は果たす。お前が何者であれ、白桜蔭家の跡取りとしての教育を施そう」
その言葉には鉄のような重みがあった。
胸の奥で安堵と不安が絡み合う。だが、心が読まれないように頭を下げた。
本当に信頼していいのか?
「ありがとうございます、お祖父さま」
老人の片眉が上がったが、何も言わずに扉へ向かう。
「どうしてって顔を必死に隠しておるな」
「⋯⋯」
「面白い会話だった褒美に一つ教えてやろう。我が白桜蔭家の家訓は、門戸を閉じるな、じゃからな」
「休め。傷が癒え次第、始める」
文學が襖に手をかける。
「まずは、跡取りとして必要なことから始める」
「はい」
「嫁探しだ」
言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
「え?」
襖がピシャリと音を立てて、閉じる。
今なんて言った?
嫁探し? 俺、十歳だぞ!
清香と雪路の足音が駆け寄ってくる。
「曉人、大丈夫? お父さまは何を?」
雪路の手のひらが俺の額に触れる。ひんやりとした感触。
「お兄さま、怒られましたか?」
清香の小さな手が俺の腕を握る。温かい。
職員の手とは違う。
「ふたりとも心配をかけて、すみません。僕は大丈夫でしたよ」
「よかったわ」
口角を上げる。
「それに、お祖父さまはとても優しかったよ」
二人には真実を告げられない。文學との間に生まれた奇妙な共犯関係は、まだ誰にも明かせない。
雪路の肩がふっと下がった。
「お父さまが優しいなんて、珍しいわ。あの人はいつも厳しいだけだから」
彼女の言葉に、老人の複雑な性格が見え隠れする。
瞼が重い。
「少し眠りたい⋯⋯です」
全身から一気に力が抜けていく。
清香が毛布の端を引っ張り、体に掛け直す。そして、自分も布団に滑り込んでくる。
子どもの体温がじんわりと伝わってきた。
二年間、兄である曉人が、陸軍幼年学校に行っていたから清香は、寂しかったのだろう。
瞼を閉じながら思考が浮かぶ。
文學の爺さんは、俺の正体におおよそのあたりをつけている。興味がなくなる前に、この世界のことを知らなければならない。
互いに互いを利用し合う関係。だがそれは、この世界で生き抜くために必要な関係なのかもしれない。
そして、俺は今日から白桜蔭曉人として生きる。
門戸を閉じるな。
確かに俺は、この扉からのうのうと入った闖入者だ。だが、この老人はそれを承知で招き入れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます