第八話 涙の抱擁と、知恵の門

 あの夜から三日が経過し、山小屋は極限の状態にあった。カイルは高熱でうなされ、リリアは飢餓と罪悪感から重度の鬱状態となり、床に倒れて眠っていた。尽きかけた薪の匂いと、カイルの化膿した傷の臭気が、室内に充満していた。


 外の激しい雨はいつしか鳴り止み、窓の外は静かな月夜の夜更けとなっていた。月明かりに照らされた森は真っ暗だが、「サササ」と木々が静かな風に揺れる音が響く。


 その静寂の中、どこからともなく、チェコの作曲家ドヴォルザークの交響曲第9番『新世界より』第2楽章の**『遠き山に日は落ちて』の旋律が、妖精たちが風を操ることで、静かに伴奏**として流れ始めた。


 音楽が雄大になり、妖精たちによる大合唱が始まる。風に乗って響き渡る歌詞は、リリアとカイルの魂に、祈りのように語りかける。




  遠き山に 日は落ちて


  きらきらと


  空に残る 光かな


  帰る船歌(ふなうた) かすかにて




 その神秘的な音楽をバックに、子猫のシロ(神の使い)がゆっくりと動き出した。シロは、その小さな身体を月光に映して青白く輝かせた。


 まず、床で泥と涙にまみれて眠る少女リリアの身体が、優しい光に包まれて、ゆっくりと宙に浮いた。


 彼女を覆っていた汚れた布のエプロンと、泥まみれの服が、光の粒子となって**「サラサラ…」**と音を立てながら、空気の中に消えていく。その消滅は、これまでの苦悩と罪悪感からの解放を象徴していた。


 リリアの華奢な裸体が、月明かりとシロの放つ青白い光に照らされ、乳白色に輝いた。その肌は、まるで雪解けの水のように清らかで、いかなる邪念も許さない神聖な美しさを放っていた。


 光に包まれたリリアの唇から、**「んん…」**という、微かな、しかし安堵に満ちた寝息のような反応が漏れた。


 優しく温かな風が、彼女の濡れた髪一本一本、そして裸体を慈しむように撫でる。冷え切っていた身体が内側から温まり、髪や皮膚についた湿気は跡形もなく乾いていった。


 光が薄れると、リリアの身体は、新たに生まれたような清潔な白のワンピースに身を包まれていた。彼女は、暖かい布団の上に優しく横たえられ、深く穏やかな眠りについた。


 再び、妖精たちの合唱が山小屋に響き渡る。




  夢さめて


  われに帰る 心かな


  遠き山に 日は落ちて


  きらきらと


  空に残る 光かな




 次にシロは、カイルのベッドの枕元に立ち、そのおでこに優しくキスをした。カイルは眠ったままだが、次の瞬間、彼の身体がシロの治癒魔法により強く光り輝いた。


 すべてを終えたシロは、窓の傍に立ち、月に向かって静かに歩き、その姿は音もなく光の中に消えていった。



 翌朝。カイルは硬い木のベッドの上で、驚くほど軽くなった身体に目覚めた。全身の激痛は消え、深い疲労感さえもない。死の淵から完全に生還した事実に、彼は驚きを隠せない。


 カイルは、そっと隣のベッドで安らかに眠るリリアを見た。白い清潔なワンピースに身を包んだ彼女の寝顔は、ひどく可愛らしく、カイルは一瞬、胸がドキッとするのを感じた。それは、これまでの友情や使命感とは異なる、純粋な愛着と異性への意識の胎動だった。


 彼はリリアを起こさないようにゆっくりとベッドから降り、山小屋の状況を確認し始めた。


 空になった食糧庫、心もとない薪の山。そして、テーブルには、リリアが必死に知識を書き写した紙の束が散乱している。最初は几帳面だった文字が、徐々に汚く、判読しづらくなっているのを見て、カイルは自分が眠っている間にリリアが一人でどれほど精神を削って戦っていたかを知り、胸を強く痛めた。


 その時、カイルは背後に人の気配を感じ、振り返った。


 そこに立っていたのは、身体は清潔な白いワンピース姿に変わっているものの、生気を失ったリリアだった。


「おはよう、リリア」


 カイルは、優しく挨拶をした。しかし、ニッコリと微笑み返事を返すと思えたその時、リリアは、音のない乾いた**「アハハハ」**という声と共に、不気味に微笑み始めた。その変貌した姿に、カイルはゾクリと背筋が凍る。


「ねえ、あなた。キスしましょう?」


 リリアは、幼い背伸びと狂気が混ざり合ったような、大人びた仕草でカイルに迫る。


「馬鹿。何を言ってるんだ!」


 カイルは反射的に叫んだ。彼は真正面から彼女の肩に手を置き、その小さな身体を揺さぶる。


「おい。どうしたんだよ!リリア、しっかりしろ!」


 リリアは力なく**「アハハハ」**と微笑むだけで、カイルの言葉は届かない。


 変わり果てたリリアの姿を見たカイルは、彼女の苦悩と、**「愛する者を守る」**という自分の使命が、肉体的な力ではなく、精神的な献身へと変わったことを痛感した。彼は、深く傷つきながらも、リリアを強く、優しく抱きしめた。


「頼む、リリア……俺を、一人にしないでくれ……」


 カイルは、自分の胸の中で震えるリリアを抱きしめながら、静かに涙を流した。


 この時、カイルは部屋の中を見渡し、リリアを救ったはずの存在がいないことに気付く。


「あれ?シロはどこへ行ったんだ?」


 カイルは、リリアの狂気、空の食糧庫、そして自分に与えられた「完全なる力」という現実を前に、「今こそ自分が頑張る番だ」**と、強く、静かに決意した。


 彼は、静かに涙を拭うと山小屋の外に出る。雨はあがり、森は気持ちのいい朝の光景に包まれていた。カイルは真剣な顔をしている。


 切り株のところまで行き、彼は斧を両手でつかみ力強く肩に抱える。**「ふん!」**と力を込めると、それまでびくともしなかった丸太が、次々と心地よい音を立てて割れていく。


 彼は割った薪を抱えて山小屋へと戻り、暖炉に火を灯す。


 リリアは椅子に腰かけながら、いつの間にか眠りについていた。そんな彼女にカイルは毛布を掛けてあげる。


 しかし、カイルの腹が**「グググ」**と鳴った。


「腹減ったな……」と彼は静かに呟く。燃料は確保したが、食料はない。


 彼はふたたび山小屋の外に出る。すると、よく見ると、少し離れた地面にジャガイモの一部が顔を出してることにカイルは気付く。


「ひょっとして、これは!」


 カイルは、さっきの薪割りで豆が出来た手で、必死で両手で地面を掘る。構わず土を掘ると、そこにはたくさんのジャガイモがなっていた。彼はそのジャガイモを地面の上に置き、カイルの顔に自然と笑みが零れる。


 次に、彼は沢から水を汲んで、山小屋の桶に水を確保。カイルは沢と山小屋を何度も往復し、額に汗を流す。


 やがて、カイルの初めての料理である。ジャガイモを塩だけで湯がいた簡素な料理が完成した。料理の知識はないが、**「これなら食える」**という直感と本能が彼を動かしたのだ。


 彼は、その料理を皿に盛り、リリアの口へ運ぶ。


「どうだ?おいしいか?」とカイル。


 リリアは何も返事を返さないが、焦点の定まらない瞳の奥に、優しい笑顔だけを彼に向けた。


 その表情を見たカイルは、静かにポタポタと涙を流す。彼の**「力」は届いても、「愛」**はまだリリアの心を救えていない。


 彼は、ジャガイモを食べ終えたリリアを介護し、ベッドに寝かせる。スヤスヤと眠るリリアを見届けたあと、彼は静かに山小屋を出た。



 パタリと小屋の扉が静かに閉じられる。



 斧を肩に抱えながら、真剣な面持ちで森の中をゆっくりと歩く。今朝の薪割りでできた手の豆が、斧の柄に擦れて僅かに痛んだが、彼は構わなかった。


「あのジャガイモと塩で食料は何とかなった。だけど、もっと栄養のあるものが必要だな……」と、彼は独り言を呟く。


 地面にはジャガイモの跡だけが残っている。もっと安定して採れる食料、あるいはリリアの心の傷を癒す薬草の類はないものか。


「どこかに、もっと栄養のある食い物はないかな?」


 カイルが呟きながら木の根元を覗き込んだ、その時だった。


 木の影から、突然、ピンク色の毛並みの子猫のような小動物がひょっこりと姿を現した。その毛皮は光沢があり、太陽の光を浴びて淡い桜色に輝いている。


 カイルは、一瞬立ち止まった。この世界には様々な動物がいる。


「君は、ミーキャットかな?」


 彼は、この世界でよく知られている、少し賢い小動物の名を尋ねるように静かに声をかけた。警戒させないように斧をゆっくりと地面に下ろす。


 すると、その子猫大の小動物が、フンと鼻を鳴らした。


「私はミーキャットなんかじゃないわ。失礼しちゃうわね。あんなのと一緒にしないで頂戴」


 澄んだ、しかし少しご機嫌斜めな、少女のような声が、森の静寂に響き渡った。


 カイルは、思わず目を見開いた。斧を持つ手の力が緩む。


「しゃ、喋った!」


 彼は驚きのあまり、目を瞬かせた。この世界では珍しいことではないが、不意を突かれたため、やはり心臓が跳ね上がった。


 ピンク色の小動物は、耳をぴくりと動かし、尾を軽く振った。


「当然でしょう?私はちゃんと知恵のある生き物なんだから。私の名前は**『モモ』**よ。ちゃんと名前があるんだから、そう呼んでよね」


 モモと名乗った小動物は、可愛らしい見た目とは裏腹に、どこか偉そうな口調でカイルを睨みつけた。


 カイルは、すぐに冷静さを取り戻し、目の前の問題に戻る。


「モモ、か。とにかく、俺は今、食料を探してるんだ。この先に何か採れるものはあるか?」


 モモは鼻先をフンと鳴らした。


「ふん。あなたのその斧一本で、この森の奥へ行くつもり?無駄よ。この先に行っても、あなたが今探しているような**『栄養のある食料』**なんて、見つからないわ。一度、山小屋に戻りなさい」


 モモの言葉は、カイルの生存本能を刺激した。


「どうしてだよ?俺は食料が必要なんだ!リリアと、俺たちの命がかかっているんだぞ!」


 カイルが強く反論すると、モモは目を細めた。


「あら、ご立腹?なら、教えてあげるわ。あなたは今、**『生存確率ゼロ』の行動をしようとしているのよ。それは『大数の法則』**から見て、無意味な行動だわ」


 カイルは怪訝な顔をした。


「**だいすうのほうそく?**なんだそれは?」


 モモは、ピンク色の尾を揺らしながら、少し得意げに語り始めた。


「大数の法則とはね、試行回数が多くなると、その結果は確率に近づくという……」


 モモは、複雑な統計的定義をよどみなくカイルに説明し始めた。カイルは眉間に皺を寄せ、難しい用語が次々と飛び出すモモの解説に、完全に置いていかれた。


「わかった?」と、モモは解説を終えて尋ねた。


「全然わからん」


 カイルは正直に首を横に振った。


 モモは小さくため息をつき、苦笑した。


「あら。そう、あなたは子供だったわね。仕方がないわ」


 モモは気を取り直し、子供にもわかるような簡単な例えで「大数の法則」を優しく解説し始めた。


「じゃあ、こう考えてみて。あなたとリリアは今、持っている**『生存のための知恵』が『ゼロに近い』わ。あなたが知っているのは、『切る』か『焼く』**くらいでしょう?」


 カイルはムッとしたが、否定はできなかった。


「この森には、**『食べられるキノコ』と『毒のあるキノコ』**が同じ数だけ生えているとするわ。あなたが『これはいける!』と勘でキノコを採って、もし毒キノコを二回続けて食べたら、あなたとリリアは死んでしまう」


 モモはぴょんと飛び上がり、カイルの肩に乗った。


「あなたの**『勘』に頼って何度も何度も食料探しという試行を繰り返すとするでしょう?そうすれば、統計的には、あなたは必ずどこかで『毒』を引くのよ。なぜなら、あなたが持っている『知恵』の確率はゼロだから。『知恵ゼロ』で生存を試行すれば、最終的に『死』**という結果に収束していく。それが大数の法則よ」


 カイルは、言われていることの半分は理解できなかったが、モモの言葉の持つ**「絶望的な真実」**だけは、彼の胸に重くのしかかった。それは、リリアが病んだ原因と、自分たちのこれまでの失敗を突きつけられているようだった。


「わかった?」とモモが尋ねた。


 カイルは、まだ頭の中でモモの言葉を整理しようとしていた。


「なんとなく……」


 モモはカイルの表情を見て、本当にわかったのかしら、と疑いの目を向けた。


「まあいいわ。とにかく、あなたの**『生存の知恵』**をゼロから脱却させなければ、リリアもあなたも、あと数日でこの森の法則に敗北するわ」


 モモはカイルの肩から降り、山小屋の方向を向いた。


「だから、今は食料を探すのはやめなさい。あなたにはまず、**『知恵』**が必要なの。とにかく、今は山小屋に戻りましょう」


 カイルは斧を握りしめたまま、リリアが待つ山小屋の方角を見た。彼は、モモの**『知恵』**に頼るしかないことを、本能的に理解していた。


「……わかった。戻ろう」


 カイルは、リリアが横たわる山小屋へ、モモと共に静かに歩き始めた。



 ――カイルは、モモと共に山小屋の扉を開けた。暖炉の火は穏やかに燃え、薪の香りが漂っている。


 リリアは、ベッドの上に座っていた。目を開けているが、焦点は定まらず、表情は極めて薄い。カイルが湯がいたジャガイモを食べた時のような、微かな笑顔すら見せない。彼女の心は、再び固く閉ざされているようだった。


 モモは、ピンク色の毛並みを少し逆立てながら、リリアの顔を覗き込んだ。


「これはひどい状況ね。魂が肉体から離れかかっている状態だわ。彼女の心は、絶望のあまり現実世界との接続を拒否しているのよ。このままでは、ただ生きているだけの抜け殻になってしまうわ」


 モモの診断は厳しく、冷静だった。カイルの顔は青ざめる。


「え!じゃあ、どうすればいいんだ。ここは山奥で医者もいない。俺たち二人だけなんだ」


 斧を握るカイルの手が震えた。肉体の力ではどうにもならない事態に、再び無力感が襲いかかる。


 モモは、まっすぐにカイルを見据えた。


「そうね。ここは一度、山を降りて町に戻るべきね」


「……町に?」


 カイルの全身が凍りついた。彼の脳裏に、血と炎の光景がフラッシュバックする。恐怖と憎悪に満ちた魔族の笑い声、そしてルナの叫び声。あの忌まわしい記憶が、彼の心臓を鷲掴みにした。


「だけど、町に戻ると俺たちは……あの魔族が、あの恐ろしい魔族が、町を支配しているんだぞ!リリアを連れて行ったら、今度こそ二人とも殺される!」


 カイルは声を荒げた。それは、生存本能に基づく、絶対的な拒否だった。


 モモは、彼の言葉を冷静に遮った。


「私はただのミーキャットなんかじゃないわ。私の主は、この世界で最も偉大な存在。そう、大賢者よ。私は、その大賢者の使いとして、あなたたちを導くためにここに現れたの」


 モモは、その小さな体躯に似合わぬ威厳を込めて語った。


「町には、私の主である大賢者がいるわ。その方の魔法なら、リリアの閉ざされた心を開き、この鬱を確実に治せる。彼の知識と力は、あなたの知っている全ての治癒魔法を凌駕するわ」


 カイルは唇を噛みしめた。理屈としては理解できる。大賢者の存在は、彼らが窮地から脱する唯一の希望だ。だが、その希望は**「死の恐怖」**と表裏一体だ。


「そんなこと……そんな急に言われて、信用できるわけがないだろう。さっき出会ったばかりの、喋る子猫の言うことなんて……!」


 葛藤の末、カイルはモモから目を逸らした。彼の心は、恐怖と愛の狭間で引き裂かれていた。


「少しだけ考えさせてくれ」


 彼はそう言って、モモの返事を待たずに山小屋の扉を開け、外へ飛び出した。パタン、と扉が静かに閉まる音が響く。


 モモは、窓辺に飛び乗り、外へ視線を向けた。カイルは切り株の前で、斧を振り下ろすことに集中している。**ザク、ザク、**と、無機質な薪の割れる音が、彼の内面の激しい混乱を示していた。


「カイル……」


 モモは、悲しげな表情でカイルの背中を見つめた。彼女の導きが、彼にとって新たな恐怖となっていることに、心を痛めているようだった。


 その時、ふとモモは視線を足元に落とした。床には、リリアが発狂する直前に投げ捨て、そのままになっていたボロボロのノートの束が散乱している。それは、ルナが残した、拙い文字と絵で構成された日記帳だった。


 モモは、そのボロボロのノートを前足で触れた。


「あら、これは——。もしかして!」


 彼女の瞳に、知恵の光が強く灯った。そのノートの正体が、彼らの運命と、人類の運命。そして、この世界そのものの重要な謎の解く鍵となる**『魔法の書』**であることに、モモは気づき始めていた。

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