第七話 無力なる愛と、狂気の遺産
あの夜から三日が経っていた。
山小屋の古木の壁は、激しい雨と風の音で、まるで生き物のように絶えず軋んでいる。小屋の中は、尽きかけの薪が微かに燻る匂いと、カイルの汗と化膿した傷口から発する、耐え難い鉄錆の臭いが充満していた。
リリアは、もはや自分が何時間、何日、このベッドの傍らに座り続けているのかも分からなかった。
ベッドの上では、カイルが高熱にうなされ、唸り続けている。リリアの細い手のひらを握りしめ、「水…水…」と途切れ途切れに呟く。リリアが辛うじて汲んできた冷たい沢の水も、高熱に焼かれるカイルの身体には、まるで焼け石に水だった。
「カイル、しっかりして!お願い、目を覚まして!」
リリアは、びしょ濡れのタオルを彼の額に乗せ続けたが、彼女の腕はもう限界だった。疲労と絶食のせいで、身体の震えが止まらない。彼女の腹が、**「グゥ…」**と、虚しく小さな音を立てた。
リリアは、その音に「ハッ」と息を呑み、カイルに聞かれていないか確認するように彼の顔を覗き込んだ。
(私が……私が、まだ食べ物のことなんて考えている。ルナ様は命を懸けてくれたのに。カイルは私のせいで苦しんでいるのに!)
自己嫌悪が、彼女の心を針で刺す。
リリアは、カイルを救う最後の手段として、わずかに小屋に残されていた食料をチェックした。棚の隅に、カイルが採ってきたキノコと木の実の入った布袋を見つける。
「よかった……これさえあれば、カイルに少しでも栄養を…」
彼女が布袋の口を開けた瞬間、鼻を衝く強烈な異臭が小屋に広がった。
リリアは思わず手を離し、布袋が床に落ちる。中から転がり出たキノコや木の実には、黒いカビがびっしりと生え、見るも無残な状態になっていた。雨と湿気、そしてリリアが看病に気を取られ、火のそばで乾燥させるのを忘れていたのが原因だった。
リリアの顔から血の気が引いた。
(嘘でしょ……私が、私が、唯一の食料を……!)
彼女の脳裏に、カイルが岩場で体を打ち付け、血を流しながら、この小さな成果を差し出したあの光景が蘇る。カイルの痛みを無駄にしたという事実に、リリアは床に膝を突いて泣き叫びたくなった。
リリアは、泣き言をぐっと飲み込み、最後の望みであるカイルの傷口に意識を集中した。
彼女は、僅かな知恵を絞り、腐敗していない葉を潰して貼り付け、雨水で優しく洗い流そうと試みた。だが、素人の処置は、むしろカイルを苦しめる結果となった。
傷口に雨水が触れた瞬間、カイルの身体が激しく痙攣した。
「うあああああ!」
カイルは高熱で意識がないにも関わらず、鋭い叫びを上げた。傷口は、リリアの処置によってかえって悪化し、より赤黒く腫れ上がっているように見える。
リリアは、カイルの悲鳴に両耳を塞いだ。
(違う!私は助けたいの!私はカイルを愛しているのに!)
彼女の献身は、皮肉にも愛する者の苦しみを増幅させた。リリアの脳内で、ルナの幻聴が囁き始める。
「見なさい、リリア。あなたは、愛する者を助けるどころか、苦しめている。あなたは、彼にとって『毒』でしかない。」
リリアは絶望に顔を歪ませながら、最後の力を振り絞って立ち上がった。彼女の瞳は、疲労と絶望によって、最早周囲の現実を正確に捉えられていなかった。
リリアの耳を塞ぐ両手から、力が抜けた。カイルの苦痛の叫びは止まり、再び高熱による苦しいうめき声へと戻ったが、その音はリリアにとって、もはや何の感情も伴わない、ただの**「音」**に変わり果てていた。
彼女の脳内で、幻聴が勝ち誇ったように響く。
「何もかも無駄だった。愛も、命も、誓いも、全てお前の手で壊された。」
リリアは、その場に崩れ落ちそうになる身体を無理やり引きずり、小さな本棚へと向かった。彼女の視線は、ルナが残した知識と知恵の痕跡を探していた。
そして、彼女は**『山での生活術』**の本の隣に挟まれていた、汚い字で「ルナ」と記された、古びたノートを手に取った。
ノートのひんやりとした感触が、一瞬だけ彼女の疲弊した理性を引き戻した。
(これ……この山小屋の、何か記録かもしれない。もしかしたら、食料の隠し場所とかが……)
リリアは震える指先で、数ページをめくった。しかし、そこに記されていたのは、薬草の図鑑でも、火起こしの秘訣でもなく、ルナが幼い頃に書いた、鉛筆の跡も薄い拙い絵と、ひどく読みづらい子供の文字ばかりだった。
リリアは、その内容を見て、はっとして眉をひそめた。
彼女が信じた**「知識」は、頼るべき「英雄の遺産」ではなく、何の役にも立たない「子供の落書き」**でしかなかった。
「…こんなもの……何の役にも立たない」
リリアの最後の希望は、嘲笑うかのように打ち砕かれた。彼女の目に、その稚拙な絵が、まるで自分を指差して笑っているように見えた。
「もういい。もう、何にも頼らない。私には、何もできないんだから」
リリアは、そのノートを何の感情もなく、冷淡にカイルのベッド脇の床へと投げ捨てた。古びた木製の床に、ノートが**「ペシッ」**と、虚しい音を立てて落ちる。
愛する者を救うための知識や知恵への**「最後の期待」**が、ここで完全に断ち切られた。
リリアは、その場に座り込み、**カイルの悪化を恐れて逃げることも、飢えを訴えて動くこともせず、ただ虚ろな目で、雨に濡れた窓の外の暗闇を見つめた。彼女の意識と身体は、もはや「停止」**していた。
カイルのベッド脇で、意識を停止させたリリアの瞳が、突如として大きく見開かれた。彼女の脳内で、幻聴が破裂したように増幅する。
「お前は、カイルを殺す!お前は、ルナの犠牲を嘲笑った!」
リリアは、その責め苦から逃れるために、狂ったように立ち上がった。
「いやああああああ!!!」
喉が張り裂けるような絶叫と共に、リリアは山小屋の古びた扉を乱暴に開け放った。外の激しい風雨が、一気に冷気を伴って室内に吹き込む。
リリアは、履物も気にせず、泥濘の中を走り出した。激しい雨が、彼女の顔の涙と、泥と、油汗をすべて洗い流す。彼女は、ルナの小さな土饅頭の前で、両膝を突いた。
「ルナ様!ルナ様!私、もう頑張れない……!何もできないの……!」
彼女の慟哭は、雷鳴と雨音にかき消された。リリアはそのまま、自らの身体を罰するかのように、冷たい雨に打たれ続けた。その小さな身体が、完全に冷え切り、硬直するまで。
山小屋の内部は暗闇に包まれていた――。
ベッドではカイルがかすかに唸り、リリアは外で雨に打たれ、誰もいない台所の隅。リリアが投げ捨てた、汚い字の「ルナ」のノートがあった。
そのノートが、深夜近く、微かな音もなく、神秘的な青白い光を放ち始めた。
床に丸まっていた子猫のシロが、ゆっくりと頭を上げ、その光をじっと見つめる。シロの丸い瞳には、光の反射だけがあり、まるで**「神の使い」**であることを知るかのように、静かに見守っていた。
ノートは、風もないのに**「パラパラ…」**と音を立てて勝手にページをめくり始めた。光を放つノートに、文字が浮かび上がる。
場面は一瞬にして、温かいオレンジ色の薪ストーブの光に包まれた、過去の同じ山小屋へと変わった。
床には、リリアが諦めたのと同じ太い丸太が転がっている。
少女ルナが、汗だくで斧を振るっているが、丸太はびくともしない。ルナは斧を投げ捨て、泣き顔で英雄の前に膝をついた。
「ごめんなさい、英雄様!私、やっぱりダメです!こんな重い斧、持ち上げることしかできない。薪も割れないし、知恵も足りない!私、英雄様の弟子になる資格なんてないわ!」
ルナは、後の女剣士の片鱗もない、ただの泣きじゃくる少女だった。
英雄は、その小さなルナの頭を、優しく、慈愛に満ちた手で撫でた。
「いいんだ、ルナ。なぜ泣く?」
英雄は、ルナの目の高さに膝をついた。
「よく聞け。ここは、私たち二人しかいない。そして、魔族の手は届かない。だからこそ、ここは、お前が誰にも見られずに**『失敗できる場所』**なんだ」
英雄は、ストーブの火を見つめながら、静かに語りかける。
「力は、訓練すれば得られる。だが、**知恵は、失敗と痛みからしか生まれない。お前は今、大きな失敗をした。だが、その失敗こそが、お前に『薪を割る方法』**を教えてくれるのだ。知恵は、お前の武器になる」
英雄は、ルナにそっと、温かいスープが入ったカップを手渡した。
「そして、この山小屋での生活で、最も大事なことを覚えておけ」
ルナは、涙で濡れた顔を上げ、英雄を見つめた。
「それは、お前が戦うからではない。お前が**『愛する者のために生き抜くという強い意志』**を持っているからだ。生きる意志さえあれば、どんな理不尽も、いつか必ず覆せる。その意志が、お前の最大の力だ。お前は今、生きようとした。それで十分だ」
少女ルナは、英雄の言葉に頷き、泣きながらスープをすすった。
ノートには、ルナの拙い字で、**「今日の失敗は、明日の知恵。英雄様が、私を信じてくれた」**と記されていた。
回想の光景は急激に色を失い、ノートの青白い光が消えた。ノートは、めくられたままのページで、音もなく床に横たわっている。
シロは、再び目を閉じて、静かに丸まった。
そして、山小屋の扉が、ゆっくりと、しかし確実に開く音が響いた。
雨に打たれ、泥まみれになり、まるで魂を失ったかのようなリリアが、ふらつきながら小屋へと戻ってきた。彼女の瞳には、過去の光も、未来の希望も映っていなかった。
山小屋の扉が、ゆっくりと、しかし軋みを上げて開いた。
激しい雨に打たれ、泥と冷気にまみれたリリアが、魂を抜かれたようにトボトボと中へ入ってきた。彼女の動きは、もはや生き物のそれではなく、風に押される木の葉のように、ただ受動的だった。扉は閉まらず、冷たい風と雨粒が床を濡らしている。
リリアは、濡れた身体の冷たさも、飢えの痛みも、もはや感じていなかった。彼女の瞳は、一点を見つめて動かない。その琥珀色の瞳には、小屋の闇も、高熱に苦しむカイルの姿も映っていなかった。
彼女はカイルのベッドの脇まで、数歩でたどり着いた。
その瞬間、彼女の頭の中で、堰を切ったように幻聴が再開した。
**『知恵は失敗からしか生まれない』**という英雄の温かい教訓は、リリアの耳には届かない。代わりに、ルナの厳しい声が、雨音に乗って彼女を嘲笑う。
「見なさい、リリア。お前の無様な失敗だ。お前の手は、何も生み出さない。ただ壊すだけだ」
高熱でうなされるカイルの顔が、リリアの視界の中で血に濡れ、砕けたあの夜の姿へと一瞬歪む。
「どうしてだ、リリア!お前の嘘で、俺はこんな場所で死ぬんだ!」
彼女の脳内のすべてが、**「お前のせいだ」「お前は無価値だ」**という言葉で満たされた。
リリアは、その責め苦のあまり、身体が微かに痙攣し始めた。彼女は、もはや涙を流す力すら残っていなかった。
その代わり、リリアの顔に、ゆっくりと、不自然な笑みが浮かび上がった。
それは、喜びでも、安堵でもない。感情が極限まで飽和し、「正常な反応」を放棄したことによる、狂気の表出だった。
最初に漏れたのは、**「フッ」**という、喉の奥から絞り出すような、乾いた、甲高い音だった。
その音は、すぐに**「ヒヒヒ……」**という、抑揚のない笑いへと変わる。リリアは、虚空を見つめたまま、独り言のように話し始めた。
「アハハハハ……!そうよ、分かったわ。やっと分かったの。私が、すべてを壊したのよ」
彼女の笑い声は、次第に甲高くなり、山小屋の静寂を切り裂く。
「ルナ様も、カイルも、私のせいで苦しんでる!だって私、もう頑張らないんだもの!アハハハハ!」
リリアは、カイルのベッドの上に転がる汚れたタオルを指さした。
「このタオルも!この部屋も!全部、全部、私がいれば、腐って、壊れて、無くなるのよ!アハハハハハハ!」
彼女は、狂気の自嘲の中で、「愛する者を守る」という使命を完全に断ち切った。
リリアは、笑いながらカイルの傍に座り込み、その濡れた身体を毛布でくるむこともしない。彼女の瞳は虚空に固定されたまま、その甲高い笑い声だけが、外の嵐とカイルの苦しいうめき声に混ざり合う。
リリアの意識は、重度の抑うつによる**「虚無」**の闇へと完全に沈んでいった。
山小屋には、狂った少女の笑い声と、激しい嵐の轟音だけが響き渡り、山小屋には、狂気の笑い声と嵐の轟音だけが残された。
――第七話 完――
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