第九話 狂気の聖域(サンクチュアリ)

 山小屋は凍てつく静寂に沈んでいる。微かな暖炉の残り火が、カイルの横顔と、その隣にいるリリアの開かれた瞳を照らす。


 リリアの瞳は、まるで熱に浮かされたように焦点が定まらず、横たわるカイルを見つめている。 彼女は、音を立てずに、その場に留まりながら、まるで修理する職人のように、カイルの身体を衣服の上から執拗に、しかし事務的に触れ始める。その指先が、カイルの首筋、胸元、そして脈打つ手首へと、ゆっくりと移動していく。


 リリアの動きに合わせて、カイルの身体から微かな光の粒子が立ち昇っているかのように、リリアの視覚は歪む。彼女はその光の粒子を、汗ばんだ両手に集め、そしてそれを自分の服の奥深く、最も恥ずかしい場所に押し当てて、埋め込む。


 その行為は、誰にも見せてはいけない、彼女だけの秘密の充足であり、部屋の冷たさとは裏腹に、リリアの体温は異常に高まっている。


(リリアは、夢の余熱を体内に残したまま、ゆっくりと、意識が浮上するように目覚める。彼女の瞼は重く、視界はぼんやりしている。)


 山小屋の冷えた空気の中、リリアは隣に横たわるカイルの寝顔を、ただ見つめ続けた。 カイルの顔色は穏やかで、静かに呼吸している。



 その瞬間、リリアの瞳に一筋の光が宿った。



 彼女は、「彼が生きている」という事実に、子供のような、純粋で絶望的な悲しみを浮かべる。「ああ、カイル…」。その表情は、大惨事以前の、健全で優しいリリアが一瞬だけ戻ってきたかのような、絶妙に悲しい愛に満ちていた。


 だが、その一瞬の正常は、重度の罪悪感という霧に瞬時に飲み込まれる。


 リリアの瞳から光が消え、再びぼんやりと虚ろな視線に戻る。



「あなたは、私だけのもの…」



 彼女の意識は、カイルの回復という現実と、自分が彼を傷つけた罪を統合できず、**夢で見た「支配的な愛」**を現実で試そうとする。


 リリアは静かに身を乗り出し、カイルの柔らかい前髪に、自分の冷たい唇をそっと押し付ける。それは、愛のキスではなく、「私があなたを傷つけた」という罪の刻印を押し付けるかのような、儀式的なキスだ。


 彼女は、キスをしたその場所(カイルの髪)に指を絡ませる。その指先を、今度は自分の口に運び、自分の唾液とカイルの髪の毛を、異様な執着をもって舐めとる。



 この行為で一時的に満たされた**「罪の特権」**の充足は、次の瞬間、自己破壊的な衝動へと転じる。


 リリアの両手が、静かに、ゆっくりとカイルの喉元へと伸びていく。



「私があなたを完全に救うには…」



 彼女の顔は、一瞬、全てを終わらせる決意を秘めた、凄まじい緊張に固まる。この殺意は、カイルを救う(自分の罪を清算する)唯一の方法として、彼女の精神が導き出した歪んだ救済なのだ。


 しかし、指がカイルの首に触れる直前で、その緊張はスーッと霧散する。


 リリアの表情は再び無(む)に帰す。殺意も愛も消え失せ、ただ虚ろで空虚な視線だけが残る。彼女の精神は、**「行動すること」**そのものを拒否した。


 彼女は、伸ばした手をカイルから遠ざけ、静かにベッドから降り、リリアは、音を立てずに窓際の古い椅子に腰かけた。



 窓の外では、全てを見透かすかのように冷たく、しかし静謐な満月が、山奥の小屋に光を投げかけている。



 リリアは、その月をただ、ぼんやりと眺めた。



 彼女の瞳に、もう愛も殺意も罪悪感もない。あるのは、**「何をやっても、私は私を救えない」**という、究極の自己否定の後の、冷たい静寂だけだ。月は、彼女の歪んだ自我行為の、唯一の無言の証人として、そこに浮かんでいるのだった。



 カイルは、山小屋の寝室で、真夜中にふと目を覚ました。周囲は暗く、木々の擦れる音だけが聞こえる。彼のベッドと、少し離れた場所にリリアのベッドがある。


 彼は仰向けになっていた。


 その時、頭上の暗闇に影がかかった。


 カイルが視線を上げると、そこには、リリアが覆いかぶさるようにして、彼を見下ろしていた。


「リリア…?」


 彼女の顔は、町で一番可愛かった頃のまま。心臓がドキリと跳ねた。彼の無意識が、**「可愛い女の子」**としての彼女の魅力を、拒否しきれずに感じ取ってしまう。


 リリアは微笑んだ。その顔が、彼の顔に近づいてくる。


 

「ねぇ。カイル。キスしましょうよ」



 カイルは、すぐに恐怖と責任感に引き戻された。


「だめだ! リリア、離れろ!」


 彼は叫び、彼女を突き放そうとする。だが、リリアは動かない。それどころか、何度も何度も、彼の顔に唇を近づけてくる。その執拗さが、彼を精神的に追い詰める。


「いい加減にしろよ、リリア!」


 カイルは身体を動かそうと全身に力を込めた。しかし、手足はピクリとも動かない。まるで金縛りにかかったようだ。


 リリアが、いたずらっぽい、しかしどこか冷たい笑みを浮かべる。


「ふふ。私の魔法で身動き出来なくしてあげたわ」


 リリアの魔法?彼は、魔物だけでなく、リリアの狂気の前でも、何もできないのだ。


 カイルが恐怖に焦りを感じた瞬間、リリアの表情がおぞましく歪み始めた。


 彼女の微笑みは、鋭い嘲笑に変わり、瞳には光を失った狂気の色が宿る。その可愛らしい顔が、まるで粘土細工のように伸び、歪み、リリアではない何かへと変貌していく。


 リリアは、ものすごい力でカイルの口元を掴んだ。その力は、カイルが知るリリアのものではない。



「あなたが生かし続けるんでしょう? この壊れた私を!」



 声が響く。それはリリアの声でありながら、魔族の理不尽さが混じった、冷たい断罪の声だった。


 リリアの唇が、裂けるように左右に大きく広がり、その奥に見えるのは、白い歯ではなく、血に濡れたような、禍々しい闇。彼女は、カイルの**「愛着の拒否」と「治癒の放棄」**に対する、狂気の復讐者となっていた。


 口裂け女となったリリアが、カイルの顔に迫り、彼の口を、彼の無力な叫びを、完全に塞ごうとする。



 恐怖!



 生きているリリアが、自分を狂気で殺そうとしている!


 カイルの悲鳴は、金縛りのせいで喉の奥に詰まったままだった。



 ドクン!



 カイルは、自分の心臓の音で、真夜中の山小屋で飛び起きた。


 彼は荒い息を繰り返しながら、全身に滲む冷や汗を感じた。



「はぁ…はぁ…」



 夢の中の恐ろしいリリアの顔が網膜に残っている。彼は身を起こし、すぐに隣のベッドを見た。


 そこには、リリアが横向きになり、静かにスヤスヤと眠っている。口元はわずかに緩んでおり、先ほどの悪夢のような光景は微塵もない。


 カイルは安堵のため息を漏らした。


「ああ……夢か……」

 

 しかし、ホッとしたのも束の間、彼の心には、**「リリアを治せないことへの無力感」と、「彼女の精神の狂気に対する根源的な恐怖」**が深く刻み込まれていた。



 リリアは深い静寂の中にいた。空は濃い藍色に染まり、目の前の草原も静かに暗い。血の赤も、喧騒もなく、全てが凍りついたように静かだった。この静寂こそが、彼女の心が作り出した最後の避難所であり、同時に罪を抱える孤独な場所だった。


 彼女はそこに一人立っていた。足元には、かすかに水の流れる音が聞こえるが、どこを探しても水は見当たらない。


 遠くに、ルナが立っていた。彼女は背を向け、動かない。まるでリリアの到達できない過去を象徴しているかのようだった。


 その時、リリアの視界の隅に、ぼんやりとした子どもの姿が現れた。それは、血を流すこともなく、ただ静かに**「寒さ」と「飢え」に苦しんでいる、幼いカイル**の姿だった。


 リリアはカイルに近づこうとするが、一歩踏み出すごとに、彼女の足元の地面が崩れ、ひび割れていく。彼女が動けば、カイルがいる世界が壊れてしまう。彼女の行動は、全てを破滅させるという、最も深い自己否定が具現化されていた。


 リリアは動けなかった。声を出すことも、手を伸ばすこともできない。


 すると、カイルの幻影が、力なく手をリリアの方に伸ばした。その手には、**水も食料もない、純粋な「助けを求める渇望」**だけが宿っていた。


 その渇望の視線が、リリアの胸の奥深くに突き刺さる。ルナの死による罪悪感よりも、**「今、隣にいるカイルを飢えさせる」**という、現実の、即時的な危機が、彼女の無意識を揺さぶった。



 その渇望を、私は満たさなければならない。



 リリアは目覚めた。視界に入った山小屋の天井は暗く、隣でカイルが苦しそうに寝息を立てている。彼女の瞳にはまだ光はない。ただ、「何かしなければ」という、夢で刻まれた、冷たい義務感だけが、微かに残っていた。


 彼女はぼんやりと天井を見つめ、無言のまま動かない。



 ――カイルは、うめき声を上げながら眠っていた。


 彼の夢は、強烈な光と、巨大な影で満ちていた。彼は荒れ果てた大地に立ち、眼前にそびえるのは、以前彼を圧倒した魔物とは比べ物にならない、山のような巨魔だった。


 巨魔は笑うことも、罵ることもない。ただ**純粋な「力」**としてカイルの前に立ちはだかる。


 カイルは叫び、炎の魔法を放つ。しかし、彼の炎は巨魔の皮膚に触れることすらできず、熱を失って消滅する。彼は何度も、何度も、身体が砕け散るほどの衝撃を受けながら、立ち上がっては炎を放つ。


「くそ! なぜ効かない! なぜなんだ!」


 力なく倒れたカイルの上空に、リリアの顔が幻影として浮かび上がった。リリアは、現実と同じ、魂の抜けた無表情な顔で彼を見下ろしている。


 その時、巨魔が重い足を踏み鳴らし、カイルを踏み潰そうと迫ってきた。


 カイルは理解する。この巨魔は、**「リリアを治せない、食料を確保できない、何もできない、絶望的な現実」**そのものの具現化だと。


「リリアッ!」


 カイルは最後の力を振り絞り、倒れたまま巨魔の足元に向かって、砕けた石や木片を掴んで投げつけた。炎ではない。何の威力もない、ただの瓦礫だ。


 彼は気づく。炎は効かない。だが、**「現実的な、具体的な行動」**だけが、わずかに巨魔の足の動きを乱した。


「力じゃない。知恵と、現実の行動だ」


 その一瞬の気づきが、カイルの意識を灼いた。彼は、魔法の力に頼るという幻想を、夢の中で完全に打ち捨てたのだ。



 ドシン!



 巨魔の足が迫る!


 カイルは、真夜中の山小屋で、激しい呼吸と共に飛び起きた。


 彼は全身汗まみれで、心臓はまだ巨魔の足音に呼応するように激しく打っている。隣のリリアは、ぼんやりと虚空を見つめており、彼はその変わり果てた姿に心を痛めながらも、夢で得た**「魔法ではない、現実的な力で生き延びる」**という決意を固め始める。


 山小屋の窓から差し込む朝の光は、前夜の満月の冷たさとは違い、希望を装ったナイフのように鋭かった。カイルは、暖炉の残り火が静かに燻る傍ら、小屋にあった古い麻袋に、残り少ない薬草と保存食を黙々と詰め込んでいた。


 彼の動きは、一分の隙もないほど現実的で、無駄がなかった。昨夜、夢で巨魔という名の絶望を打ち砕いたことで、彼の心から魔法への依存という甘い幻想は消え去っていた。彼の耳に届くのは、モモが語った**「大賢者の治癒」**という、ただ一つの、具体的で現実的な目的だけだった。


「カイル……」


 小さなピンク色の毛玉、モモが悲しげな瞳で見上げてくる。


「このままでは、リリアちゃんは手遅れになってしまうわ。そうなる前に、はやく町に戻って、私の主である大賢者様に会って。彼の治癒魔法ならリリアちゃんの病気は治せるの。」


 モモの声は、冷たい水が石を穿つように、カイルの胸に響いた。


 カイルは返事をせず、麻袋の口を硬く結びつけた。彼の背中は、岩のように固い決意を物語っていた。


「信じられないかも知れないけど、今は私の言葉を信じて。お願い……」


 カイルは初めて顔を上げた。その瞳には、狂気と絶望を知った者だけが宿す、冷徹な光があった。



「わかった。俺はモモを信じる。山を降りよう」



 彼の声は低く、乾いていた。


「町には恐ろしい魔族が俺たちの命を狙ってるけど、ここに居ても仕方がない! リリアを治すという唯一の現実のために、俺は動く」


「カイル――!」モモの顔は、朝焼けのようにぱっと明るい笑顔に戻った。その笑顔は、カイルの心臓に、わずかな、しかし重い救済の義務を刻み込んだ。



 旅支度を終え、カイルはリリアのベッドへ向かった。



 リリアは、ベッドの縁に腰かけ、魂の抜けた人形のように座っていた。その視線は、虚空の、誰もいない一点に向けられたままだ。前夜の背徳的な熱は、すでに冷たい虚無へと変わり、彼女の肌は青白く、まるで夜明けの氷のように見えた。


 カイルは、その変わり果てたリリアの手を掴んだ。リリアの手は、冷たい石のように彼の熱を吸い込んだ。


「行くぞ!」


 カイルは、力強く、しかし優しさを失わないよう声を掛けた。


 リリアの瞳が、ようやくカイルの姿を捉える。彼女の口元が、わずかに、しかし明確に動いた。


「どこへ?」


 その声は、長く放置された古いオルゴールのように、かすれて、無感情だった。


「俺たちの町に戻るんだ。大賢者様のところへ。さあ、行こう。リリア」


 リリアは首を横に振った。その動きはゆっくりとしており、拒絶の意思表示というより、機能の停止に近いものだった。


「嫌よ。私はここでずっと**『あなた』**と二人っきりで暮らしていくの」


「あなた」という言葉だけが、甘く、歪んだ所有欲を帯びて響いた。彼女にとってこの山小屋は、罪と愛が唯一成立する、彼女だけの世界だった。そこから出ることは、彼女の狂気の法則が崩壊することを意味する。


「リリア。これはどうしても必要なんだ」


 カイルは、もはや彼女の感情に訴えかけるのをやめた。彼は、愛ではなく、義務として行動する。


 彼はリリアを優しく抱え上げ、彼女の抵抗を無視して、背中に回した。リリアの身体は、重度の鬱に沈んだ鉛のように重かったが、同時に熱を失った子供のように脆かった。


 カイルは立ち上がった。


 彼の背中には、世界を破滅させた少女の重みと、彼女を治すという途方もない責任が乗っていた。それは、魔法の力では持ち上げられない、現実の、ずっしりとした荷物だった。



 カイルは一歩踏み出した。



 彼らは今、リリアの狂気の世界から、魔族と絶望が待ち受ける現実の世界へと、強制的に旅立つのだった。



――第九話了――

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