第5章 「希望の証明(デモンストラティオ)」 1話
『嘆きの霧』の討伐とそれに伴うアークトゥルス助祭の精神的な負傷。
それらの問題が落ち着くまで私達は3日間レノックスで休養を取った。
『嘆きの霧』と戦闘した日とは変わり、この3日間は晴天に恵まれ軽快な心持ちで過ごすことができた。
本日も天候は晴れ。
私は教会に間借りしている部屋の窓から外を見渡し
ながら、春の暖かさが増しているのを感じる。
レノックスを発ちプエルトゥムに向かう日としては最高の天候かもしれない。
私は大きく伸びをした後、朝食を食べるために食堂へと向かった。
食堂に入ると既にヴィクトール司祭とアークトゥルス助祭が朝食をとっていた。
食堂の扉を開けた瞬間それにいち早く気付いたアークトゥルス助祭と目が合う。
「おはようございます」
私は短く挨拶をした。
助祭は食事している手を止め、ナプキンで口元を拭った。
「おはようございます、カイン様」
もういつも通りの彼女だ。
真面目で規律正しく、表情は無表情にも見えるが以前より少しだけ柔らかくなったようにも見える。
「おはよー」
そして相変わらずの掴み所のない声と話し方のヴィクトール司祭。
食事をする手つきは優雅なものだが、普段の話し方や態度からは聖職者的な雰囲気を感じない。
しかし今はこの空気感が心地よく感じた。
この5日間で随分私達の心の距離が縮まったように思う。
もちろん『嘆きの霧』との戦いを経て信頼関係が構築されたのが一因だとは思うが、それ以上にそれぞれの価値観や生き方を濃い密度で知れたような気がする。
それぞれの価値観の根底に『未来を生きる意志』があり、それぞれの方法でそれを体現しようとしている。
私がずっと感じていた孤独の旅が孤独ではないこと。
道のりは違えど目的地でまた会えるという希望。
その事実が私にとっては堪らなく心地よかった。
私は食堂の奥にある空いた椅子に腰掛ける。
「朝から君の顔を見ると安心するよ、カイン君」
ヴィクトール司祭はそう言って優雅にポタージュを飲み干した。
「レノックスを発つ日に三人で朝食を共にできてよかったです」
「そうだね、この5日間は大変だったけれどドラマチックな5日間だったと思うよ。何よりアークトゥルス助祭が無事でよかった」
「おかげさまで。私の精神的な負傷もこの3日間の静養とカイン様のおかげで完全に癒えました」
アークトゥルス助祭は静かに言った。
「いえ、私は何もしていません。あなたは自分自身で残された希望に気付いたのです」
私は事実を述べた。昨晩の彼女の涙と決意が、何よりも雄弁だったからだ。
「さあ、カイン君も食べたまえ。今日のライ麦パンは特に美味しいよ」
ヴィクトール司祭が話題を切り替えた。
「君たちには旅立ってもらう前に一つ伝えておきたいことがある」
司祭の表情はいつもの飄々としたものに戻っていたが、その瞳の奥にはどこか真面目な光があった。
私はライ麦パンをちぎる手を止め司祭を見る。
「君の師匠シグルド・クライヴについてだ。僕は何世代も前からレノックスにいると言ったが、一昨日古い教会の文献を調べてみた」
彼はポタージュの器を片付け、ナプキンで口元を拭いながら続けた。
「知っての通りクライヴ姓は大陸の北側に多い名前だが、そのルーツは北側の島国に由来する。僕の家系は島国と大陸の貿易をする間に大陸側に定住した分家だと思われる」
「島国ですか?」
「そう、ちなみに僕の条件付きの術式は聖団の術式ではなく、世襲制の術式でこのルーツはおそらく島国にある。文献にシグルド・クライヴという名前は無かったが、北方系の姓に北方系の名を持つ彼がクライヴ氏族の直系、もしくはそれに近い可能性は大いにあるだろう」
司祭はそこで一息入れた。
「君の旅の目的がなんなのかは知らないけれど、もし行く先に困ったなら大陸の北方や、島国を目指してみるとよいかもしれない。」
私は胸の奥で確かな道の指針を与えられたのを感じた。
「ありがとうございます、ヴィクトール司祭」
「いいや。僕も君たちとの出会いで自分の誓いを再確認できた。旅の安全を祈っているよ」
司祭は穏やかに微笑んだ。
「しかしまずは南方へ、眼前の目的を果たさなければなりません」
アークトゥルス助祭が食事を終え口を開いた。
そうだこの旅は『嘆きの霧』を討って終わりではない。
ユーリ・ラプラスからゼノン・プロクルスの著書を取り返すのが目的だ。
そのためにまずプエルトゥムを目指し、そして『沈黙の島(インスーラ・シーレンス)』に向かわなければならない。
「ですが無事に特命を終えたならば北方を目指してみるのも良いかもしれません」
助祭は私を見つめながらそう言った。
まるで特命が終わった後も私達の旅が続くように。
それを聞いて私は思わず表情を緩めてしまった。
「そうですね、その時は北方を目指すのも良いかもしれません」
「ではまずは南方へ、準備が出来次第向かいましょう」
助祭は立ち上がり食器を片付け始める。
それを見てヴィクトール司祭は曖昧な笑みを浮かべていた。
「もう少しゆっくりしてもいいと思わない?」
司祭が小声で話しかけてくる。
「それが彼女の良いところで、悪いところです」
「そっか」
司祭は苦笑いのような表情をしながら立ち上がった。
「南方で用事が済んだら帰りはレノックスに立ち寄るといい。君ら二人なら大歓迎だよ。特命が無事に終わることを願っている」
ヴィクトール司祭はそう言い残し、食器を片付け始めた。
そんな二人の背中を見ながらライ麦パンを口に運んだ。
私は食事を終えた後部屋に戻り、置いていた荷物をまとめる。
黒いローブを羽織り胸元のボタンを留め、旅道具が一式入った鞄を背負う。
部屋を出るとちょうどアークトゥルス助祭も準備ができたようで、階段を降りようとしていた。
私は部屋の扉を閉めて小走りで階段へ向かう。
その足音に気付いた助祭が階段下から振り返っていた。
「最後にもう一度ヴィクトール司祭に挨拶しておきましょう」
彼女はそう言い、執務室の方へ歩いていく。
私は階段を足早に降り、執務室の扉の前でようやく助祭に追い付く。
それを見計らって彼女が扉をノックした。
「どうぞー」
レノックスに来た日のように飄々とした返事が返ってきた。
私達は扉を開けて中に入る。
ヴィクトール司祭はまた何かの資料を読んでいたがすぐに顔を上げた。
「5日間大変お世話になりました。多大なご協力心から感謝申し上げます」
アークトゥルス助祭が深々と頭を下げた。
それを真似て私も頭を下げる。
「やめてくれ、助けてもらったのはこちらも同じだ。僕としてはまだ居てほしいくらいだよ」
ヴィクトール司祭は椅子から立ち上がり私達の前まで歩いてくる。
そしてそっと手を差し出した。
「本当にありがとう。また会えることを楽しみにしているよ」
私達は順に司祭の手を握り固い握手を交わす。
「特命を終えた帰路で必ず立ち寄ります」
私は司祭を見つめながら強く手を握り返した。
「ありがとう」
「では私達は南方へ向かいます。本当にお世話になりました」
私達は最後にもう一度ヴィクトール司祭にお辞儀をして部屋を出た。
執務室の扉をゆっくりと閉めて教会を後にする。
これからはもっと気を引き締めないといけない。
聖団の勢力圏から出てアビスとの遭遇率も高まる。
ユーリ・ラプラスとの物理的な距離も縮まってくる。
だけどレノックスで過ごしたこの5日間は有意義なものだった。
私は左隣を歩くアークトゥルス助祭の横顔を見た。
もうアンフィニを発った時の気まずさも不安もない。
私達ならこの旅を無事に終わらせられる。
私達は確かな信頼と希望を胸にレノックスの城門を抜けた。
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