第十三話 水底のスケッチ
火災から三か月が経った。
夏は過ぎ、福井の空気には秋の気配が混ざっている。
研究室の窓を開けると、外の風が湿った紙の匂いを運んでくる。
廊下の先では学生たちの笑い声がかすかに響いていたが、この部屋の中だけは静まり返っていた。
机の上には、一冊のノートが置かれている。
表紙は煤で黒く、角が焼け落ちていた。
背表紙には白いインクで《水底のスケッチ》と記されている。
その文字は掠れているが、確かに根本ユウヤの筆跡だった。
彼が火災の前日まで書き続けていた記録だ。
私は手袋を外し、そっとノートを開いた。
ページの端には青い染みが無数に広がっていた。
インクではない。
乾いていない絵具だった。
指先で触れると、わずかに冷たい。
それでも、ぬめりはなく、ただ柔らかい。
長く眠っていた水の表面に、初めて指を差し入れるときのような感触。
一行目にはこう書かれていた。
――描くとは、形を戻すこと。
――供養とは、形を見届けること。
その下には、いくつもの断片的な記録が続いていた。
日付は火災の前日で止まっている。
しかし筆跡は途中から変わっていた。
根本のものよりも細く、繊細な文字。
青いインクで書かれ、かすかに光っている。
私は目を細めた。
それは、松島の字に似ていた。
ページをめくると、紙の間から乾いた花弁が一枚落ちた。
褐色に透けた薄い花。
あの「腐肉の花」だろうか。
触れると、花弁の裏から微かな青い粉がこぼれた。
机の上に散ったその粉は、光を吸うように沈黙している。
私は息を殺し、しばらく見入った。
やがて、ページの最後に辿り着く。
――記録は、私一人のものではない。
――風景は、記憶を孕み、いまも呼吸している。
――もしこの文字を読む者がいるなら、どうか見届けてほしい。
――この青が乾くその日まで。
最後の行だけ、インクが滲み、下に薄い輪を作っていた。
まるで水滴が落ちた跡のように。
私はノートを閉じた。
指先が青く染まっている。
しかし、それを拭おうとは思わなかった。
窓の外では、雨が降り始めていた。
屋根を打つ音が柔らかく、遠い海の底から響くようだった。
風に混じって、潮の匂いがした。
私は立ち上がり、窓を少しだけ開けた。
冷たい雨の粒が机の端に落ち、ノートの表紙を濡らした。
その水が青を溶かし、ゆっくりと広がっていく。
「……君は、まだ描いているのかね」
独り言のように呟いた。
返事はない。
ただ、ページの隙間で光が一度だけ揺れた。
私はその光が消えるまで、目を離さなかった。
やがて照明を落とし、部屋を出る。
廊下に出ると、雨の音が遠くなった。
振り返ると、暗闇の中でノートの青が微かに光っている。
それは灯火のようでもあり、あるいは、誰かの呼吸のようでもあった。
私は静かに扉を閉めた。
鍵をかけずに。
彼らの祈りが、まだ続いている気がしたからだ。
「……君は、まだ描いているのかね」
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