第十二話 遺された絵具

 火災から一週間が過ぎた。

 街は平常を取り戻し、新聞の片隅に載っていた「廃美術館火災」の記事も、もう誰も話題にしない。

 死者はなし。原因不明。出火は深夜三時。

 それだけの記述だった。

 けれど私は、その小さな記事の中に、すべてを見た気がした。

 “死者はなし”――それは、誰も“生きていなかった”という意味にも聞こえた。


 三度教授の研究室を訪ねると、いつもより静かだった。

 窓辺に差し込む午後の光が、書棚の埃を照らしている。

 教授は机の上に一つの木箱を置き、私を見た。

 「根本君、これは君に渡しておこうと思う」

 木箱は小さく、両手で持てるほどの大きさだった。

 古い漆の箱で、蓋には淡い金色の線が走っている。

 私はそれを受け取った。

 重い。中に石でも入っているようだった。


 「開けてみなさい」

 教授の声は静かだった。

 私は慎重に蓋を開けた。


 中には、乾いた絵具のチューブがいくつも入っていた。

 赤、白、黄、そして青。

 ほとんどが硬化していたが、一つだけ――青のチューブの口だけがわずかに湿っていた。

 私は息を呑んだ。

 その青は、見慣れた色だった。

 松島が使っていた、あの絵具の色。

 けれど、微かに光っている。

 光は呼吸のように明滅し、箱の内側を染めていた。


 「彼女の遺品だ」

 教授は言った。

 「焼け跡の中で見つかった。スケッチの近くに落ちていたらしい。

  警察が調べたが、発火物ではなかった。……だが、私は別の意味で“発している”と思っている」

 「発している?」

 「そう。絵具というのは本来、物質的なものだ。だが、これは“作用”を持っている。

  おそらく、あの“腐肉の花”を媒介にしているのだろう。

  花が持つ分解の力と、絵具の定着の力――それが同時に存在している」


 私は青のチューブを指で触れた。

 冷たい。

 だが、次の瞬間、指先の皮膚が熱を帯びた。

 箱の中で光が強くなり、青が微かに波打った。

 私は慌てて手を引いた。

 教授は微笑んだような表情で頷いた。

 「そうだ、それが彼女の“色”だ。彼女が見ていた世界の温度だ」


 私は息を整え、聞いた。

 「先生、これは……どうすればいいんですか?」

 教授は少し考えてから、ゆっくりと言った。

 「保ちなさい。乾かないように」

 「乾かないように?」

「乾かせば、供養は終わる。……それはつまり、彼女が“ここ”からいなくなるということだ」

 教授の言葉の意味がすぐには理解できなかった。

 けれど、その言葉の奥に、かすかな哀しみがあった。


 私は箱を胸に抱えて帰った。

 電車の振動に合わせて、箱の中のチューブがかすかに音を立てる。

 まるで中で何かが眠っているようだった。

 駅を降りると、風が湿っていた。

 雨は降っていないのに、空気が水を含んでいる。

 手の青い染みが再び光を帯び、箱の方へ引き寄せられるような感覚があった。


 部屋に戻り、机の上に箱を置く。

 静かに蓋を開けた。

 チューブの青が、わずかに膨らんでいる。

 光が広がり、部屋の壁に反射した。

 光の輪の中で、私は一瞬だけ幻を見た。

 白い手――松島の指先。

 その手がゆっくりと絵具を伸ばすように動く。

 声はない。

 ただ、空気が震えた。


 私はノートを開き、記録を書いた。


 ――三度教授より木箱を受領。中に青の絵具。

 ――温度に反応し、発光。呼吸するような明滅。

 ――松島が使用していたものと一致。

 ――“保て”との指示。

 ――供養を終えるな、との意味。


 ペンの先が震えた。

 ページの端に、無意識に一行を足した。


 ――描かねばならないのかもしれない。


 書いた瞬間、部屋の空気が動いた。

 風もないのに、カーテンが膨らんだ。

 机の上の箱がわずかに傾く。

 チューブの口から、青い光が溢れ出す。

 私は立ち上がり、息を飲んだ。

 光が床に落ち、ゆっくりと広がっていく。

 水のように流れ、形を作る。

 その形は、誰かの背中に見えた。


 松島。


 声にならない声が喉の奥で震えた。

 背中はゆっくりとこちらを振り向こうとする。

 だが、振り向く寸前で光が崩れた。

 床の上には、ただ青い絵具の跡だけが残った。

 それはまるで、波が引いた後の砂浜の模様のようだった。


 私は膝をつき、青の跡に手を当てた。

 冷たくも温かくもない。

 ただ“そこにいる”という温度だった。

 涙が自然にこぼれた。

 泣いている自分に気づいても、止めようとは思わなかった。

 泣くこと自体が供養の一部のように思えた。


 ノートを開き、最後に一行を書いた。


 ――彼女の色は、まだ乾いていない。


 窓の外では、夕立の雨が降り始めていた。

 その音は、遠い海の底から響くようだった。

 私はその音を聞きながら、そっと箱の蓋を閉じた。

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