洞窟の亡者①
洞窟の奥深く。
ひんやりとした石壁が湿った空気を押し返し、天井からは静かに水滴が落ちる音が響いていた。
その音すらも沈黙を保つこの空間に、突然、場違いな笑い声が木霊する。
天然の岩を穿ってできた広間。
その中心には、無造作に積まれた木箱や酒樽が乱雑に並び、使い古された布の敷物が石の床に広がっていた。
その一角で、くすぶるように燃える小さな焚き火がオレンジの火花を揺らめかせ、暗い闇の一端だけを辛うじて照らしている。
焚き火の周囲を囲んでいたのは、十二の影。
「ぎゃははっ。笑えるぜっ!」
火の明滅に照らされながら、そのうちの十体が酒瓶を片手に下卑た笑いを交わしていた。
男たちの笑い声は、長年の悪行と欲にまみれた空気を纏い、洞窟の壁に不快な残響を残す。
笑いの中には、良心のかけらすらなかった。
その足元には、地面に押しつけられるように座らされた、二人の女の姿があった。
かつては人としての尊厳を持っていただろうその姿は、今や痩せ細り、肌は土と血に汚れ、衣は擦り切れたボロに変わり果てている。
足の腱は容赦なく切断されており、彼女たちは、もはや立ち上がることすらできない。
虚ろな瞳は焦点を失い、感情の一切が抜け落ちた人形のようだった。
だが、その惨状すら、盗賊たちの眼には映らない。
焚き火の前に陣取る男が、下品に口を開いた。
その声に、他の者たちがゲラゲラと笑いながら酒を煽る。
食い散らかされた干し肉とパンが汚れた皿の上に放置され、吐き捨てられた骨が床に転がる。
ここでは、善も、光も、正義も存在しない。
あるのは、ただ己の欲望に忠実な、獣よりも醜悪な人間たちだけだった。
焚き火の橙が、ねじれた影を壁に描いていた。
石と土に閉ざされたこの天然の岩窟。そこに漂う空気は澱み、腐臭と煙が絡み合って鼻を刺す。
今、その中心に立つのはアーノルドだった。
身長は190センチを優に超え、全身を筋肉で固めた巨体。
くすんだ栗色の髪をオールバックに撫でつけ、無精ひげを残した口元には、葉巻にも似た巻き煙草がくわえられている。
鋭く細められた目は、周囲を見渡すでもなく、常に上からすべてを見下ろしているようだった。
圧倒的な威圧感が、その存在から自然と滲み出ていた。
その隣に控えるのは、ジング。
180センチの灰色の体躯。目元は獣のように鋭く、その顔には二本の縦線が斜めに走る、刺青が刻まれていた。
粗野で粗暴な言動の裏に、理知的で鋭利な判断力を隠し持つ男。アーノルドの片腕として、忠実に仕えている。
焚き火を挟んで向かい側では、バーリーが豪快に笑っていた。
二メートル近い肉塊のごとき男。
薄汚れた金髪を背に流し、分厚い手で地面にうずくまる女の髪を乱暴に掴んで引き上げる。
「ケッ、壊れちまったら使いもんになんねーぞ」
吐き捨てるように言うその声に、誰も反応しない。
女の目はすでに虚ろで、生気という概念そのものが抜け落ちていた。
この場には、もはや感情というものが存在していなかった。
その傍らでは、ダッチが静かに佇んでいる。
紫色の毒々しい長髪、白く整えられた顔立ちには、不気味なほど穏やかな笑みが浮かんでいた。
黙々と吹き矢の手入れを続けるその姿には、奇妙な静けさと狂気が同居していた。
焚き火の陰では、ローソンが痩せ細った体を火にかざし、にやついた顔をひたすら揺らしていた。
ギョロリとした白目を女に向け、小さなダガーを指先で器用に転がしている。
「まったく、おしゃべりすらしねぇとは退屈だな。なあ、お前もそう思うだろ?」
その問いに答えることなく、酒を煽ったのはピックJ。
顔の半分を無骨な鉄製の仮面で覆い、重そうな斧と楯を傍らに置いている。
口を開くことは滅多にないが、その沈黙の奥には、常に何かを噛み殺すような暴力が潜んでいた。
火の向こうでは、ロバートが炎をじっと見つめながら笑みを浮かべていた。
焦げたマントの裾を指先で撫でながら、火炎瓶を点検している手元には、一切の躊躇がなかった。
「いい火だ。もっと…赤く、燃えるといい」
その隣にはマッドがいた。
白金の長髪を肩に垂らし、優雅な所作で扇子を広げる。
顔の下半分を仮面で隠し、その奥の目はいつも笑っていたが、誰もその本心を読み取ることはできなかった。
広げた扇の内側に、鋭い刃がきらりと光る。
洞窟の壁際では、ジョーソンが肩幅をさらに広く見せるように立ち、鉄球を無言で振っていた。
銀青の髪を短く刈り上げたその頭に、鋭利な三白眼が宿る。
言葉を発することなく、ただ洞窟の岩に鉄球を叩きつけ、微細な亀裂が広がっていく様を楽しんでいた。
そして最後に、焚き火の向こうで女たちに指を這わせるのはビリー。
ピンクがかった紅色のウェーブがかかった髪。
中性的な顔立ちに、濃い化粧と深紅の口紅が妖艶さを際立たせる。
その指先が女の頬を撫でるたび、「うふん。ブス」と囁くその声は、妙に甘く、粘りついた媚を含んでいた。
この岩窟は、もはや地獄そのものだった。
命を奪う以上に、心を殺すための空間。
ここでは、何一つ、救いはない。
だが、その地獄の静寂を破るように洞窟の奥、闇に覆われた通路から、乾いた足音が響き始めた。
無造作に刻まれた石の床を、急ぎ足で踏み鳴らすその音は、焚き火の爆ぜる音さえ一瞬かき消す。
間もなく姿を見せたのは、連絡係のひとり。
まだ若い男で、顔には煤と汗が混じり、胸を大きく上下させながら駆け込んでくる。
その顔には恐れと興奮が入り混じっていた。
「……し、失礼します、アーノルド様。新しい獲物が…4人。うち2人は…上物ですっ!」
焚き火を背に、アーノルドがゆるりと目を細めた。
くわえた煙草の先がわずかに揺れる。
彼は立ち上がることなく、火の向こうから低く問うた。
「どんなのだ……?」
息を整えきれぬまま、男は応じる。
「女が二人。ひとりは見たことのない黒髪の女、もうひとりはプラチナブロンド。どちらも……かなりの逸品かと…」
焚き火の炎が、アーノルドの目に淡く反射した。
その顔に、わずかに歪んだ笑みが浮かぶ。
「……残りは?」
「男1人と獣が一体。何やら異形の風体をしていて……少し、不気味でしたが…」
男の言葉に、洞窟内の空気が一瞬だけ緊張に包まれる。
それでもアーノルドは落ち着き払っていた。
くわえていた煙草が揺れ、口元からわずかな煙が立ち昇る。
そして、ゆっくりと彼は立ち上がった。
その動作には、何のためらいも、焦りもない。
まるで、次に始まる作業を日常の延長として受け止めているかのようだった。
焚き火を見下ろしながら、低く、だが確実に命じる。
「仕事だ。…準備しろ」
「へいっ!!」
その一言を皮切りに、周囲が一斉に動き出す。
まるで歯車が噛み合った機械のように。
鎖が軋み、鋼鉄の武器が鞘から引き抜かれる甲高い音が、洞窟の内部に次々と反響していく。
バーリーが肩を鳴らし、ダッチは笑みを深くして吹き矢を背負う。
ピックJが仮面の奥でわずかに息を吐き、ジョーソンの鉄球が地を這うように唸る。
ビリーは血のように紅い口紅を塗り直し、ローソンは舌なめずりをした。
焚き火の炎が大きく揺れた。
炎が踊り、闇が蠢く。
その光と影が入り乱れる中で、十人の盗賊が、静かに、しかし確実に狩りの準備を整えていく。
――ここから、もうひとつの地獄が始まろうとしていた。
この先に待つのがただの獲物か、それとも――
己らにとって、想定外の˝混沌˝であるかも知らずに。
―――
静寂が支配する街道に、四つの影が静かに歩を進めていた。
昼下がりの陽光が、まだ優しげに森の天蓋を照らし出している。
無数の枝葉の隙間から降り注ぐ光は、道の両脇に広がる苔と草をまだら模様に染め上げ、まるで絨毯に織り込まれた光の刺繍のようだった。
遠くから聞こえる小鳥のさえずり。
風にそよぐ木々のざわめき。
涼やかな風が森の奥から吹き抜け、草を撫で、葉を揺らしては、旅人たちの訪れを静かに歓迎する。
そんな幻想的な森の中を、まるで異界からの来訪者のように歩く一団。
その先頭を歩くのは、この世界には見慣れぬ顔立ちの、浅黒い肌の青年。
漆黒の瞳は、どこか人ならざる気配を帯びた異形の者――クトゥルだった。
その足取りは軽やかで、どこか得意げな雰囲気さえ漂わせている。
肩の力が抜けたようなリズムに、内なる高揚がにじむ。
「(なんだこの道……めちゃくちゃ気持ちいい……マジで冒険してるって感じ……!)」
心の中では喜びがはじけるように満ちていたが、表情には一切それを浮かべない。
あくまで、全能なる邪神としての威厳を崩すことなく、悠然と、神秘を湛えた佇まいで歩いていた。
その隣を歩くのは、真祖の吸血鬼――エリザベート。
彼女の体には、血と闇と気高さが宿っていた。
深紅と漆黒が交錯するローブを身にまとい、長く流れる黒髪が風にふわりと舞う。
金髪の毛先は、日差しを浴び輝き、彼女の肌は雪のように透き通り、木漏れ日の光が柔らかに降り注ぐたびに、その頬や額を儚く照らしていた。
彼女の視線は、ぴったりとクトゥルに向けられていた。
目元は凛として静かだったが、瞳の奥には抗いがたい熱が宿っている。
それは崇拝であり、恋慕であり、破滅さえ甘美に思える陶酔――
『……クトゥル様…』
…と声には出さずとも、彼女の瞳はそう語っていた。
エリザベートの横を歩くのは、ルドラヴェール。本来は、虎のような獰猛な肉食獣の外見なのだが、目立つことを避けるため、現在は大型の猫へと周りに認識させていた。
クトゥルたちのやや後ろから神の意志から背を向け、忌まわしき烙印をその身に刻んだ元背信者――ティファーが、鋭い視線を森の奥へと向けていた。
プラチナブロンドの髪が、そよ風にたなびくたび、陽光を受けて柔らかく光を弾く。
その青い瞳は鋭く研がれた刃のように冷たく、僅かな違和感も見逃すまいと周囲を見回していた。
「ン…? ドウシタノダ。ティファー」
ルドラヴェールがゆるりと尻尾を揺らしながら問いかけた。
緑色の瞳がティファーをじっと見つめる。
その声音には警戒というより、純粋な興味と仲間を気遣う響きがあった。
ティファーは一瞬、口を開きかけたが、そのまま言葉を呑み込む。
視線を彷徨わせ、思い悩むように唇を噛むと、小さくかぶりを振った。
「実は――いえ、何でもありません…」
だが、ルドラヴェールはその様子を見逃さない。鋭敏な本能が、彼女の胸中にある引っかかりを察していた。
「何ダ。気二ナルダロウ…話セ。」
彼の声音は、いつになく真剣だった。冗談や軽口の余地を挟ませない圧が、ティファーの背筋を正させる。
しばしの沈黙の後、ティファーはためらいがちに口を開いた。
「…なんだか、怪しかったですよね…。あの村人の態度…どう見ても隠し事をしてたような気がしてました。…もしかしたら…罠かも…?」
ティファ―の声には、明確な不安と疑念が込められていた。
目を伏せ、眉を寄せながら話す彼女の姿は、ただの直感にとどまらぬ確信めいたものを感じさせる。
「(やば……ティファーってば、めっちゃ警戒してるじゃん……ていうか、正直ちょっと不安だ!?)」
数刻前に小さい村に立ち寄ってクトゥルたち。
そこで、目的地の近道という、このルートを教えて貰ったのだ。
しかし、ティファーの訴えに対し、前を歩く者たちはまるで気にも留める様子を見せない。
前を行くエリザベートが、わずかに肩をすくめ、紅と黒のローブの裾を揺らす。
顔を森の奥に向けたまま、冷たく、けれどどこか楽しむような声音で言った。
「こんな道に何の罠があるっていうのよ。まぁ、仮にあったとしても、ね…?」
その言葉の裏には、自信と傲慢、そして血に飢えた者特有の余裕があった。
彼女のすぐ後ろでは、ルドラヴェールが、しなやかに歩を進めていた。
その肉厚の四肢が地面を踏むたび、落ち葉がふわりと舞い、わずかに湿った土の匂いが鼻をくすぐる。
深紅の毛並みは夕陽に映えるように艶やかで、その全身に走る黒い縞模様はまるで呪印のように妖しく蠢いていた。
エメラルドグリーンの双眸が、ちらりと森の奥を見やり、不敵に光る。
「アァ、…小賢シイ罠ナド、塵ニ等シイ…ソレ二、俺タチニハ、クトゥル様ガイル…。」
地を震わせるような低音が、獣の喉奥から漏れる。
それは言葉でありながら、咆哮にも似た威圧の響きを含んでいた。
その言葉に、エリザベートは思わずくすりと笑った。
楽しげに、だが冷たく。そして一瞬たりとも歩みを止めることはなかった。
ティファーは無意識のうちに、小さく息を吐いた。
その吐息は風に溶け、誰の耳にも届くことはない。
けれど彼女自身は、その緩みをすぐに恥じたかのように背筋を伸ばすし、クトゥルに向き直る。
「確かに…その通りですねっ」
声は強く、しかし敬意に満ちていた。
両手を胸元に添え、儀礼のように深く頭を下げる姿は、まさに忠義に殉じる者のそれである。
その光景に、クトゥル――異界の邪神とエリザベートたちから呼ばれている青年、実際にはただの中二病高校生だった彼は、冷や汗を背中に感じつつも、顔には一切の動揺を見せなかった。
「(俺居ても役にたたないしっ…でもここでビビってたら邪神の名が泣く……!)」
表情を保つのに精一杯だったが、それでも威厳を崩さぬよう、声を低く響かせる。
「ふっ……その通り…。我が名のもとにある限り、どんな罠も意味をなさぬ。」
堂々とした口調と仕草。まるでそれが当然であるかのように、クトゥルは闇を纏う存在として言葉を紡いだ。
「さすが……クトゥル様……!」
エリザベートたちの瞳が一瞬で輝きを帯びる。
その敬意は一層深く、まるで信仰の域にまで達しようとしていた。
静かな森の道を進み続ける中、やがて前方の木々が緩やかに開け、異様な風景が彼らの前に姿を現した。
木々の壁の間に、ぽっかりと空いた裂け目のようなものがあった。
自然の景観の中に、まるで異質な存在がぽつりと取り残されたように。
そこには黒々とした洞窟の入り口が、荒々しい岩肌を口のように裂いて広がっていた。
洞窟の中からは、ひんやりとした空気が絶えず吹き出し、周囲の空気と混じり合う。
その風には、どこか鉄と血の匂いが混ざっており、森の清浄な気配とは対照的な異臭を放っていた。
「クトゥル様っ。見てください。あれが……村人が言っていた洞窟でしょうか……?」
ティファーが一歩前へ出る。
表情は緊張に引き締まり、視線は岩の口から離れない。
その瞳には、まるで奈落の奥を覗くかのような鋭い警戒が宿っていた。
クトゥルもまた、視線をゆっくりと上げ、その裂け目を見上げる。
中からは何の音もしない。
ただただ、静寂と冷気が、彼らを迎えようとしていた。
「(うおぉぉお……これ、絶対なんか出てくるヤツだぁぁぁ……っ! でも、こう言うのこそ冒険だよなっ!?くぅっ…やばいテンション上がる!)うむ。あれが、我らが進むべき闇の入口であろう…」
それっぽく即興で名付けた言葉を堂々と口にし、クトゥルはまるで導かれるように洞窟の方へ歩を進める。
その背筋は伸び、周囲には確かな威圧感を纏っていた――少なくとも、そう見えた。
「ふふ……面白くなってきたわね。何が出てくるのか、楽しみにしてあげる」
エリザベートが妖艶な笑みを浮かべ、ローブの裾を揺らしてついていく。
「ナニガ出テモ……俺ハ敵ヲ倒スマデ……」
ルドラヴェールが地を踏みしめるたび、大地がわずかに震えた。
その巨体から放たれる威圧と、低く響く声が、洞窟の闇に向けて静かに投げられる。
「クトゥル様、足元お気をつけて……っ」
ティファーは慌てたように声をかけ、わずかに早足で彼の傍に寄る。
「ククク…(宝物とかあるかな…?)」
それぞれが異なる思いを胸に、四人の影は闇の口へと飲み込まれていった。
だが――
彼らはまだ知らなかった。
その先で、地の底に渦巻く本物の悪意が、すでに牙を研ぎ、彼らの到来を待ち構えていることを――。
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