混沌の奇跡
――アハル。
かつて、南北を結ぶ交易の要として名を馳せたが、いまや風に流れる砂の囁きにしか残っていない。
この地は元々、広大な渓谷の中腹に築かれた石の町だった。
天然の断崖と橋が幾重にも交差する独特の地形は、外敵の侵入を拒み、同時に東西南北の交易路をつなぐ絶好の要所だったという。
露店が軒を連ね、キャラバンの列が絶えず、神殿の鐘は日々高らかに鳴り響いていた。
だが今、アハルに新しく足を踏み入れる者はいない。
土が軋み、石が呻く。
ここは今や、「沈みゆく神の道」とささやかれる、滅びの町。
大地は数度にわたる地殻の変動によって軟化し、町の半分は谷へと沈んだ。
その衝撃で地盤は崩れ、かつて栄華を誇った石造りの町。
町並みは軒並み倒壊。
最も高くそびえていたはずの神殿の屋根は落ち、
神を祀った祭壇の像は、腰から真っ二つに折れたまま、今も瓦礫の中で空を仰いでいる。
断崖を渡るはずだった橋は、片方の柱がすでに倒壊しており、今では何もかもが風に晒されたままだ。
蔦と草だけが静かに侵食し、かつての街路を緑で埋めつくしていく。
町の中心には、大地が裂けかけたような巨大なひび割れが走っていた。
それを囲むように立つ老人たちの顔には、絶望の色しかない。
「……この町も、もう終わりじゃ……」
「神殿も崩れ、地の裂け目も広がる一方……」
「神は、我らを見捨てたのじゃよ……」
乾いた風が吹き、瓦礫がカラカラと転がる音だけが響いていた。
神殿の立っていた町の鐘楼も、斜めに傾きながら辛うじてその姿を留めているが、もはや鐘を鳴らす者はおらず、その沈黙こそが、この地の終わりを告げていた。
その時だった――。
――ゴゴゴゴォォォンン……ッ!!!
大地を引き裂くような轟音が、山々を越えて広がった。
空気を震わせるその音は、まるで天空からの咆哮のように、アハルの町を包み込む。
地の底から呻くように、谷の地盤がズズンと大きく沈み込み、連鎖するように岩壁が砕け、崩れ落ちる音が反響した。
激震。
それは稲妻のような一撃ではなく、重く、長く、大地を噛み砕くように響く――。
家々が揺れ、天井が軋み、壁が軋む。
突き上げるような地のうねりに耐えきれず、住人たちは戸口から飛び出すように外へと逃げ出していた。
足をもつれさせながら、彼らは町の広場に集まる。
誰もが蒼白な顔で、目の前の現実を信じきれずにいた。
「ほ、本当にっ…この町の終わりなのかっ」
年老いた男が震える声で呟いた。
その傍らで、若い女が両手を組み、天を仰ぎながら言葉を吐く。
「こ、これは…神の天罰なんじゃっ――…」
恐怖に塗り潰された人々の視線の先、谷底に生じた巨大な亀裂は、まるで地獄の口のように開ききっていた――
だが、その裂け目は、音もなく、信じられない速度で元に戻り始める。
まるで、地が呼吸するように、深い傷を癒すかのように。
「な、なんじゃあっ…今の音は……!?」
「うおおおっ……!何だ…この、揺れっ……と、止まった……!?」
「裂け目が……消えた!? 嘘だろっ…!?」
「っ…い、いったい…な、何がっ、何が起こっておるっ!」
その場の誰もが混乱と恐怖の中にいた。
現実感を失い、言葉すらままならない。
だが次の瞬間――誰かの叫び声が、空気を裂いた。
「っ…み、皆…あ、あれろっ…見ろっ」
震える指が指し示すその先。
揺れの直後に生じた土煙が風に流れ、徐々に晴れていく。
木々の間から現れた者たち。
先頭には、浅黒い肌に黒い髪と服。見慣れない顔立ちの不思議な男――。
その後ろに控えるのは、黒髪に赤黒いローブを羽織る女、赤い体毛に黒い縞模様の獣、鋭い眼光に鎧を着る女剣士だった。
「ん…?」
黒髪の男は首を傾げていた。
―――
地響きが、村を震わせる数分前のこと――。
村から西へ五百歩ほど進んだ先の林道にて起こっていた。
そこは木々がうっ蒼と生い茂り、陽の光も細くこぼれる静かな場所だった。
風が枝葉を揺らし、小鳥たちのさえずりが微かに響く中、場違いな存在がその道を歩いていた。
「ふぅむ……」
揺れる手をだらりと下げながら、異様な姿の男――否、禍々しき異形の邪神は、気だるげに空を仰いでいた。
彼の名前はクトゥル。
かつての世界では、ただの高校生。中二病をこじらせた青年だったが、今や異世界に転生し、他称「混沌を統べる邪神」としてこの地をさまよっている。
現在の彼は、スキル˝トリックスター˝を使い、前世の人間の姿に擬態していた。
服装は、学生時代の学ランの普通の姿だが実態は違う。
彼の本来の姿は、常識では理解し難い異形。
赤黒く染まった肌に覆われた身体、無数の禍々しい赤い眼がその全身に散在し、長い腕にかぎづめのように長い指。
見る者すべてが怯えるような恐怖を宿した存在だった。
その異様な外見がゆえに、多くの者が彼を「災厄」や「邪神」と恐れることになる――のだが――。
「(あぁ~……ヒマだ……)」
彼の内面は、転生してなお根本的に変わらぬ、ただの退屈を持て余した中二病男子だった。
森の中を歩くたびに、小動物たちはその気配に敏感に反応し、さっと木々の陰へと隠れていった。
まるで、森そのものが彼の存在を恐れて沈黙しているような錯覚すら与える――しかし、当の本人はそんな状況すら気づいていない。
「(この先に温泉でもあれば、ちょっとは気が紛れるんだが……。あと、飯。甘いの…あ、味ないから意味ないわ…)」
彼の思考は、実に凡庸であり、実に平和的であり、そして、限りなく俗物的だった。
クトゥルは、歩を進めながら、時折ちらりと後方へと視線を投げた。
彼の背後には、まるで従者のようにぴたりと付き従う三つの影――
それは、人間の常識から外れた異質な存在たちだった。
「…」
最初に目に映るのは、一際異彩を放つ女性。
足首まで流れる、闇よりも濃い漆黒の髪。その髪の隙間からのぞく双眼は、まるで凝縮された血のように赤く、光を捉えて妖しく輝いていた。
真祖と呼ばれる高位の吸血鬼――エリザベート。
無駄な動き一つなく、滑るような足取りでクトゥルのすぐ後ろをついてくる姿は、気品と同時に、得体の知れない静かな狂気をまとっていた。
「グル…」
その隣には、獣の姿。
筋肉質でしなやかな肢体を持ち、赤い毛並みに稲妻のような黒の縞模様が走る魔獣ティグリス・グラディウス――名をルドラヴェール。
サーベルタイガーを彷彿とさせる堂々とした巨体に、理知的な光を宿すエメラルドグリーンの瞳。
一見すれば獰猛で野性的な印象を与えるが、その眼差しは常にクトゥルを見つめ、忠誠と畏怖を込めた静かな熱を帯びていた。
「あ…あの小鳥…可愛いなぁ…」
そして、最後にもう一人。
前髪をヘアバンドで整え、プラチナブロンドの髪を高く結い上げたポニーテールの女性――ティファー。
かつて背信者として活動をしていた彼女は、今やその過去を塗り替えるかのように、クトゥル教に信仰に縋る者となっていた。
サファイアのように輝く瞳には、救済を求める者の渇きと、それを与える邪神への盲目的な信頼が渦巻いている。
この三者――否、二人と一頭は、共通してある一点において誤解していた。
彼らは、クトゥルを真なる邪神、混沌の化身、理の外に存在する神格と勘違いしていたのだ。
だが実際のところ、クトゥルはそれらしい姿をしただけの異形に過ぎない。
その能力といえば、『トリックスター』よる姿の擬態、そして音を創り出すだけの無害なスキル――『サウンドクリエイト――別名オール・オブ・ラグナロク』程度。
派手な見た目と雰囲気だけで最強と錯覚させているに過ぎず、内実は――最弱。
ならば、いっそ真実を告げてしまえばいいのではないか、と誰かが思うかもしれない。
――だが、それができない。
なぜなら、彼の後ろを歩く三つの影は、信仰を超えて狂気に踏み込んだ狂信者だったからだ。
もし彼らが、クトゥルが無力な存在だと知ったとき、何が起こるのか――その想像すら、クトゥルには恐怖でしかなかった。
だからこそ、彼は堂々と黙って歩く。
虚飾に身を包み、威厳ある邪神の仮面をかぶったまま、信者たちを従えて前だけを見据える。
彼の背に浴びせられるのは、絶対の崇拝。
その重みが、今日もクトゥルの背を押しつぶそうとしていた。
そんな混乱の裏で、一行の先頭を歩いていたクトゥルは、ふと何かを思いついたように虚空を見上げた。
彼の表情は、どこか気だるげで、それでいてほんのわずかに楽しげな色を帯びている。
「(暇だしサウンド・クリエイトでの音のバリエーション増やしてみるか…えっと…地響きに、キラキラと神聖な音をイメージして…あの町に慣らしてみるかっ。崩れてるし…きっと廃墟だろっ)」
眼前に広がるのは、岩肌が露出し、瓦礫が散らばる石造りの町――彼には、完全に人の気配のない、荒廃した廃墟にしか見えなかった。
だからこそ、軽い気持ちで――いや、むしろ中二病のノリで――そのスキルを発動したのだ。
『オール・オブ・ラグナロク』
その瞬間、空気が震えた。
地を這うような重低音が空間を引き裂き、次いで、空からパァーンと鳴り響く、まばゆいほどに明るい音。
それは神聖さすら感じさせる音の雨となって広場全体に降り注ぎ、周囲を不気味なまでの神秘に包んだ。
「っ(スキルで揺れたかと思ったら…何だ…ただの偶然か…)」
予期せぬタイミングで大地がまたも揺れたことで、クトゥルは一瞬驚くものの、すぐに冷静さを取り戻した。
そう、彼は見た目だけなら邪神そのもの。
驚いた素振りなど見せてはならない。
だが、その冷静さは、次の瞬間に氷のように砕け散る。
「っ…み、皆…あ、あれろっ…見ろっ」
誰かの叫びが、空気を鋭く切り裂いた。
煙が晴れ、倒壊したと思われていた町の中――人々がいた。
廃墟などではなかったのだ。生きた町だった。
震える唇で、住人たちはクトゥルたちの方を指差す。
「(マジかっ…廃墟じゃないのかっ…これ…まずくないか…?)」
冷や汗が、脳裏にイメージされる。
現実にはクトゥルの体に発汗の機能などないのだが、それでも内心では滝のような汗を流していた。
「え…?(…俺また何かしちゃいました…?)」
天災のごとき登場と、それに続いた人々の視線。
クトゥルはただ、音を出しただけなのに――なぜか、まるで神の裁きを下した存在のように、そこに立っていた。
―――
気づけば、クトゥルの周囲に町の住人たちがじりじりと集まりはじめていた。
最初は遠巻きに恐る恐る。
やがて、一人、また一人とその歩幅を確かなものにしながら、まるで神域へと歩み寄るように、慎重に、しかし確信を持って彼のもとへ向かっていた。
「……(ち、沈黙しておけば、どう問われようと対応できる…俺は学んだ)」
かつて幾度となく言動で墓穴を掘ってきた彼は、今やひとつの境地に達していた。
無言こそ最強の盾。
クトゥルは動揺する内心を必死に押し隠し、両腕を組む。
目は細く伏せ、まるで万象を見透かすかのような「意味ありげな沈黙」を装った。
そんな中、勇気を振り絞ったように、一人の住人が前に進み出る。
年若い女性――その顔には恐怖と希望、相反する感情がせめぎ合っていた。
「……あ、あなたが……この町を救ってくださったのですか…?」
その問いは、町全体の祈りにも似た声だった。
その一言に、クトゥルの中の思考が一瞬停止する。
「(ん…?救った…?…)」
彼は小さく首を傾げる。戸惑いを隠すことなく。
確かにスキルは使った。音は出した。揺れも起きた――が、あれが˝救い˝だったのか…?
本人にとっては完全な偶然。
というより、ただの暇つぶしだったのだ。
だが、ふと目をやれば、民たちの表情はどこか恍惚としていた。
崇拝の色すら滲ませるその視線に、クトゥルの唇がわずかに持ち上がる。
「ふっ……」
ニヤリとしたその顔は、異形の中にあっても不思議と威厳を帯びて見える。
そして次の瞬間、彼は胸を張り、堂々と頷いた。
「そうだ……この我が貴様らを救済してやったのだっ……」
中二病的決め台詞を、完璧なドヤ顔で言い放つ。
その声は空気を震わせ、まるで神話に語られる神の言葉のように民たちの耳に届いた。
その場に居合わせた者すべてが、一斉に息を呑む。
瞳には、涙。胸には、敬愛。
町長らしき白髪の老人は、震える両手を懸命に合わせ、深々と頭を下げた。
「貴方様のお名前をお聞かせ下さいっ……!」
その場にいたルドラヴェールが、虎のようなうなり声を喉の奥で響かせる。
あれは誇らしげな仲間への賛美か、それとも興奮の獣の咆哮か。
いずれにせよ、崇拝の空気はもはや疑いようのないものとなっていた。
「我こそ…この世界の混沌の頂点っ。クトゥル=ノワール・ル=ファルザスであるっ!」
重々しく響くその宣言が、まるで天から降り注ぐ雷鳴のように、町全体に響き渡った。
異形の身体から発せられるその声は、威圧と荘厳を兼ね備え、人々の心を鷲掴みにする。
一瞬の静寂ののち、群衆は歓喜の渦に包まれた。
誰からともなく歓声が上がり、人々は地にひれ伏し、震える手を天へと差し伸べる。
一部の者は涙を流しながら、唇を震わせ、感謝の言葉を紡いだ。
「……救世主だ……!」
「この地を救ってくださったっ!」
その場にいる誰もが信じて疑わなかった。
この町を襲った苦難を打ち払い、彼らを救い出したのは、いま目の前に立つ˝救世主˝――クトゥルその人なのだと。
──その光景は、仲間たちの心にも確かな変化を与えていた。
エリザベートは、真祖の誇りを持つ高貴な吸血鬼であるにもかかわらず、頬をうっすらと紅潮させていた。
その瞳はうっとりと潤み、手をそっと胸に当てながら、深いため息をひとつ落とす。
「さすが、クトゥル様っ。下等な生物に手を差し伸べる姿…素敵ですっ」
その声音には、もはや恋慕すら滲んでいた。
ルドラヴェールは、筋肉質な巨体を揺らしながら、低く唸るように笑った。
金のように輝く虎の瞳が細まり、鋭い牙をむき出しにして吠える。
「グル…」
それは獣としての敬意の表れであり、リーダーに対する賛美の遠吠えでもあった。
ティファーは、頭を垂れたまま、目尻をそっと拭う。
その動きは慎ましくも、祈りを捧げる巫女のように神聖だった。
「……何と…慈悲深いっ…クトゥル様にすべてを捧げたこと……やはり間違ってなかったっ……」
一度は信仰を捨て、裏切った彼女が、今や心の底から再び˝信じる˝ことの意味を取り戻していた。
──そして、それらすべての賛美と陶酔を、誰より満足げに受け止めているのが、当のクトゥル本人である。
「クククっ…さぁっ。我を讃えるのだっ!(何か知らないけど、これで信者絶対増えただろうっ!)」
祝福と歓声で溢れていた。
──こうして、偶然と勘違いから始まった奇跡は、
クトゥルを˝救世主˝として祭り上げ、町全体を彼の信者へと変えてしまったのである。
なお――
この場面の直後、クトゥルが密かに期待していたスキル【カルト・エンパワーメント】は、一切の反応を示さなかった。
なぜならこのスキルは、˝邪神˝としての正しい信仰を得なければ、力を得ることはできない。
けれど、そんなことを――
クトゥルが知るわけがなかった。
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