洞窟の亡者②

洞窟の入口をくぐった瞬間、外気とはまるで異なる冷気がクトゥル一行を包み込んだ。


湿り気を含んだ重たい空気が肌に張りつき、まるで地下の深淵へと引きずり込まれるかのような錯覚を覚える。


だが意外なことに、内部は予想に反して闇一色ではなかった。


洞窟の壁や天井には、蜘蛛の巣のように細かな裂け目が走っており、その隙間の奥から淡い焔が揺らめいている。


橙色に揺れる光は、風もないはずの洞内で微かに脈打ち、まるで呼吸をする生き物のように揺れていた。


松明のようにも見えるそれは、人為的なものか、それとも魔法による燐光なのか。


いずれにせよ、この地に誰かが足を踏み入れた痕跡は否応なく浮かび上がっていた。


「……ふむ…(おっ?…思ったより明るいな…)」


クトゥルは唸るように小さく声を漏らしながら、一歩、堂々と洞窟の奥へと足を踏み出す。


その足取りは慎重でありながらも、自信に満ちた振る舞いを装っていた。


湿り気を帯びた足元の土が、ぬかるんだ音を立てて沈む。


足音が消えると、代わりに響くのは天井から落ちる水滴の音。


ポタ……ポタ……と一定の間隔で鳴るその音は、まるで地中に眠る心臓の鼓動のように、静寂のなかで妙に生々しく響き渡った。


鼻を突くのは、岩肌から染み出した水に苔が混じった、古びた匂い。

どこか鉄錆のような、血を思わせる香りもわずかに混ざっている。


「(…これが…ダンジョンか……!)」


クトゥルの心中では、抑えきれない興奮が沸き上がっていた。


勇者の物語、邪神の降臨、冒険者たちの試練。

前世で体験できず、幼い頃から読みふけった物語の世界に、自分が足を踏み入れたという高揚感で、胸が熱くなっていた。


しかし、そんな彼の高まる内心とは対照的に、背後から続く二人の気配は鋭く、緊張をはらんでいた。


エリザベートが静かに一歩、洞窟の中へと踏み入れた。


「…ん…?」


その瞬間、空気の質が変わる。まるで目に見えぬ膜を突き破ったかのように、冷たい重圧が身体を包み込み、肌に粟立つような悪寒が走った。


細く整った眉がわずかに寄せられ、深紅の瞳が洞の奥へと鋭く向けられる。


「…ム?」


狭い入口で誰かに触れたのだろう。

ルドラヴェールに掛けられたトランスフォームの魔法が解けていた。


彼もエリザベート同様、ふと立ち止まり、虎に似た鼻面を上げてひくひくと空気を嗅ぎ取る。


四肢は自然と地を掴むように構えられ、低く身を沈めた姿は、まさに獣としての本能が戦闘の兆しを捉えた時のそれだった。


彼の縞模様の毛並みが、揺らめく焔の中でぬらりと濡れたように光っている。


「クトゥル様……」


エリザベートの声が、焔の揺らぎと共に響く。

いつもの妖艶さを含んだ声音から一転、その声には鋭い緊張と警戒が滲んでいた。


「この洞窟、ただの通路ではないようです。何か……気配がします」


その言葉とほぼ同時に、ルドラヴェールの低いうなり声が響く。


「俺モ、感ジマス……コノ邪悪ナ、圧。獣ノ勘ガ告ゲテイル……コノ奥ニ、何カガ潜ンデイルト……!」


その声音には獣特有の直感が込められており、耳を傾ける者に無視できない重みを与える。


二人の警告に、ティファーの肩がぴくりと反応した。


驚きと警戒が一瞬にして表情に走り、彼女の手は無意識のうちに腰の愛剣へと伸びていた。


柄に添えられたその指先は、まるで抜刀の瞬間を待つかのように静かに震えている。


青く澄んだ瞳が洞窟の奥を見据え、緊張の色を帯びて細められる。

その目には、仲間たちが感じ取った何かを探ろうとする必死さが滲んでいた。


「っ…邪悪な……気配ですか……私は感じませんが…」


ティファーの声はかすかに揺れていたが、それでも彼女の眼差しには、覚悟と誠実な忠義の光が宿っていた。


焔が再び揺れ、岩肌に映る彼らの影を歪ませる。


その言葉に、クトゥルは内心で盛大に狼狽していた。


「(う、うそだろっ!?くっそっ…や、やっぱ村人にハメられたのかっ……!?)」


背筋を這い上がる冷たいものに、額からじわりと汗が滲む。


だが、彼は表情ひとつ動かさない。


否、動かしてはいけなかった。


ここで取り乱すなど、邪神としてあってはならぬ失態である。


ゆっくりと呼吸を整えながら、あえて堂々と胸を張り、視線を前へと向ける。


両腕を組み上げ、焔の揺れる光を背に受けたその姿は、まさに漆黒の威厳をまとった影のように見えた。


「ふっ………あぁ、確かに感じるな……この震えるような波動……実に、心が躍る(いや、躍らないから!!! 怖いんだけどっ!!マジでヤバいやつだろこれっ!?)」


心の中では全力で悲鳴を上げながらも、顔だけは完璧なまでに沈着冷静。


だが、震える足が一歩も進まぬまま固まっているのを誤魔化すように、そっとティファーに視線を送った。


「ティファー…お前ならその剣で邪悪な気を倒せるはず…期待しているぞ(いや、…本当頼むぞっ!!俺、攻撃手段ほぼないんだからっ!?)」


祈るような思いを隠し、威厳を込めて放たれたその言葉に、ティファーは感極まったように目を潤ませた。


彼女の顔に浮かんだ光は、まるで神託を受けた巫女のような敬意と感激の色に染まっていた。


「はいっ!クトゥル様の前に立つ障害……このティファーが、必ず必ずや排除してみせますっ!」


その瞳の真っ直ぐな輝きに、クトゥルは思わずたじろぎそうになった。


だが、崩れるわけにはいかない。


己の虚像を信じてくれる者の前で、恐怖を見せるなどできるはずもなかった。


「…よい心がけだ、ティファー。我の歩みを止めるものなど、存在してはならぬ……」


その言葉に背中を押されるように、一行は再び歩を進めた。


足元を照らす焔が、ぬかるんだ地に揺らめく影を落とす。


苔に覆われた岩肌には、得体の知れぬ爪痕のような刻みが幾重にも重なり、何者かがこの洞へと入った証を物語っていた。


やがて、奥から微かに音が響いてきた。


風が吹いたのだろうか。いや、それはあまりに湿って重い音。

ぬるりと何かが蠢いたような、粘膜を這うような鈍い気配が、洞の奥から這い出してくる。


焔が一際強く揺れた。それは、風か。それとも、生き物の息づかいか。



―――



洞窟の奥深く。


そこは、まるで巨大な獣の体内を進むかのような、複雑に枝分かれした迷宮の最深部だった。


岩肌は長年の湿気に侵され、分厚い苔がじっとりと染みついている。


人ひとりがやっと通れるほどの狭い通路が、視界の届かぬ闇の奥へと緩やかに続いていた。


ぬかるみに足を取られながらも、這うように進んでいった先に通路の終端、ぽっかりと口を開けた空間があった。


それは、天井も低く、四方を圧迫するような岩壁に囲まれた、密室のような小部屋だった。


広さはわずか三メートル四方。空気そのものが押し潰されているかのような閉塞感が支配していた。


息をするだけで胸が圧され、鼓動が響きすぎるほどに重くなる。


部屋の奥、石壁に身を預けるように、一本の墓標が静かに立っていた。


それは、時間に風化され、表面の文様はほとんど消えかけている。


かつて刻まれていたであろう名前も祈りの言葉も、今では読み取ることさえできなかった。


墓標としての意味すら、もはや不明瞭なほどに朽ちていた。


だが、その墓標から、微かに音が漏れ始めた。


ギギ……ギギギ……。


それは最初、微かな軋みだった。


まるで誰かが、喉の奥で呻いているような――いや、肉と骨がすり潰される寸前の、命の終焉を告げる音。


冷え切った空間に、不吉な振動が染み渡る。


やがて、その音は形を成し、言葉へと変貌した。


「……ぐるしいぃ……ぐる……しぃ……」


「……ゆるさ……ない……」


「……生者を……わたしは……ゆる……さナイ……」


それはこの世のものとは思えぬ声だった。


震えるような苦悶の響き、そして、魂の底から噴き上がる恨みと絶望。


吐き出された言葉は、まるで瘴気のように空気を汚し、洞窟の闇がさらに濃く、深く淀んでいく。


突如として、墓標の根元――ひび割れた岩の隙間から続く土が、不気味に脈打ち始めた。


ぐにゅり、と土が隆起する。まるでそこに心臓でもあるかのように、規則正しく、だが狂ったような鼓動と共に。


それは生とは逆の性質をもつもの死の胎動。


ガシャリ、と鋭い音を立てて、地面が裂けた。


白く、乾いた骨の指が土の下から突き出る。


それは人のものに似て、だが明らかに生きてはいなかった。


「……ゆる…さ…ない……」


呻くようなその声とともに、指はゆっくりと地を掻き、土を引き裂きながらその主の姿を引き上げていく。


続いて腕、肩、砕けた喉からかすれ声を漏らしながら、首が地上に現れた。


それは、神父の装束をまとった異形の骸骨だった。


法衣はすでに黒く染まり、破れた布地からはところどころ、まだ腐敗しきらぬ肉片が露出していた。


その身から立ち上る悪臭は、生き物のそれではない。


それはまるで、数百年にわたる怨嗟と未練が凝縮され、空気にこびりついたかのような、濃密な呪いの香り。


骸骨の口が、きしむ音を立ててゆっくりと動いた。


「……生者……生者の魂を……」


カラカラと乾いた音。


骨が擦れ合いながら、異形は歩を進める。


そのたびに音は洞窟の壁に反響し、まるで複数の足音が背後から迫るような錯覚を与えた。


うつむいていた頭が、徐々に持ち上がる。


その顔の片側には、未だに腐肉に覆われた眼窩があり、そこには鈍く濁った赤い光が灯っていた。


もう片方の眼窩には何もなく、そこにはただ、終わりなき虚無が口を開けている。


その視線は、まるでこの世のすべての生を呪い、否定するかのように、深く、重く、凍てついていた。


光の届かぬその空間にて骸骨の聖職者は、ゆっくりと歩みを進めた。


そして生者を、探し始めた。

生の温もりを、魂の気配を、乾ききった心の奥底で、必死に渇望するように。



―――




地の底に広がる洞窟の奥深く、永い時を経て形成されたその空間は、まるで地脈の胎内のように静まり返っていた。


苔むした岩肌は鈍く湿り気を帯び、天井から滴る水が時折、ひとしずくずつ落ちるたび、静寂の中に鈍い反響を生んでいた。


空気は異様なほど重く、湿り気を含んだ甘酸っぱい硫黄の匂いと、腐敗しかけた苔の臭気が混じり合い、鼻孔を刺すように漂っている。


そんな圧迫感すら覚える闇の中を、ひとつの小さな一行が音もなく進んでいた。


先頭に立つのは、ティファー。


背筋をぴんと伸ばしたその身は、緊張感と研ぎ澄まされた気配で包まれていた。


上半身には無駄のない軽い鎧をまとい、腰に佩いた愛剣の柄に右手を添え、左手は重心を支えるように微妙な角度で開かれている。


その眼差しは、まるで獲物を狙う猛禽のように鋭く、暗闇の奥へと真っ直ぐ突き刺さっていた。


「……前方、左右、異常なしっ…」


短く、鋭く、しかし音を極力抑えたその声が、洞窟の冷えた空気を切り裂いた。

その瞬間、一行の空気もまた、一段と引き締まる。


ティファーの膝はわずかに曲げられ、足元の岩の感触を確かめるように慎重に歩を進めている。


その動きには、一切の無駄がない。


彼女は常に、刃を抜いてからの一手先――いや、二手三手先を読んでいる。


剣を抜くまでもなく、殺気だけで敵を制すことさえあり得る、そんな戦士の空気。


その背後を、三つの影が静かに歩いていた。


エリザベート――


漆黒の髪が、まるで夜の帳のように足元まで流れ落ちていた。


歩くたびに髪の房がわずかに揺れ、洞窟の淀んだ空気を静かに撫でていく。


その動きには一片の乱れもなく、深淵から生まれた幻影のように、ただ静謐な美をまとっていた。


暗い洞窟の中で、彼女の存在はまさに異質だった。


この地の荒々しさと無縁の、完璧に構築された優雅さ。


それはまるで、闇が生み出したひとつの芸術作品のようでもあった。


そのすぐ隣を歩くのは、ルドラヴェール。


虎の姿に似た、だが神々しさすら漂わせるサーベルタイガーのような魔獣。

深紅に染まるような体毛に、漆のような黒の縞が浮かび上がり、ひとつひとつの動きがしなやかで静かだった。


鋭く伸びた2本の牙、揺れる尻尾が洞窟の壁に影を落とすたび、まるで何体もの獣が並び歩いているかのような錯覚すら生んでいた。


鋭い爪が、岩の上をやわらかく踏みしめるたび、細かな音が反響し、静寂の中に深い緊張を滲ませる。


その獣の眼は、一見すると周囲に無関心のようにも見えたが、実際にはわずかな気流の乱れすら感知するような集中を孕んでいた。


――だが、それでも、彼女たちの歩みからは警戒の色が見えない。


まるで、すでに危険など存在しないと知っているかのように。


否、それは知っているのではなく、信じているから。


それは、彼女たちの後ろを歩くクトゥルの存在――


彼がいる。それだけで、彼女たちにとってこの暗闇は無力となる。


彼がいる限り、どれほどの存在が待ち受けようと恐れる必要などない。

それは盲信ですらなく、もはや確信だった。


そんな彼女たちの絶対的な信頼を、背に一身に受けながら、クトゥルはエリザベートたちの前を堂々と歩いていた。


人間の姿を保ったまま、両腕を組み、顎をわずかに上げている。

その足取りには迷いがなく、まるでこの地の主であるかのような貫禄さえ滲んでいた。


「……ククク……面白い……」


低く笑う声が、湿った空気の中に溶け込むように響く。


だが、その内心は――


「(怖いっ!?なにこの空気、さっきから後ろから何か来てる気がするっ!?…ルドラヴェールの背に乗りたい!あったかそう! 安心したい!ていうかもう帰ろう!)」


顔は涼しげ、心は絶叫。


理性と虚勢で平静を装う彼は、まるで勇者の皮を被ったモグラのように、小さく丸まりたい衝動を懸命に押し殺していた。


それでも――彼は止まらない。


エリザベートとルドラヴェールの尊敬の眼差しが、彼を絶対的強者として背後から支えていた。


さらにティファーの熱視線が、前からぴしりと重圧となってのしかかる。


進まざるを得ない。否、進むしかない。


狭く、ぬかるんだ洞窟の中で、靴が岩肌を踏む音、衣擦れ、ルドラヴェールの爪が石を引っかく乾いた音――

それらが重なり合い、不規則なリズムを刻みながら、暗がりを進んでいく。




―――




洞窟の奥深く、空間を満たすのは重く湿った空気。


苔の香りと硫黄の混ざり合った匂いが微かに鼻腔を刺す中、かすかな風がひと筋、通り過ぎる。


その風はまるで何かの吐息のように一行の頬を撫で、冷たい指先となって首筋をなぞっていく。


それが通り過ぎた直後からだった。


どこか遠くで、何かが目を覚ましたような気配が、ゆっくりと這い寄ってくる。


目に見えぬ存在が、岩の隙間から静かに流れ出し、一行を包み込もうとしているかのようだった。


声に出すことはない。

ただ、わずかに眉を動かしながら、クトゥルは周囲を見渡す。


洞窟の奥へと進んでいた一行は、数十分にわたる沈黙の行軍を続けていた。

それはまるで、異形の胎内を進むような、どこまでも続く不気味な静寂。


しかしその均衡が、今、破られた。


まるで示し合わせたかのように、仲間たちが一斉に足を止めたのだ。


ティファーは剣の柄に手を添え、僅かに体を沈める。

エリザベートはすっと髪をかき上げ、瞳を細めて闇の向こうを見つめた。

ルドラヴェールは低く喉を鳴らし、光沢のある尾をゆるりと左右に揺らしている。


――まるで狩りの直前、獣が呼吸を止めるかのような静けさ。


それを見て、クトゥルもまた堂々と歩を止めた。

ゆっくりと顔を上げ、顎を引いて、異形の瞳で闇の奥を見据える。


まるで、彼自身がすでに気づいていたと言わんばかりの落ち着きと威厳。

闇に潜む何かすら意に介さぬという、絶対的な存在感を演出するように。


だがその内心では――


「(み、みんな一斉に止まった!?な、何なんだっ…何かいるのかっ… 

 こ、怖い……背中ぞわぞわする……なんかルドラヴェールの後ろにいた方がよくないかっ!?)」


心はあたふた、だがその表情は崩さない。


それどころか、堂々たる立ち姿のまま、空気すら支配しているかのように振る舞っている。


そのときだった――


コッ…コッ…コッ…


静寂を破り、音が洞窟の奥から響いてきた。


規則的に刻まれる、乾いた靴音。


それはまるで、闇の中からこちらへと歩を進める何かの存在を、嫌でも知らせてくるようだった。


音が鳴るたび、空気が揺れる。


湿った岩肌を振動が伝い、一行の鼓膜を優しく、だが確かに叩いてくる。


距離は遠い――だが、確実にこちらへと近づいてきていた。


やがて、それに混じるように――パチ…パチ…と、乾いた音が微かに鳴り始めた。


何かが燃える音。炭がはぜるような、静かな炎の音。


それに伴い、冷たい闇に微かな温もりが混ざる。漂う空気がわずかに揺れ、遠くに光の気配が生まれた。


そして数秒と経たぬうちに、暗がりの奥、曲がった岩の先に橙色の揺らめきが姿を現す。


まるで夜の海に浮かぶ灯火のように、それは静かに、確かに近づいてきた。


松明だった。

燃え盛る炎が、手にした者の動きに合わせて揺れ、足元の影を歪ませながら歩みを照らす。


橙色の光が洞窟の湿った壁面に映り込み、脈打つように明滅する。


そしてついに、その灯火が照らし出した。

――十の影。岩影から現れたのは、まるで地獄から這い出してきた亡者の群れのようだった。


粗末な皮鎧に、錆びた武具。目つきは血走り、口元には不気味な笑みを浮かべている者もいる。


そのどれもが、ただの野盗や浮浪者と断じるには、あまりに異様だった。


全身にまとわりつく空気は、生き物のそれではない。


むしろ、死と瘴気の臭いをまとった、不浄の存在に近い。


中でも――その中央に立つ一人の男。


他の者とは一線を画す威圧感を身にまとい、ゆっくりと歩を進めてくる。

松明の影が彼の顔に踊り、彫像めいた無表情を照らし出す。

瞳の奥に宿るものは理性ではなく、狂気の火。それでいて、底知れぬ意志の強さを感じさせた。


その姿を見据えながら、誰かが呟いた。


「……ふっ。来たか(ほ。本当に…来たっ!?)」


それがクトゥルの言葉だったのか。あるいは、敵側の者のものだったのか。


定かではない。ただ、その一言を皮切りに、洞窟の空気は張りつめた糸のように緊張し、誰もが次の瞬間を待つ、沈黙の時へと移る。


ティファーの指が、腰の剣の柄を強く握りしめた。


指先に込められた力は、そのまま彼女の緊張と覚悟を物語っていた。鋼の冷たい感触が、かえって気を引き締めてくれる。


エリザベートは何も言わず、静かに赤い瞳を細めた。


揺らめく炎の光がその瞳に映え、まるで燃え上がる紅玉のように妖しく輝く。彼女の纏う混沌のローブが影に溶け込み、そこに立っているだけで周囲の空気が張り詰めていくようだった。


ルドラヴェールはゆっくりと前進する。


鍛え抜かれた体が静かに動き、獣としての威圧感を全身から発していた。喉の奥で響く低い唸り声は、獲物を見据えた捕食者の本能そのもの。しなるように動く尾が地を叩き、音なき宣告のように緊迫を増す。


まるで、暗がりに潜む真の王が誰なのかを、そこにいる全員へ思い知らせようとするかのように。


そして、そのすべての視線が、一点に集中した。


――クトゥル。


闇を背にしながらも、その存在は誰よりも濃く際立っていた。堂々とした姿勢のまま、腕を組み、無言で立つその姿には、不思議な威圧感があった。


彼が発した言葉はなかった。ただそこにいるだけで、周囲の空気が一変する。視線を交わした者の心に、形容しがたい恐怖と畏怖が芽生える。


光も音も遠ざかり、時が止まったかのような錯覚の中で――彼らは見た。


クトゥルの中に、確かに邪神を。

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