第3話
窓枠から上体を乗り出して、体を滑らせる。
その瞬間、背後からバットが振り下ろされ、彼の後ろ太腿を捉えた。激しい痛みが走る。
だが三上は笑った。痛みは生きている証拠だ。全身の血潮が熱く脈動している。
窓の外には薄い金網があり、そこを伝って下れば隣のビルの足場まで届く。
三上は体をねじり、金網に足をかけ、下へ降り始めた。用心棒の一人が外へと、手を伸ばす。金網で指が擦れる。用心棒の握ったナイフが踊った。鋭い痛みが左腕に走る。激しく血が噴き出した。ひるまず彼は下を目指した。
暗がりの中で、黒革の台帳が腕の中で踊って彼の心臓を叩く音がした。腕に力を
路地に飛び降りる、真夜中の路面は冷たかった。腕と太腿からは痛みが走る。足がもつれた。血の匂いが夜の路地に溶ける。振興会の男たちは叫び声を上げて追う。だが三上は走った。走ること以外に、彼には許された行為がなかった。証拠を抱え、足跡を刻む。
深夜、三上は東陽新聞社の編集部に飛び込んだ。ドアは開け放たれ、編集者たちが眠気と闘っていた。彼は倒れこむように台帳を差し出した。血で汚れた指でページを押さえ、目を吊り上げて笑った。笑いは狂気に近い。
「命を賭けた取材の成果だ」
編集長は台帳を開き、頁をめくった。目の色が変わる。数字が繋がる。証拠の重さが、空気を切った。編集長は立ち上がり、電話を取り、警察へ連絡するより先に、印刷の手配を始めた。
翌朝の特ダネの記事の見出しは短かい。
だが、その重さは確かだった。東亜娯楽振興会の裏帳簿、政治家への裏献金の額、そして裏献金のおこぼれに預かった政治家達の名前、文部科学省から天下る医科大学の役員候補の名簿が新聞に載ることになった。
早刷りの朝刊を見て、胸が熱くなる。
悪行の証拠が世に出る。正義の輪郭が夜の中に浮かび上がった。
印刷所のローラーが低く唸りを上げ、新聞が吐き出されていく。
霞が関の硝子が朝陽を反射している。
街はまた、いつも通りに動き出す。だが、その下で、何かが壊れ始めていく。
三上悠人は病院のベッドにいた。
三上の出血は止まっていなかったからだ。ただ、彼の笑いも止まらなかった。
左腕は吊られ、脇にはガーゼの山。
点滴の液が落ちるたび、脈拍の鼓動が胸を震わす。
カーテンの向こうで、編集長の声が低く響いた。
「載せた。朝刊一面だ。……三上、死ぬ気だったな。」
三上は口角をわずかに上げた。
「正しいことは、やっちゃいけないんでしょう?」
苦笑いが喉に引っかかる。
笑うたびに傷口が痛む。その痛みは現実だった。
午前八時。
庁舎の廊下を、久我章が歩いていた。
白い壁、無音の床。新聞を抱えた若い職員たちが目をそらす。
その見出しは、黒い活字で焼き付けられていた。
東亜娯楽振興会 裏金献金リスト 政・官・医を貫く闇の連鎖。
久我の名は、なぜかそこにはなかった。
だが、三上が送り付けた紙の端に印刷された認可書の写し。
自分の犯した不正の証拠、サイン欄に刻まれた自分の筆跡と認可の印は残っている。
背中を冷たい汗が伝った。
足が止まる。
廊下の奥に立つ人影。
記者クラブで見た男がそこにいた。
病院の治療を終えた三上悠人。
包帯に覆われた腕、頬の古い火傷。
だが、あの目は二十年前と変わらない。
真っすぐ、刺すように光っている。
「先生。」
声は低く、静かだった。
「証拠は出た。だけど、まだ終わらない。振興会の汚れた金は、文部科学省の中にも流れてるはずですよ」
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