灰の勲章

瑠里

第1話

 三月の霞が関、朝の陽を受けて省庁の壁面が白く輝き、通りを行く職員たちは、誰もが決まりきった速さで歩いている。

 その中の一人に久我章の姿があった。

 四十五歳、文部科学省学務施設課長。

 眼鏡の奥の瞳は常に冷静で、感情の温度を感じさせない。

 机に向かうと、彼は時計を見もせず書類の束を整えた。

 無駄話を嫌い、誰とも目を合わせない。

 机の隅に置かれた古い湯呑だけが、彼に忘れておけない記憶をつなぎとめていた。

 湯呑の底には、かすかに刻まれた名前がある。

 文部科学省に入省する前にかつて勤めていた中学校で、窯元の職場体験実習に参加した生徒からもらったものだ。

「三上」

 教え子の名前だった。

 久我は地方の公立中学校で社会科を教えていた。

 クラスに三上悠人という少年がいた。

 頭の回転が早く、文才に恵まれていた。

 将来は新聞記者になりたいと言っていた。

 ある日、三上が書いた作文が県のコンクールで入賞した。

 タイトルは『町長の約束』。

 内容は、地元の開発計画で川が埋め立てられ、

 川漁師の家が立ち退かされる理不尽を批判するものだった。

 しかし、結果発表後、作品は突然「入賞作から除外」とされた。

 理由は単純だった。

 町長がその開発の推進者であり、

 町の教育委員長が審査員の一人だった。

 三上は校長室に呼び出され、作文を取り下げろと迫られた。

 久我も呼ばれ、指導不足を咎められた。

 久我は「彼の書いたことは、全て事実ですが」と言った。

 だが、校長は机を叩いた。

「町の事は町長が決める、それがこの町のルールだ、変な波風を立てるな」

 その日の放課後、三上は職員室の前で待っていた。

 目を真っ赤にして、久我にただ一言だけ言った。


「先生、ここで正しいことを、やっちゃいけないんですか?」


 久我は、即座に答えられなかった。

 学校の外では重機が川沿いの森をくずしていた。

 遠くで鳥が逃げる様が見えた。


 三上は間もなく転校した。

 その後の消息は久我も知らない。


 ある日の午後、久我の元に一通の封筒が届いた。

 差出人の名を見て、心がわずかに動いた。

 三上悠人。


 肩書きは「東陽新聞社会部」。

 封筒の中には、三上が手に入れたと思われる、新設医科大学の認可申請書の書類一式の写し。

 赤い丸印で囲まれた団体名、財団法人「東亜娯楽振興会」。

 悪い意味で有名な団体だった。

 かつての暴力団系組織が、戦後になって右翼団体に商売替えをし、裏社会の仲間が賭博を開帳し、ギャンブルで国民から吸い上げた寺銭を資金源として事業を運営しているところだ。


 久我はペンを置いた。

 右の頬をかすめるように汗が流れた。

 申請を認可したという書類の印影は、「久我」と。

 上に命じられて、そのまま認可を通した案件だった。

 首相夫人関係の案件だから、何か問題があってもスルーしろ、いつものように、と。

 久我は封筒を握り締めた。

 長い時間を経て、過去の問いが静かに彼の前に戻ってきた。

 あの日の三上の言葉が、もう一度胸の底で響く。

「先生、正しいことって、やっちゃいけないことなんですか?」

 その問いに、彼は何も答えられなかった。

 今もまだ答えられない。

 だが、その答えを出さなければならない事態に進んでいた。

 久我は立ち上がり、書類をファイルケースに収めた。

 その動作は事務的で、表情も変わらない。

 ただ、しゃんと伸ばした背筋だけが、彼の決意を語っていた。

 今、彼の、波風を立てない人生に終わりを告げた瞬間だった。


 都心の夜は、静けさをまとっていた。

 霞が関の裏手、官報社ビルの地下。

 そこにある古い記者クラブの部屋は、蛍光灯の半分が切れかけ、壁に貼られた記事の切り抜きが黄ばんでいた。


 灰皿には吸い殻が山のように積もり、

 冷めたコーヒーの匂いが部屋の底にこびりついている。

 この部屋では、真実よりも噂の方が長生きする。


 久我章は、約束の時間より十五分早く来ていた。

 黒いコートの襟を立て、

 窓際に立って煙草に火をつける。

 火の先に、二十年前の少年の顔が浮かぶ。


 ドアが軋んだ。

 細い光の中に、三上悠人が立っていた。

 すでにあの頃の面影はない。

 頬には、火傷の跡。

 髪は短く刈り上げ、目には疲労が滲んでいた。

 だが、声は同じだった。

「お久しぶりです、先生。」

 久我は黙ったまま煙を吐いた。

 煙が蛍光灯の光を遮り、間に沈黙が落ちた。

 三上は封筒を机の上に置いた。

「東亜娯楽振興会は、あの医科大学の不正認可に絡んでいます」

 久我の指先がわずかに動いた。

 だが目は動かない。

「先生、あなたの署名があるんです。この認可の書類に。知らなかったとは言わせませんよ。」

 その言葉が、空気を裂いた。

 久我の胸に、冷たい怒りが沈んでいく。

 理性の鎧が、きしむ音を立てた。

「……おまえは、今もまだ正しいことをやろうとしているのか?」

 三上は哀しそうに笑った。

「ええ、正しいことを。この国ではやっちゃいけないことらしいですけど」

 蛍光灯が、暗くなり、明るくなり、ちりちり、と鳴った。

 その光の下で、二人の男の影が重なった。

 二十年前に一度止んだ筈の雨が、ふたたび降り始めていた。



 新聞の世界で身を焼いてきた三上の顔には、火傷跡が残っている。

 正義を成すために、それを妨げようとする者たちに、タバコの灰で焼かれてついた灰の勲章だ。

 その夜の彼の目は尖っていた。

 まさに、獲物を見る猛禽の目だった。


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