第6話:被験体ログ #07

――水の音。


ぴちゃん。


それが、最初に聞こえた記憶。

耳ではなく、頭の内側で鳴っていた。


目を開ける。

光が揺れる。

けれど、焦点が合わない。


――ここは、水の中か?


いや、違う。

水ではなく、記録の中に沈んでいる。


誰かの指が、ガラスを叩く音。


トン。


音が波紋になって、意識を揺らす。


> 『Subject #07──反応あり。』


声。

金属の向こうで、誰かが言っている。

知らない言語。

それなのに、意味が分かる。


――観察されている。


思考が動く。

呼吸はできないのに、思考だけが生きている。


> 『脳波パターン、安定。視覚信号、同期完了。』


光が変わる。

天井の蛍光灯が、12秒ごとに明滅する。


時間を刻むように。

00:00:12、00:00:12、00:00:12……


僕は、誰かの目の中に閉じ込められている。


“見る”という行為が、皮膚を削るように痛い。

眼球の裏に、別の視線がある。


外側から、僕の視界を覗いている。


僕が見ているものを、誰かが“同時に見ている”。

その“誰か”が、何度もまばたきをするたびに、世界が少しずつ書き換わる。


ベッド。

壁。

光。

そして、あのガラス。


ガラスの向こうに、白い服の人影がある。

動かない。


でも、見ている。

目が合った瞬間、心拍が跳ねた。


それが、呼吸という感覚だと気づく。

吸って、吐いて――音は出ない。


でも、誰かが真似をする。

ガラスの向こうで。


“僕の呼吸を、写している。”


> 『ログ同期、遅延発生。タイムコード固定。00:00:12。』


声が重なる。

どこかで聞いた声。


男の声。

少し掠れていて、静かに笑う癖のある声。


――久保? いや……違う。

もう少し若い。

神谷。


断片が浮かぶ。

廊下。


白い光。

その向こうで、僕を見ていた。


「……お前も見てるのか。」


声にならない声が漏れた。

ガラスに気泡が走る。


水ではないのに、音が弾ける。


ぴちゃん。


僕の声が、水の音に変わった。


映像が、重なり始める。

別の部屋。

別の時間。

椅子に座る女。


――ミカ。


名前を思い出すと同時に、映像が歪む。

彼女の口が動く。


けれど、言葉は聞こえない。

代わりに、数字だけが響く。


00:00:12。


その数字が、僕の心拍と同じリズムで脈打つ。

彼女がガラスに手をつく。


僕も、同じ場所に手を伸ばす。

冷たい面。

重なる掌。


――トン。


音が返る。


“私を見て”


そんな気配が伝わる。

けれど、僕は気づいてしまう。


その鏡の向こうにいるのは、彼女ではない。

僕だ。


僕が彼女を見て、彼女が僕を見て、その視線の間に、第三の何かが“記録”している。


誰だ。

誰が――。


> 『観察継続。反応強度上昇。Subjectは観察者を認識。』


声が冷たく告げる。


観察者?

僕は、観察されている?


いいや――違う。

僕が、今、見ている。

見返している。


ガラスの向こうの目を、見つめ返す。

瞳孔が震える。

白衣の男が息を止めた。


その瞬間、世界が裏返った。



視界が切り替わる。

僕は、部屋の外に立っていた。


ガラスの中に、僕自身が沈んでいる。


「……これが、観察の終点か。」


誰かが呟く。

その声が、僕の声だった。


内側の僕が、ゆっくりと目を開ける。

ガラスの向こうで、もうひとりの僕が微笑む。


タイムコードが点滅する。


00:00:12。

00:00:12。


世界が止まる。

呼吸も、心音も、何もかも。


静かだ。

音だけが残る。


ぴちゃん。


その音が、最初で最後の“心臓の音”に聞こえた。


> 『ログ終了。被験体#07との同期途絶。再接続試行中。』


冷たい声が遠くで響く。

だが、僕にはもう聞こえない。


“観察される側”も、“見る側”も消えた。

残ったのは、ガラスに残るひとつの指紋。


それが、僕の存在証明。

誰かがそれを見るたび、僕は再生される。


記録は、終わらない。

なぜなら――

誰かが、まだ見ているから。

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