第7話:科学者の暴走
制御という言葉は、古い祈りだ。
人が世界を測るために作った、いちばん素朴な呪文。
私はその呪文を、今日、自分の口で踏みにじる。
「主任、基準を超えます。観測者数をこれ以上――」
「増やせ。」
中園の言葉を遮った。
彼女の瞳に小さな怒りが灯る。
だが、すぐに消えた。
理性が現場を守ろうとしたのだろう。
しかし、理性こそがいま、この現象の触媒だ。
「観察者補正を上げる。私を一次観測者に。二次観測にバックアップ群を並列だ。」
「主任、自己接続は規定違反です。」
「規定は、観察されない世界のために書かれた。」
「……言い換えれば?」
「観察が世界を変えるなら、規定は過去だ。」
沈黙。
中園は口を結び、キーボードに指を乗せる。
> <Config: OBS_COUNT=01→02→04→08→16…>
> <Primary Observer: T.TAKATSUKI>
> <Mirror Cluster: ONLINE>
監視室の空気が重くなる。
装置の心臓――鏡面アレイが、光のない光を放ち始めた。
金属の匂い。
薄いオゾン。
そして、まだ地下に水槽はないのに――
ぴちゃん。
最初の水音が、足元に落ちた。
「給排水、閉鎖済みです。漏れは――」
「音だけが先に来る。」
私は端末に自分のバイタルを連結する。
心拍は安定。
呼吸も安定。
言葉だけが熱くなる。
「増やせ。観察者を。」
> <OBS_COUNT=32→64→128>
モニターの格子が増殖し、同じ私の顔が角度を変えて現れる。
視線が視線を観察する。
反射の迷路。
私は笑わない。
だが、いくつかの私が先に笑った。
「始まった。」
中園が小さく息を飲む。
私は指を上げ、鏡の端へ触れる。冷たい。
トン。
反射が返す。
トン。
同時に、別の画面の私は、トンより早く指を上げた。
順序が壊れる。
時間は“観察の都合”を優先する。
> <Timecode: 00:00:12>
> <Timecode: 00:00:12>
> <Timecode: 00:00:12>
ログが雪のように降り積もり、数値が意味を失う。
十二秒という刻印だけが、世界の中心を占領した。
「主任、波形が飽和します。これ以上は――」
「飽和させろ。」
声が自分の喉を通らず、直接空気になった。
私は知っている。
飽和は終わりではない。
相転移だ。
> <Primary Sync: LOCKED>
> <Cross-Observer Interference: RISING>
> <Note: “Do not stare.”(旧ログ継承)>
久保の文字。
死者の助言が、警告ではなく呪文に変わる。
「――長く見るな。」
スピーカーの奥で、久保の声が再生された。
中園がびくりと肩を跳ねさせる。
「録音を切って。」
「切っています。流れているのは……記録じゃない。」
記録でない“記録”。
観察が自分を複写し、自己再生を始めた。
私は椅子から立ち、鏡面アレイの正面に歩み出る。
幾千の“私”が重なり、わずかに遅れ、時に先行し、やがて同期という言葉自体が意味を失う。
「制御とは、観測者の自画像だ。」
私は静かに言った。
「自画像は、必ず歪む。」
「主任、後退してください。これ以上は人体への――」
「人体と装置を分けるのは言葉だけだ。」
私は掌をガラスに重ねる。
トン。
トン。
トン。
反射はリズムを奪い、音はぴちゃんに変わる。
水がないのに、床が濡れたように冷える。
中園の靴がわずかに滑った。
「主任、避難を――!」
そのとき、鏡の中の私が先に喋った。
――「観察は、私の手を離れた。」
私は遅れて同じ言葉を口の中で転がす。
そうだ。
もう私には何もできない。
観察は装置を離れ、装置は世界を離れた。
いま、観察そのものが観察者になっている。
> <Observer: [NULL] → [SYSTEM]>
> <Subject: [ALL]>
スクリーンの下段が書き換わる。
観察者=SYSTEM。
対象=全て。
中園が顔を失くしたような声で呟いた。
「やめましょう。止める方法は――」
「止めることも観察だ。」
私は笑う。
私のいくつかも笑う。
鏡の手前で、白い気配が膨らむ。
#07の影。
いや、視線だ。
名前を与えると形が宿り、形は必ずこちらを見返す。
「主任、廊下に水面……。床が波打っています!」
扉の向こう。
白い廊下が湖になり、非常灯の赤が水面に揺れている。
あり得ない。
だが、いまここで“あり得るかどうか”を決めるのは観察だ。
> <Facility Map: REF-CORE / Liquid Layer: DETECTED>
> <Acoustic: “ぴちゃん” >
> <Evac Protocol: START>
サイレンが一度だけ鳴り、すぐ止まった。
以降、無音。
無音が、最大の警報だ。
「全員、退避!」
中園の叫びに、人影が散る。
誰も走らない。
走る映像だけが先に走る。
数秒遅れて現実が追いかける。
順番の崩壊が、施設全体へ感染した。
私は鏡を見つめる。
鏡の中で“私”が、先に一歩踏み込んだ。
こちらの足が、それを追いかける。
逆だ。
だが、いまはこれが正しい順序だ。
「主任!」
中園が腕を掴む。
指が震えている。
私の皮膚の温度が、ガラス温度と一致する。
境界が消える。
それが目的だった。
私の研究は、ついに成功した。
「中園。」
私は彼女の手をやさしく外した。
「観察をやめるんだ。」
「でも――」
「見れば変わる。見なければ誰かが見る。」
私は笑う。
「もう、我々の順番ではない。」
最後に装置へ指示を送る。
観察者の権限を解除し、プロトコルを開放する。
> <Root Permission: RELEASE>
> <Observer Seat: VACANT>
> <Note: “Open the mirror.”>
鏡の表面に、微かにひびが走った。
音はしない。
ただ、光が静かに割れる。
その割れ目の向こうに、白い廊下が見える。
水面に沈む非常灯。
遠くで――ぴちゃん。
私は、観察の終わりを宣言する。
「――観察は、私の手を離れた。」
鏡の中の“私”が、遅れて頷く。
それを合図に、室内の影が外へ流れ出す。
機材の表面に薄い水膜。
モニターは鏡になり、鏡は扉になり、扉は水面になった。
背後で中園の声がした。
「主任、記録は……?」
「残る。」
私は振り返らない。
「記録は、終わらない。だから――我々はもう不要だ。」
無音。
世界から音が剥がれ落ちる。
最後に、古い助言が遠くで反響した。
「――長く見るな。」
久保の声は、もはや人間のものではなかった。
観察そのものの声だった。
私は目を閉じる。
鏡の中の水面に、私の影が沈む。
00:00:12が、まぶたの裏で淡く点滅する。
そして、開いた。
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