第2話:研究補助員・ミカ
勤務三日目。
――慣れたと思い込むには、まだ胸が苦しい。
監視フロアの空気は、いつも薄い。
壁いっぱいのモニターが青白く光って、私の顔色まで削いでいく。
「ミカ、ログの整形終わったら#05のバイタル。」
斜め後ろから、久保さんの声。低くて乾いている。
「はい。」
返事をしながらグラフを追う。
心拍、体温、脳波。
どの数値も、規則正しい――はずなのに、どこか“呼吸”を感じる。
#05の映像を開いた瞬間、息が止まった。
水槽の中の男性が、笑ったまま動かない。
「……これ、昨日もこのままでしたよね。」
「一昨日からだ。」
久保さんはモニターの明滅に目を細める。
「固定してる。筋肉がじゃない、“像”がだ。」
像、という言い方に寒気が走る。
私は画面を閉じ、#02の波形へ。
脳波が薄く沈んでいる。
「#02、低下が進んでます。」
「主任に上げろ。……で、#07は?」
――#07。
ユウ。
指先が、自然とそのラベルに触れていた。
映像は静止画みたいに動かない。
膝を抱え、俯いて――次の瞬間、顔を上げた。
心臓が、椅子を叩いたみたいに跳ねる。
視線がぶつかる。
ガラス越しの、深い水の色。
「……っ」
「長く見るな。」
久保さんの声が重なる。
「向こうが“返す”ぞ。」
「返すって、具体的に――」
「具体的に言うなら、“お前の側に”だ。」
冗談じゃない響きだった。
私は無理やり視線を外し、指先でテンキーを叩く。
カチ、カチ――そのリズムで呼吸を整える。
天井スピーカーから主任の声が落ちてきた。
「各位、会議室へ。観測強度の相関について共有する。」
短い声。
感情がないのに、心臓に刺さる。
会議室は監視室より白かった。
スクリーンに棒グラフが映る。
観察端末の接続人数と、現象強度の上昇。
「――結論だけ言う。」
高槻主任がレーザーポインターで天井を横切らせる。
「観察は干渉だ。人数が増えるほど、空間計測の歪みが強まる。」
「……見れば見るほど、壊れる、ってことですか。」
気づけば、私が口にしていた。
「“壊れる”ではない。“変わる”だ。」
主任は言葉を選ぶ。
「境界が薄くなる。内側と外側の。」
内と外。
その境界に、私の喉がひっかかる。
「被験体の自発反応は?」
久保さんが尋ねる。
「不規則だが、観察者側のストレス指標に同期する傾向がある。」
主任は淡々と答え、最後に一点だけ声を低くした。
「――長く見るな。」
結局、同じ言葉に戻ってくる。
夜に近い時間帯。
監視室の人数は少なかった。
空調音が、海の底みたいに低い。
私は端末を立ち上げる。
指が少し冷たい。
画面隅にログが流れ続ける。
<Log: REF-07 / Sync…OK>
<HR: 42 / RR: 8 / TEMP: 35.2>
<Timecode: 00:00:12>
――00:00:12。
この秒数、さっきから何度も見ている気がする。
「ミカ、#05は?」
「固定笑顔のまま、変わりなし、です。」
「了解。#07の同期落ちに気をつけろ。」
私は深呼吸して、#07を開く。
ユウは俯いている。
水に沈んだ髪が、ひと筋だけ揺れた……気がした。
「……。」
自分の顔がガラスに薄く映る。
目の下に小さなクマ。
私は延長コードみたいに前のめりになって、画面の明るさを少し下げた。
――そのときだ。
モニターの中の“私”が、遅れて動いた。
ほんの一秒。
けれど、その一秒が、静かな部屋を切り裂いた。
「……今、遅れましたよね。」
「見てると、そう見える。」
久保さんはスクリーンから目を離さない。
「そして“見てるから”そうなる。」
「……原因と結果が逆転してません?」
「ここでは、たまに前後が入れ替わる。」
彼の言葉を、冗談として笑えなかった。
私は顔を近づける。
モニターの中の“私”も、一秒遅れて近づいた。
笑っていないのに、笑った。
「……やめ……」
喉が掠れる。
視線が離せない。
トン。
軽い音。
スピーカーからではない。
空気が鳴った。
「今の、聞こえました?」
「ああ。」
久保さんが短く答える。
「ガラスの音だ。」
ここに、ガラスはない。
あるのはモニターだけなのに。
画面隅でログが回る。
<Timecode: 00:00:12>
<Timecode: 00:00:12>
<Timecode: 00:00:12>
同じ秒数で、止まって、流れて、また止まる。
時間が、私だけを避けていくみたいに。
「ミカ。」
久保さんが声を落とす。
「離れろ。」
身体が動かない。
目の前の“私”が、ガラスの内側から手を上げる。
指先が、画面のこちらへ――重なろうとする。
私はようやく椅子を蹴った。
後ろへ下がると、モニターの“私”は一秒遅れて同じ動作をなぞった。
遅れて、微笑む。
「……見られてる。」
言葉がこぼれた瞬間、自分の声が“ガラス越し”に聞こえた気がした。
ピッ。
スピーカーの電子音が、血管の中から鳴る。
<Log: REF-07 / Sync Lost>
<Re-Sync…>
<Timecode: 00:00:12>
――戻らない。
12秒のところで、世界が小さく引っかかる。
ぴちゃん。
水の音。
床を見た。
濡れていない。
なのに、靴底が冷える。
「主任、室内で水音。視覚的変化はなし。」
久保さんが通話を開く。
「観察継続。視線は切るな。ただし長く見るな。」
高槻主任の声。
矛盾だ、と思った。
でも、従うしかない。
私は視線を上げる。
ユウが、顔を上げた。
こちらを見る。
目が合う――というより、目を合わせられる。
そのとき、画面の中の“私”が、私より先に笑った。
遅延ではない。
今度は――先行。
「っ……!」
背中が固まる。
順番が壊れた。
トン。
また音。
今度は、さっきより近い。
私は、やっとのことで画面を閉じた。
青白い光が消え、暗い鏡になったモニターに、私の顔が映る。
――遅れて、笑わなかった。
息を吐く。
指先が、まだ震えている。
ログが最後に一行だけ、素直な顔で残った。
<Note: Do not stare. >
英語の注意文。
誰の手で、いつ書かれたのか分からない走り書き。
再び遠くで、ぴちゃん。
私はヘッドセットを外し、目を閉じた。
暗闇のまぶたの裏で、00:00:12がゆっくりと点滅する。
そこから先へ、時間は進むのか――それとも。
――見れば、変わる。
見なければ、終わる。
じゃあ私は、どうするの。
呼吸を一つ。
もう一度、モニターを開いた。
彼は、ただ静かに、こちらを見ていた。
そして、私も――見返した。
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