第1話:水槽の中にいるのは
――息をしていないことに、気づいた。
エレベーターの中は無音だった。
天井の照明が白く光り、壁に浮かぶ数字がゆっくりと減っていく。
「B2」「B3」「B4」……そして、「B5」で止まった。
軽い振動。
扉が静かに開く。
目の前に広がったのは、白だけの世界。
廊下も壁も天井も、均一な白で塗りつぶされている。
消毒液の匂い。
遠くで機械の低い音が鳴っている。
――まるで、病院の中に閉じ込められたみたい。
「おい、新人。」
不意に声がして、肩が跳ねた。
振り向くと、無精ひげの男が立っていた。
名札には〈久保〉と書かれている。
「案内役の久保だ。ついてこい。」
その声には温度がなかった。
私は慌てて返事をして、後を追う。
靴音が響く。
どこまで歩いても景色が変わらない。
白い廊下の中で、足音だけが現実を確かめてくれていた。
「……ここって、本当に地下なんですよね?」
「そうだ。地上とは隔絶されてる。」
久保さんは振り返らずに言った。
「音も、光も、外の空気も入らねぇ。ここでは、何も“動かない”んだ。」
何も動かない――その言葉が、廊下に沈んでいく。
やがて自動ドアが開いた。
白い光が、さらに白い空間を照らす。
「ここが《REFLECTOR》の監視室だ。」
思わず息を呑んだ。
壁一面に並ぶモニター。
円形の部屋の中央には操作卓。
白衣を着た研究員たちが黙々と画面を見つめている。
打鍵音と空調の音だけが響く。
冷たいのに、どこか生きているような空間。
――音が、人間のリズムじゃない。
「座れ。こっちの端末が今日からお前の席だ。」
指示に従って席につくと、目の前のモニターが光った。
画面の中央に、青白いガラスの箱。
水の中に、人影。
息を飲む。
男が、膝を抱えて座っていた。
髪が水に揺れ、顔がほとんど見えない。
それでも――生きている、とわかった。
「……この人は?」
「被験体#07。“ユウ”だ。」
久保さんが淡々と答える。
「任務は単純だ。状態を監視し、変化を記録する。それだけ。」
そう言って彼はコーヒーを啜った。
「動かないんですか?」
「動かねぇな。……でも、見てると“動いた気がする”んだよ。」
「え?」
「錯覚だ。けど、“錯覚”で済むかどうかは、お前次第だ。」
久保さんは、笑っているのかいないのか分からない表情で言った。
私はモニターを見つめる。
水槽の中のユウは、まったく動かない。
それでも、なぜか――呼吸の音が聞こえた気がした。
ごく、り。
自分の喉が鳴った。
「……ほんとに、生きてるんですよね。」
「生きてる。少なくとも、昨日まではな。」
冗談のような言葉。
けれど、誰も笑わなかった。
モニターの光が顔を照らす。
まるで、私の表情を“観察”しているみたいだった。
「なぁ、久保さん。これって……」
「じっと見過ぎるな。」
彼が唐突に言った。
「長く覗き込むと、向こうからも“返してくる”。」
声のトーンは変わらない。
でも、ほんのわずかに低くなった。
「“返してくる”って、どういう――」
「ま、そのうち分かる。」
その言葉のあと、久保さんはコーヒーを飲み干した。
私はもう一度、モニターを見た。
――目が、合った。
ユウが、ゆっくりと顔を上げた。
水の中なのに、はっきりとした視線。
心臓が一拍、強く跳ねた。
息が止まる。
モニター越しの瞳が、私を射抜いている。
ガラスの向こうから、まっすぐに。
“見られている”。
その感覚に、背中の皮膚がざわついた。
冷たい空気が、喉の奥まで入り込んでいく。
――そんなはず、ない。これは映像だ。
わざと瞬きをして、視線を外す。
けれど、その一瞬。
画面の中で、ユウの唇が――微かに動いた。
“見ているのは、お前だろう?”
……声にならない声が、脳の中に響いた気がした。
「っ……!」
椅子を引いて立ち上がる。
背後で久保さんが呟いた。
「……見返されたか。」
私は振り返る。
久保さんの顔は、淡い光に照らされて半分しか見えない。
「安心しろ。それで正しい。“観察”ってのは、そういうもんだ。」
「……どういう意味ですか?」
「見た瞬間に、もうお前も“観察されてる”ってことさ。」
淡々とした声が、妙に冷たく響いた。
私はもう一度モニターを見た。
ユウは、動かない。
ただ、あの瞳だけが、私を映していた。
――いや、映っていたのは、“私”じゃない。
画面の中の“私”は、ゆっくりと、笑っていた。
頬に手を当てる。
笑っていない。
なのに、モニターの中では――確かに笑っていた。
ピッ。
機械の小さな電子音が鳴る。
モニターの隅に文字が浮かぶ。
<Log: REFLECTOR-07 / Online>
電子音のあと、どこからともなく“水の落ちる音”がした。
――ぴちゃん。
私は顔を上げる。
室内には誰もいない。
モニターの中では、ユウが目を閉じていた。
まるで眠るように。
だけど、その唇はわずかに動いた。
“また、見に来い。”
……そう言った気がした。
私は席を離れ、廊下に出た。
空気が冷たく、呼吸が重い。
歩きながら、足音が自分の後ろから追いかけてくる気がした。
――誰もいないのに。
振り返ると、廊下の奥のモニターがひとつだけ光っていた。
そこには、私の後ろ姿が映っている。
そしてその画面の中の“私”が――遅れて振り返った。
……一秒遅れで。
私は、息を止めた。
白い光の中で、静かに思う。
――見ていたのは、私じゃなかった。
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