第8話 雪乃物語


 辛酉しんゆうさん、

「夏子さん面白い方ですね。秋田生まれですか。どこか私の祖母に似ている。私は祖母を写真でしか見たことがないんですが。

 次は、その祖母の話をしますね。亡くなった立身午未ごびの妻、雪子の話です。


 釣った魚と武勇伝はどんどん大きくなるのが通り相場ですからね。立身午未たつみごびは、先斗町ぽんとちょう舞妓まいこと駆け落ちして逃避行、秋田に隠れ住んで二度と京都に戻ることはなかった、というのが今では定番のストーリーとして語られているようですが、事実はそんなにドラマティックなものではありませんでした。


 四条河原町の我が家、祖父の生まれた家で、私が今も住んでいる家です。その家の隣に、富屋とみやという置屋おきやがありました。舞妓まいこハンの住む家ですね。戦中戦後の混乱ですたれた花街はなまちが、やっと活気を取り戻したころ、昭和二十四年頃です。その富屋のお母さんが、京都駅前で見つけた家出娘を連れてきて仕込みさんとして面倒を見始めたんです。東北出身の色白娘で名前は雪子、私の祖母です。宝塚に憧れて出てきたものの、親の承諾も何も無い家出娘でしたから、宝塚では門前払いで、行くあてもなくウロウロしていたところを拾われたわけです。

 今は置屋の仕込みさんと言っても、親の承諾と歌舞練場の鴨川学園への入学が必要ですが、当時はまだまだこの辺の決まりはユルユルでしたからね。

 掃除洗濯、買い物と甲斐甲斐かいがいしく働く姿は、ご近所でも評判になり、特に隣りに住む漆職人の曽祖父は雪子ちゃん雪子ちゃんと可愛がっていたそうです。

 約一年の仕込みのあと、お母さんに認められて見習いさんになる日、富屋のたった一人の舞妓まいこ松乃まつのさんと姉妹杯しまいさかずきを交わすために、歌舞練場に向かう道すがら、白塗り化粧に割れしのぶ、半だら帯にポックリで、ご近所に挨拶して回る雪子さんは、それはそれは可愛かったということです。

 そして、仲人なこうどを務めるお茶屋のお母さんから雪乃の名前を授かり、舞妓生活が始まったわけです。

 昭和二十年代の京都では、絶滅危惧種のときがやっと増えだした、と同じような感覚で、舞妓さんをそれはそれは大事にしていたとのことです。

 ところが一月後、店出しの挨拶回りが終わったあと、黒紋付姿の雪乃さんにお姉さんの松乃さんが、

『これで富屋に舞妓がもう一人、ワテがいつやめても大丈夫や』と言い残して、次の朝にはドロン。

 そうです。事件を起こしたのは松乃さんなんです。柳行李やなぎごおり一杯分の正絹しょうけんの着物とお母さんから預かったポッチリを持って消えてしまったんです。

 あとで分かったことですが、その頃お茶屋にアメリカ軍のお偉いさんが来ることがあったのですが、それに同席した通訳の若い将校と一緒に、松乃さんはカリフォルニアに逃げたんです。

 私の祖母雪乃は、その騒ぎで初めて、お姉さんの松乃さんが富屋のお母さんの実の娘だったことを知りました。

 舞妓になりたての雪乃を一人でお茶屋に出すわけには行かないので、富屋のお母さんは、まだ四十を超えたばかりでしたから、自分からご存知ぞんじさんとなって芸妓げいこに戻り、雪乃と一緒にお座敷に上がって、三味線で地方じかたを務めたということです。その後、雪乃の下にも妹舞妓が少しずつ増えて、雪乃がえり替えを済ませる頃には、富屋には妹舞妓が三人になっていたということです。

 雪乃が芸妓げいことなっても一番人気でご指名が多く、お茶屋のお母さんから身請みうけ話がいくつもあったと聞いていますが、富屋のお母さんは芸は売っても春は売らないという硬いお方でしたから、そんな話は全て断って、年季が明ける日を迎え、富屋のお母さんは何と、隣の我が家、立身漆器店にワンピースに着替えた雪子を連れて、私の曽祖父の立身吾平ごへいに挨拶に見えて、

『突然ではございますが、できればこの娘をこちら様の息子さん、午未ごびさんの許婚いいなづけにしてはもらえないでしょうか』

と申し出たということです。

 雪子が仕込みさんの時から可愛がっていた吾平は、欣喜雀躍きんきじゃくやく、祖父午未ごびに何の話もせずに、

ねがったり、かなったり』

と快諾。

 ちょうどそこへ、大学病院でインターンをしていた午未が、たまたま早めに帰宅。吾平の

『あんさん、雪子を嫁にせんか』

の言葉を聞いて、その場に立ち尽くすこと数分。

 そして、

『ええよ』

と返事をして、なんと急転直下、二人の結婚が決まったのです。なんのドラマもありません」

 ここで辛酉さんが、ゆっくりと阿櫻あざくらの枡にも口をつけた


 頭が急に燃えた。スイッチが入る。私は熊ん蜂ドローンになった。辛酉に自爆攻撃だ。これがドラマじゃなくて、何がドラマなのよ、このオタンコナス。

 医者の卵とはいえ、立派な大の大人の男が、数分とはいえ熟考じゅっこうし、生涯の伴侶を決めたんだぞ。辛酉、あんたにそれができるか。私と結婚すると決められるか。

 それが出来そうだとわかったら、こんどは熊ん蜂ドローンじゃなく、生身でぶつかって行くから覚悟しろ。

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