第9話 雨の日の依頼者

 雨が降って来ていた。しとしと、という雨音が窓越しに聞こえる。

 その日も十八時になったので、祈はクリニックのプレートをかけるため、正面扉を開けた。


「わわっ⁉」

 そこにびしょ濡れの女性が無言で佇んでいたので、祈はひっくり返りそうになった。

 三十歳頃の年齢で、黒髪に黒いインナーとロング丈のスカート。薄手のパーカーも黒だ。

 痩せていて、ほとんど化粧をしておらず、仮面様顔貌といえばいいのか、表情変化は皆無であった。生気のない目で女性は祈をじっと見た。髪や服から雫が滴っている。


「ここに来れば息子に会えると聞きました」


 女性の唇から発された抑揚のない小さな声を、祈はかろうじて聞き取った。

 幽霊という可能性が頭をよぎり、何と返答すればいいのか完全に困惑していると、女性の背後から足音が聞こえてきた。


 女性と同じぐらいの年齢の男性が傘をさしつつ足早に、クリニックの入り口にやって来た。女性を追いかけて走ったのだろう、足元のズボンは跳ねた雫でぐっしょり濡れている。


「すみません。予約していた天野です。こちらは妻なんですが、駐車場に車を止めていたら、いきなり走って行ってしまって」

 柔和な顔立ちで、祈に対して申し訳なさそうに告げた。

 前の通りの向かいに薬局と共同で利用しているクリニックの駐車スペースがある。どうやら女性はそこから雨の中、傘もささずにやって来たらしい。


「予約患者さんだったんですね、中へどうぞ!」

 女性の正体とわかったのと家族が現れたことに安堵しつつ、祈は二人を中へと案内する。

 夫は、「ああこんなに濡れて」と持っていたハンカチで妻の顔を拭いたが、彼女の方は夫に視線をやることはなかった。



 枝垂れ桜が揺れる中、祈はタオルとドライヤーを手に、女性の髪や服を乾かしていた。

 女性はされるがままになっている。この時期の雨は冷たいはずなのだが、何も感じていないようだ。拭いてみると唇や肌は乾燥しており、脱水傾向なのがわかった。爪も伸びており、自分で身だしなみを整えることも難しいのかもしれない。


 女性はこの部屋に入った時のみ花の存在には気付いて、一瞬だけ顔を上げた。だが、今はまた何事もなかったように俯いている。


「息子さんを亡くされてから、毎晩枕元で『お母さん一緒に行こう』と招いているのが見えている、ということですね」

 診察をスムーズに行うため、予約メールから内容を把握していた幸人は、夫に尋ねた。


 女性の名は天野あまの愛紀あきという。夫は頷いた。

「はい。それで別の病院で統合失調症の疑いがあるということで、お薬も出してもらったのですが……飲んでくれなくて」


 統合失調症とは考えがまとまらなくなり、幻覚や妄想といった症状が出現する精神疾患だ。他にも感情表現が乏しくなったり、物事の判断をする機能が落ちてしまったりといった症状も起こる。神経伝達物質の乱れや大きなストレスなどが発症の要因なのではと言われているが、はっきりとした原因はいまだに解明されていない。

 彼女の場合は、息子を亡くすという不幸に見舞われたことが要因の一つだったのかもしれない。


 祈は目の前の彼女のやつれた姿に心が痛んだ。なるべく表情には出さないように頑張ったが、その辛さは想像するに余りあるものだった。

 幸人はそんな祈をちらりと見やった。表情に出さないように頑張っているのに、何となく感情が滲み出ており、わかりやすい。とはいえ、今は診察中なのでそれを指摘することなく、夫から預かった薬手帳に目を通した。


「確かに一般的な抗精神病薬が処方されていますね」

「薬は必要ありません。本当は病院にも行きたくなかったんです」

 愛紀は幸人の言葉を遮るように、平坦な声音で言った。

「いつも途中で消えてしまうの。だから、息子に会いたくて」

「ここは霊的観点からも診て下さると伺いました。だからその……妻も納得するかと思って」

 夫の言葉に、幸人は真摯に頷いた。


「そうですね。まず、こちらに来て下さって良かったです」

 祈も同調するようにうんうんと頷く。まずはクリニックに来てもらえただけでも、大きな一歩だ。

 まだ祈は、怪異や幽霊が実際に見える人にそれほど多く会ったわけではない。

 彼女の髪に湿り気がなくなったのを確認すると、祈はドライヤーの手を止め、幸人がどのように話を進めていくのか見守った。


「天野さん。一つお伺いします。このお部屋に花があるのは気付かれていますか」

 幸人の質問に、愛紀はかろうじて頷いた。

「……はい」

「花、ですか?」


 夫は不思議そうな表情を浮かべて左右を見渡した。彼の目には、普通の診察室にしか見えていないのだ。

 そして確実に幸人は診察室に入った瞬間の彼女の様子に気付いている。それでもあえて確認するのは、彼女が本当のことを医療者に伝えられるのか、判断をするためだ。


「息子さんがどのように呼んでいるのか、伺ってもいいですか。ゆっくりでかまいません」

 幸人の言葉に、祈は隣で柔らかい声音で言い添えた。

「辛かったり、苦しくなったりしたら、無理をしないで大丈夫ですからね」

 診察や治療のためとはいえ、辛い思い出を含めて自分の口から語るのは大変なことだ。聞く医療者の相槌だけでなく、一挙手一投足にも配慮が求められる。

 愛紀は視線を一度左上へやった。


「どんなふうにかは、わからないです。でも、呼んでるの。声が私を責めるの。ごめんね、って言いたくて、でもいつも途中で消えてしまうから伝えられないの」

 視線の動きは必ずしも、というわけではないが患者の思考を読み取れる。

 左上を向くと過去の視覚情報を思い出そうとしているのだ。逆に右上を向くのは物事を想像する動きだと言われている。

 愛紀は治療や診察に拒否的ながらも、実際に過去にあったことを、彼女なりに伝えようとしてくれているようだ。


「君は悪くないよって伝えているんですが、やっぱり自分を責めてしまうみたいで……」

 夫は自分の無力を感じているのか、ゆっくりと嘆息した。

「本当にお辛い思いをされていたんですね。でも、今のままだとしんどい気持ちが続くので、不安を和らげるお薬などを考えてもいいかもしれませんね」

 すると幸人の言葉に愛紀はきっぱり返した。


「息子に会いたいのでいりません」

 幸人はある程度彼女の言動を予測していたのか、なるほどと落ち着いた様子で頷いた。


「息子さんに会いたい、という思いはわかります。でしたら、そのお気持ちと、不安を和らげて、ゆっくり休むということを分けて考えてみてはどうでしょうか」

 愛紀は緩慢とした動作で首を横に振る。


「もういいです。ほら、ここもダメだった。あの子に会えるのなら、私は死んでもかまわないのに……」

 彼女がパーカーのポケットから取り出したのは、カッターナイフだった。突然のことに夫はぎょっと目を見開き、幸人が素早く立ち上がる。

 祈も息を呑むと、その刃先が彼女自身を傷付ける前に、考えるよりも早く愛紀の両腕を抑えにかかった。

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