第10話 クリニックの夜勤
そこからは怒涛の大騒ぎになった。
愛紀が大号泣して、隣の処置室にいた布施川も椅子ごと駆け付けた。
幸いカッターナイフは離してくれたのだが、完全に彼女は感情のコンロトールが出来ていない状態だった。今度は手で自分の首を絞めようとしたのだ。
夫が押さえつけ、布施川と祈で処置室の奥に移動してベッドに座らせる。
興奮した彼女を幸人は何とか説得させ、点滴から鎮静剤を投与したのだ。
彼女が眠っている間に診察を再開させたが、その後に待っていた患者の診療は遅れに遅れた。陰陽科の診察人数は少ないはずなのに、この日は結局全患者の診療が終わったのは夜の十時近くになっていた。
「終わった……」
祈は最後の患者を見送って、診察室に戻って来た。
「綾視さん、お疲れ様でした」
「おつー。といってもまだやること残ってるけどな」
幸人は息をつくと、処置室の方へ視線をやった。薄手のカーテンが引かれたその向こうで、鎮静剤が効いているのか、愛紀はまだベッドの上で眠り続けている。
ひとまず夫が迎えに来るまで、彼女の様子をこちらで見ることになったのだ。
というのも、愛紀と夫がここに来るまでの道中に夫の母が入院をしたという連絡が入っており、夫は愛紀の診察後すぐに病院に行かなければならなかったのだ。
正直、今の彼女を家に帰して一人きりにするのはかなり危うい。かといって一緒に病院に行くのも病状を考えれば難しい。そういう理由から、彼女の様子をこちらで診ることになったのだ。
『ご迷惑をおかけしてすみません……』
帰り際、夫はすまなさそうに頭を下げた。それに対して幸人はこう返した。
『本当に死ぬ気なら、ここで刃物を取り出したりしません。きっと止めてもらえるって心のどこかでわかっていたんだと思います』
『そう……ですよね。本当なら仕事を休んででも傍にいないといけないのに』
子供を亡くして辛いのは夫も同じだ。だが彼は、気丈に顔を上げると、『妻のことよろしくお願いします』と告げ、母親の件が終われば、すぐに迎えに来ることを約束した。
幸人は白衣を脱いで、椅子にかけた。
ううん、と両腕を上にやって伸びをする。
「奥さんもだけど旦那さんもしんどいですよね。大丈夫かなあ……」
祈は二人の様子を思い返して、心配の表情を浮かべた。
「奥さんを支えることで、自分の気持ちを保てているところはあるかもしれないな」
幸人は机の隅にある毬藻の小瓶を眺めながら、呟いた。この毬藻は幸人が弟から、土産でもらったものだそうだ。
「旦那さん、こっちに戻れそうかしら」
布施川はすいっと椅子に乗って移動しながら尋ねた。
「どうでしょうね。もし緊急手術とかなら病状説明や同意や、入院の支度もあるだろうから、お迎えは結構遅くなることは覚悟しないといけないかもしれないですね。
……そういうわけでどなたか、一緒に残ってくれる人はいませんか? もしいたら、心強いなあー」
「残ってあげたいんだけど、今日娘が家に来てるのよね」
布施川は申し訳なさそうに言った。
「あ、私良いですよ」
祈は手を挙げた。夜勤は慣れている。一人暮らしなので、家に帰っても寝るだけだ。
すると幸人は目を細めて「助かる!」と手を合わせた。
「怪我しないように気を付けてね」
先程の騒ぎを受付から聞いていた鈴宮は心配そうに伝えた。
「ちゃんと手当と……何時に終わるかにもよるけど、働いてくれた分はどこかで休みとってくれたらいいから」
幸人の言葉に祈はとてもとても感動して、拳を天井に突き上げた。
「良かったーっ、ちゃんと残業代と休みが出る!」
すると幸人は驚いて目を見開いた。
「前の病院ブラックすぎるだろ! 辞めて正解だぞ!」
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