第27話

「遅い」

 頬を打たれたように鋭い声だった。

 瞬きすると、ジロリと睨まれる。水野くんの三白眼気味の目を見つめて、なんで怒られてるんだ?と疑問がわく。

「あの…」

 もうええわ、と水野くんは背を向けて自分作品の前に戻った。

 視聴覚室について最初に怒られて、どこか納得がいかない。遅いも何も、部活の時間は自由だし何か約束をした覚えもない。

 チラリと水野くんの方を見る。すると、大きなキャンバスに目線が吸い込まれた。息を飲む。そこには、老若男女問わず大勢の人間が所狭しに並んでいた。

 一見、グロテスクに見えるそれは力強い筆跡で躍動感がある。不思議と爽快さもあって、目に飛び込んでくるような迫力を出している。

 分からないけど、伝わってくる。

 情熱とか熱意とか、そういったものじゃない。ただ内にある熱いもの。定義付けた瞬間に崩れてしまう剥き出しの感情。感想を言葉にするのを躊躇う。

 何も言えず立ちすくんでると、水野くんは「しょうもな…」と言いながら黒いリュックを開ける。小柄な彼が、この壮大な作品の作者なのかと思うと背筋が伸びる。

「これ」

 水野くんは何か取り出して、僕の胸に押し付けてきた。咄嗟に受け取る。手を開くと、見慣れたUSBがあった。

「橘が寄越してきた」

 弾かれたように水野くんを見る。「なんで」と声が出たところで、分かってたように手で制される。水野くんは面倒くさそうに口を曲げた。

「自分で渡せ言ったんやけど、飛行機の時間がどうとかで俺に渡してきよった」

 そのままキャンバスの前に座って胡座をかく。水野くんの背中は「それ以上は何も知らない」と言ってるようだった。

 視線を落とす。USBがずっしり重く感じて、手のひらに冷や汗が滲む。このUSBは、いつも彼が撮ったモノローグを入れてるものだ。

 彼は本当に海外に行って、向こうに住むのかと一瞬考える。噂と現実が交差して、彼のイメージがうまくできない。

 ただ、ここに彼の実像がある気がしてぎゅっと握り込んだ。

「明日帰ってくるんやって」

 心臓が跳ねた。思わず胸元のシャツを掴む。

 どうしてって思う。

 知りたいことも聞きたいことも、一緒にいた時間に僕たちは何も共有してなかった。じゃあどうすれば良かったのか、それも分からない。

 もっと、彼のことを聞きたい。僕が取りこぼしたもの、どんな些細なことでも。

 それなのに口に出たのが「連絡したの?」というなんとも間の抜けた質問で、水野くんは振り返って顔をしかめた。 

「それ渡された時に言われたんや。それこそ本人に言えっちゅー話や」

 他にどんな話をしたのか聞きたかったけれど、水野くんは背を向けて座ってしまった。絵と向かい合って細い筆を掴む。もう水野くんは絵の世界に入ってしまった。おじいさんの瞳を描き込む水野くんは、ピンと背筋が伸びている。一人だけ高いところにいるような、凛とした佇まい。きゅっと口を結ぶ。

 その背中を見ていると、前に水野くんが言っていた言葉を思い出す。

───俺はずっと逃してる。

 何に?とあの時は聞けなかった。けれど、今その言葉は現実味を持って、僕に迫っている。

 僕も、ずっと逃している。おそらく水野くんより多く。

 鈍臭い僕は、チャンスとか幸運とかをいつも取りこぼしている。掬った砂が指の間から溢れるのをただ眺めるように、自分を諦めている。水野くんも、そうなんだろうか。

「……水野くん。あれから、手に入れられたものってある?」

 ピタッと筆が止まる。それから、ゆっくりとパレットの絵の具を混ぜた。

「…たまに、追いかけてたもんが全部夢だった気になる」

 再び絵筆をのせる。どこか諦めていて、彼らしくない口調だった。らしくない、と言っても結局僕は水野くんの全てを知らない。

 キャンバスを見上げる。絵の中にいる人々は僕たちの話にじっと耳を澄ましてるようだった。この怖いほど生々しく剥き出しの絵が、儚い心から生まれたとは思えない。

「それでも描くしかないんや」

 少し掠れた、自分に言い聞かせるような声だった。

 水野くんは咳払いをする。汚れた指先をツナギで拭う。彼の脆く柔らかいところが、一瞬見えた気がした。

 なんとなく、分かる。

 辛くても苦しくても、完成したその先に何もなくても、創り続けるしかない。作品の意味や価値は後からついてくる。とにかく僕は創って、前に進むしかない。

 ふと、人との関わりも、一緒なんじゃないかと思う。根底にあるのは、その人を諦めない気持ちなんじゃないか。

「……ほんまにしょうもな」

 水野くんがボソッと呟く。こちらに顔は向いてないけれど、眉間に皺を寄せてる顔が思い浮かぶ。その声はぶっきらぼうで、どこか温かい。

 手のひらにあるUSBを握る。文化祭まであと一週間。彼に聞きたいことや知りたいことがたくさんある。けれど、今は創る。

 水野くんにお礼を言うと、また大きなため息をつかれた。

 窓から差し込む西陽が僕の手のひらを照らす。じわじわ温かくなる手を握り込み、油絵の匂いを胸いっぱいに吸いこんだ。

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