第28話

 心臓が痛い。

 流れていく景色の中で、自分の荒い息しか聞こえない。このゆるやかな坂道の向こうに、橘くんの家がある。

 涙の跡で頬がひりつく。暗い空からポツポツと雨粒が落ちてきて、無性に泣きたくなった。頬が濡れる。雨なのか涙なのか分からないまま全力で走る。

「っはぁ……はぁ…」

 肺が潰れそうなほど、苦しい。けれどこんな苦痛じゃ足りない。

 やっと彼の家が見えて、もつれる足で近づいた。何度も来た彼の家は、前と少しも変わってないようだった。

 弾んだ息を整えて、恐る恐る、チャイムを鳴らす。雨の音が強くなるばかりで、誰もいない。もう一度鳴らしても、静まり返っている。うるさい胸に手を当てる。シャツを掴んで、緊張と焦りを落ち着かせる。

 玄関の段差に座り込んで、激しい雨を眺めた。前髪が雫を作ってポタポタ落ちる。今更、彼がいつ帰ってくるのか知らないことに気がついた。

 濡れた自分の身体をギュッと抱きしめて、目をつぶる。

 渡されたデータの、彼の声を思い出す。モノローグを語る声は少し儚げでラストシーンによく合っていた。

───最後に主人公は部屋で夢から目を覚ます。全ては夢だった。地球は滅ばず、男の日常は続いていく。

 初めて彼の家に来たのは、そのラストシーンの撮影の時だった。まだ映画を撮り始めたばかりの、六月の初夏。僕も彼も妙に緊張して、珍しく何度も撮り直した。青シソのパスタを作ったら、彼はおかわりをした。そんな思い出が胸をくすぐる。あの頃の僕たちは、キスをしなかった。

 身体が冷えてきて、手に力を込める。こんな時期に風邪なんて引いたら、と頭の片隅で考える。けれど帰れない。

 彼に謝らないと。

 みっしりと書き込まれた脚本と、演技プランや関係ない日記のようなメモ。あのUSBには、モノローグの他にそんなデータが入っていた。

 脚本について、自分が思ったことをメモするようにアドバイスしたら、橘くんはその日からやり始めてた。

『いろんな映画を見て研究する。考えたことは言葉にする』

 これも僕のアドバイスだ。メモはこの一言から始まる。日付も書かれたそれらは、徐々に文量が増えていった。丁度この頃から、彼の演技は鋭くなった。才能もセンスもある。けれど、彼の演技は思考の積み重ねの結果だった。雨の音が立ち上るように響く。

 一瞬、無音になる。雨は止んでいないのに、しんと音がなくなる。轟音に慣れてしまって、何も感じなくなっているのかもしれない。痛みとか苦しみも、きっと同じだ。だから彼がいつ離れても傷つかないように、覚悟をしてきた。

 このまま雨が止まなくて、彼と二度と会えなかったら。そんなことを考えて、蝋燭の火が揺れるように不安になる。けれど、橘くんに伝えなきゃいけない。謝らないといけない。もし雨が止まなくても、雪が降っても、僕はここに座り続けるだろう。今度は諦めちゃいけない。

 諦めそうになる時、いつもあのトロフィーを思い出す。もう今では、それを撫でた彼を思い出すようになった。

「カントク……?」

 声がした。

 顔を上げると、大きなキャリーを持った彼がいた。ずっと待っていた。雨が降る前から、映画を作る前から、きっと初めて彼の後ろ姿を見た時からずっと、彼が僕を見てくれるのを。

 彼は持っていた傘を捨てて、まっすぐ走ってきた。

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